nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【KYOTOGRAPHIE 2022】R4.4/9~5/8_10個の本体プログラム全体を通じて

10周年を迎えた「京都国際写真祭・KYOTOGRAPHIE 2022」、今回はテーマタイトル「ONE」を掲げ、いつもと変わらず多彩で多様な写真表現を、様々な建築空間をふんだんに用いて展開している。

本稿では、会期1日前に催されたプレス内覧会の様子を元に、KYOTOGRAPHIE本体・全10プログラムの概要を独自解釈を交えてお送りする。

 

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【会期】R4.4/9~5/8

 

※プレス内覧会では、基本的に会場・作品撮影が自由であったが、後の一般公開では展示会場によって作品の個別撮影が不可となった。私が使用しているのはプレス内覧会のものであることを承知いただきたい。

 

現在、新型コロナ感染流行第6波が感染者数下げ止まり・横這いのまま、いつの間にか流行が収まったかのような扱いになっているが、全国でまたじわじわと微増傾向を見せたり、先週比で微減を見せたり、また減ったりと、「第7波」の到来を懸念されつつも、何となく人流が増えたままでGWを迎えそうな雰囲気である。とにかく、何となく無難な状況でKYOTOGRAPHIEが開催されてよかったと思う。

 

KG全10プログラムを見て回り、私が個人的に見出だした意味や繋がりについて書きまとめてみる。KG運営側や作家陣の主旨や意図と大いに反する点、誤読も多いにあろうが、あえて自由に接続を行ってみたい。

 

 

1.KG2022「ONE」開催概要

展示会場MAP。赤ナンバーの10会場がKGのメインプログラムで、青ナンバーの3会場は「アソシエイテッド・プログラム」。今回紹介するのは主に赤い方だ。
なお、各プログラム番号は本文で【 】で記載する。

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開催地は、京都市内の中心部(四条烏丸烏丸御池と、祇園四条あたり)と、出町柳(出町桝形商店街、KYOTOGRAPHIEサテライト施設「DELTA」の組み合わせ)、そして離れポイントとして琵琶湖疎水、平安神宮付近(京都市美術館・別館)の組み合わせで、ほぼ例年通りだ。特に2020年秋に「DELTA」が設置されてからは、出町桝形商店街と併せての展開は定番となっている。

 

今回のタイトル「ONE」には「一即(すなわち)十」の意がある。

解説を引用すれば、「一が単一性を、十は無限を表し、一つの個が他のすべて・全体を自らに含みながら他と縁起の関係にあり、それらは同体の関係にある」との思いが込められている。

毎回テーマタイトルが冠されるが、展示プログラムが全方位的に多様性をまんべんなく確保していることに加え、タイトルの語自体が非常に大きな意味を持つため、個々の展示との結びつきは強くない。今年も同様で、あまりこだわりなく鑑賞できる。ただ、世情がシリアスを極める中、ある程度タイムリーに呼応したテーマで観たい=写真の有効性を更に実感したいという思いもある。(2015年の「TRIBE」(部族)なんて、なかなか鋭くて良かった。)

 

本体プログラム数が10個というのは、かなり少ない。例年、13~15個ほどの本体プログラムがある。ざっと見たところ、開催から間もない2014年、2015年で既に15プログラムもある。いつも本体を回るだけでも苦労した(嬉しい悲鳴)ものだが、今回は良くも悪くも1日でサッと回れてしまう。

その分、青のアソシエイテッド・プログラム3つが近接しているので、それらを本体の一部と見なして鑑賞するべきだろう。特に、【12】殿村任香のがんサバイバー女性らのポートレイト展示は、【3】「10/10 現代日本女性写真家たちの祝祭」とリンクする(殿村は両方に出展してもいる)ため、必見だ。

ただ、アソシエイテッド・プログラムの位置付けは展示ごとに全く異なり、入場料金も別扱いである。何必館京都現代美術館の展示【13】ペンティ・サマラッティ「北欧、光の調べ」は事実上本当に別物で、やや強引な気もするが、見落とさずに回れるという意味ではよい関連付けにはなっている。

 

 

丁度、入場料金の話が出たので触れておこう。

料金システムも例年通り、無料会場もあるが、大がかりな展示では個別に料金が発生し、全会場1回ずつ入場可能な「パスポート」を買うと割安となる。しかし今回はパスポートが5,000円(前売り4,500円)と、えらく高額になった。

過去を振り返ると、2018~2021年のパスポートは4,000円、それ以前は3,000円前後と、回を重ねるにつれ金額が上がっている。これはKYOTOGRAPHIEという催し自体が右肩上がりに大規模・ゴージャスになっていく流れと呼応していて、毎年通っていた身としては納得感があった。コロナ禍直前の2018年、2019年あたりは顕著で、BMWの無料送迎車がぐるぐる巡回し、展示形態も額装された写真プリントに留まらず、空間自体を写真化する大掛かりな舞台芸術へと変質していった。

すると、プログラム数が減り、いち会場あたりの展示ボリュームも決して増していない(むしろシンプル化している面もある)今年の状況を考えると、割高と言わざるを得ない。私のような写真界隈の身内の人間でさえも割高感を覚える。

これは後述するが、シンプルに資金繰りの課題が直結していると思われる。

 

 

2.従前との違い:新型コロナ禍でのKGとして

最も大きな変化は会期で、秋会期から従来の春会期へと戻ったことだ。

KGは毎年春開催(4~5月)のイベントとして定着していたが、2020年、まさに新型コロナの本格的な国内流行に見舞われ、第1回目の緊急事態宣言の発令などもあり、会期を秋(9~10月)に延期するという措置が取られた。この時は延期してでも開催できたこと自体が奇跡のように思われた。

続く2021年も、まる1年の期間をおいて秋会期にて開催された。出演作家や会場の調整、資金・スポンサー確保等の準備期間を十分に見込んだものと思われる。

 

それがここにきて春会期に戻された。10周年という区切りの回でもあったためかも知れないが、前回開催からたった半年、つまり通常の半分の準備期間で今回KGが開催されている。内情は全く知らないが、その苦労がプログラム数や展示ボリューム、会場に伺えるところでもあった。それは「何かがいつもと違う」(大人しい、小さい)という直感的なところでもあるが、何より「KYOTOGRAPHIE開催10周年」という節目の回であるのに、言われなければ10周年と気付かない慎ましさに何より現れていたと思う。そう言わざるを得ないぐらい新型コロナ禍以前はゴージャスな祭典だったのだ。

 

もう一つの変化は、クラウドファンディングでの資金調達が行われなかったことだ。

新型コロナ禍以降のKGでは企業の協賛金が減少したため、開催と継続が危ぶまれ、2020年、2021年と続けて支援の呼びかけがなされた。出資者の内情は不明ながら、いずれも目標額の1千万円を突破し、資金集めとしては大成功の形であった。

世界経済の状況を見ると、この1~2年間で特に好転しているとも思えない。新型コロナも世界各国で感染再拡大と収束とを繰り返していて安定がなく、様々な資材の輸出入が混乱を来している。さらに今年2月末からのロシア軍のウクライナ侵攻という大惨事が様々な点で世界経済の混乱や物流の悪影響に拍車をかけている。

そんな中、今期のKG開催・運営に係る資金繰りについては一切アナウンスされず、クラウドファンディングもなく、いち観客としては凪のように静かに開催を迎えた感がある。スポンサーから出資を募るのも楽なはずがなく、大変な苦労があったかと察するが、その分、パスポート料金の値上げなどに跳ね返っていると想像する。

 

 

では、展示の内容に触れてみたい。

 

 

3.女性の美と意思の変遷 ~戦後・20世紀の美~

多彩なテーマを並列的に扱う中で、際立って個別具体的なテーマだったのが「女性」である。【3】「10/10 現代日本女性写真家たちの祝祭」が今回のカラーを決定付けたと言っても過言ではない。

 

今回の主砲級の展示は、【1】ギイ・ブルダン「The Absurd and The Sublime」、【3】「10/10 現代日本女性写真家たちの祝祭」、【6】アーヴィング・ペン「Irving Penn: Works 1939-2007. Masterpieces from the MEP Collection」の3つで、展示規模や密度、写真史上の重要性などの点で突き抜けている。

 

ギイ・ブルダンとアーヴィング・ペンは名実ともに歴史的な写真家で、彼らが切り拓いた境地は今となっては古くて新しい「古典」と呼ぶに相応しい。この両者をまとめて観ることが出来たのは大きな収穫だった。

 

ここに私は「かつての」――戦後・20世紀における女性らの美と意思の在り様を見た。

 

ギイ・ブルダン(1928-1991)はファッション・広告分野で活躍した写真家で、1955年の仏『VOGUE』誌掲載を皮切りに、60~80年代に代表作を多く残した。鮮烈な美と消費主義のど真ん中を彩りながらも、根底にはシュールレアリスムの世界観があり、華やかな欲望とセックスの舞台が孕む光と影とを現わしている。作品世界はサガの迷宮である。

 

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展示会場は螺旋型で優雅かつ妖艶な美を放っていた。この造形美・空間美はこれまでの同会場の展示の中でも随一だと思う。歩を進むにつれて「美」の迷宮へと、奥へ奥へと深入りしていき、抜けられなくなる。作品世界を象徴する構造だ。

 

作品の主役もまた、妖艶を体現した女性である。強い香水に酩酊するように高濃度のエロスの世界が繰り広げられる。

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女性らは性と美の密室・迷宮の内で秘められた自己を解放する。いや。モデルの女性らは観客のいない現実の隙間・という見世物の舞台で解放を演じる演者であり、構図のためのパーツである。解放という、耽美な夢の。

今回のKGキービジュアルがそれを最も象徴している。無数の赤いマニキュアの指先が女性の両目を覆っている。閉ざされたその網膜が見るのは外界や現実ではなく深く美しい夢で、その美の中に女性が目を閉じて深く浸るのを賞美することが、社会の見ていた夢そのものだろう。

 

ここで登場する男性らは、女性らを覗き見る・耽溺の外側から垣間見る存在か、もしくは旧態依然とした、老いたる「力」の象徴的な存在である。前者では扉の隙間やドアノブから密室を見る者、後者は老いた警官やカウボーイであり、女性はそうした男性らから逃げ去り、あるいはそれを踏みにじり、屈することなく優越を見せつける。…という仕立ての夢の舞台である。

 

 

アーヴィング・ペン(1917-2009)も、広告やファッション界で世界的に名を馳せた写真家だ。仕事の幅が半端ではなく、トップモデルや世界的著名人のポートレイトから、無名の都市生活者、様々な地域の民族ら、果ては高価な装飾品、花、路上のゴミなどの静物写真など、枚挙にいとまがなく、そしてどれも超一流の技術と格調高さでプリントされている。

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1943年から「VOGUE」で勤務、戦後の新しいファッション界をリチャード・アヴェドンと共に開拓し牽引してきた重要人物である。ギイ・ブルダンと異なり、被写体らを写す背景や色、光、場面構成は非常にシンプルで、上等な素揚げの天麩羅といった趣、その分、あらゆる要素に一切の妥協がなく鍛え抜かれている。

展示会場は壁面を斜めに折り重ねて、大きな三角形が連続するような作りとなっている。これは1948年に発明したポートレイト撮影用の三角コーナーをダイナミックかつ優美に展開させたものだろう。

 

提示された作品の年代は幅広く、1940年代から2000年代にまで及ぶが、ここに写された女性らは、多くがモデル、ファッションフォトやヌード作品である。過度に華美なものではないが、モードの美に相応しい華として撮られている。それは前段で登場する各界の文化人らが「個」を撮られているのに対して、衣装・体系と小物類とが一体となった、静物的な写真、まさに「花」の写真とも言えよう。ヌードコーナーでは1949年の裸体の造形描画、1967年のパフォーマンス作品が示された。

 

非常に大雑把に捉えると、この二人の写真の美とは、女性が秘める/象徴する「美」を、男性側の美意識と写真の美学によって探求していくものと言うことが出来る。女性の素の内面や、女性側の事情は、そこには無い。「美」のフィールド・舞台に立つ生きたオブジェでありミューズであり、一方方向から見られる「対象」であり、美の世界を構成するための要素である。

 

 

4.女性からの美と意思の発露  ~平成、令和の現在形~

現代を生きる女性写真家らによる現在進行形の写真作品は、根底から全く異なる。

ギイ・ブルダン、アーヴィング・ペンという、戦後写真史に名を刻む超ビッグネームの展示に同時に触れたことで、「女性」の置かれている立ち位置、主体性のあり方がどう変化したのかがより明確に理解できた。

 

比較対象となったのは前述の通り【3】「10/10 現代日本女性写真家たちの祝祭」、その名の通り現在活躍中の日本人女性写真家10名によるグループ展だ。

取り上げられた作家は、細倉真弓、地蔵ゆかり、鈴木麻弓、岩根愛、殿村任香、吉田多麻希、稲岡亜里子、林典子、岡部桃、清水はるみ。「HOSOO GALLERY」の2Fと5Fで展開される。

 

この10名は驚くべきことに全員がテーマも手法もスタイルも全く異なり、似たものがない。用いる手法や機材、技術においては、言うまでもなく性差のハンディキャップなど微塵もなく、一方で取り組むテーマは、かつて男性が中心であった頃の(90年代頃までの、ガーリーフォトという形までが限界だった頃の)写真界では現れなかったであろう、女性側が主体的に抱いた関心や感性に基づく写真表現である。

 

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写真映像化の技術・工夫の面では、細倉真弓「NEW SKIN」(写真上)や吉田多麻希「Negative Ecology」(下)のように、特殊な処理工程を挟んだ現像・プリント、展示形態での模索が見られた。

細倉真弓は様々な雑誌の切り抜きや自身の写真を組み合わせた巨大なデジタルコラージュを、拡大・縮小を繰り返す動画で提示する。観客は何らかのパーツや印刷のドットを全て等価な「全体」として提示され続け、真の(本来の画像としての)「全体」を知ることはできず、拡大・縮小の挙動は普段のピンチインアウト動作=現在系のWeb画面・写真体験と接続される。

吉田多麻希は母親の生まれ故郷である北海道で、雄大な風景や野生動物を撮影する。が、現像時にシャンプーや洗剤、化粧品など、日用品として使われている化学薬品を混入させ、自然(純粋)と化学(汚染)とが混ざり合った映像を作り出す。

 

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作者が自身の風土的かつ精神的なルーツについて、国籍や生年月日や血液型といったラベルによってではなく、「魂」とでも呼ぶべき独自の映像言語で模索する様を、岩根愛「A NEW RIVER」(写真上2枚)稲岡亜里子「Eagle and Raven(写真3枚目)は深く物語っている。

 

岩根愛『KIPUKA』(2018)で福島の盆踊りとハワイのボンダンスとの歴史的・精神的な繋がりを提示し、『A NEW RIVER』(2020)では新型コロナ渦中、誰もいなくなった満開の桜の下の闇に「鬼」の蠢きを感じながら、東北:福島~岩手の桜を伝統的な民族衣装の鬼とともに撮影している。一方で、極めて私的な体験・記憶として、自死した妹の写った家族写真がプロジェクターで投影される。一言では分類不可能なアイデンティティーと精神性が、風や土を介して絡み合う「縁」となって表される。

 

稲岡亜里子は京都の老舗蕎麦屋の後継者だが、2002年に訪れたアイスランドの風景に生まれ育った京都の原風景を感じたという。また、現地で知り合った双子の姉妹が無意識下であらゆることを共有し通じ合っている様に魅了され、8年に亘って撮影した。これらはアイスランドの風光や双子の神秘性をただ愛でるものではなく、作者自身のルーツとなる日本・京都の風景や精神性との結び付きによって生まれた、新しい(外部の現実にはない)幻想である。

 

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愛や性や体について、女性作者自らが主体となって語ることは今や当然のことだが、特にギイ・ブルダンを観た後ではこの40~50年で世界が一変したのだと強く実感する。殿村任香「焦がれ死に die of love」(写真上)岡部桃「ILMATAR」(下)だ。

 

殿村任香の作品は多くの紹介文で「愛の劇場」と冠されている。デビュー作『母恋 ハハ・ラブ』(2008)では母との関係を撮り、ゼィコードゥミーユカリ』(2013)では作者自らが歌舞伎町でホステスとして働き、夜の人々を撮った。本作では女性らが夜の闇と光の中で横たわり、悶え、身体をうねらせているが、誰か(=男性)によって愛される関係ではなく、一個体としての女が自ら都市の「夜」に交わる姿を現している。

 

岡部桃は更に劇場的で、プリントの色、各カットの画面構成、シーンの背景からして入念に作り込まれており、90年代のインディーズ映画を思わせる。だが作者は作品について、日本の私小説をベースとし、常に自身の実体験を基にしていると語っている。デビュー作『バイブル』(2014)から共通して、個性的で魅力的な人物らとうち棄てられた廃墟や廃物、残骸がセットで提示され、この社会の「正しい」場所に所属できなかった人たちの、生命エネルギー=エロスを突き付けてくる。それは哀しさや絶望ではなく、圧倒的な力の濃さである。

 

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写真表現は美や精神世界や舞台装置だけではなく、その身に降りかかる事態を伝えたり、現実的な問題と折り合っていくためにも用いられる。

鈴木麻弓「HOJO」(豊穣)にて、不妊治療を受けてきた自身の体験を作品化した。セルフポートレイトと植物・果物とを組み合わせ、女性の体、器官とが自然界とシンクロしている様を表わす。同時に、胎内のエコー画像や卵子の顕微鏡画像なども提示される。作品化に取り組み始めたのは、不妊治療を諦めた頃だったという。

 

体、年齢、生殖という、究極的に個人の身体・人生にまつわる事柄を、当事者の立場から題材として表現へと昇華する取り組みが、女性の側から当たり前のように行われている状況こそ、平成の30年間を経て培われてきた「現代」性であると考える。

 

同様のことが、別会場のアソシエイテッド・プログラム【12】殿村任香「SHINING WOMAN PROJECT」にも言える。(殿村は2つの会場で別の作品を展開している)

 

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がんと闘う女性のためのプロジェクトである。依頼を受けて出張し、がんサバイバーの女性を撮影し、その「美しさ」を伝える取り組みだ。

がん治療によって毛髪や乳房を失うことは、外見が大きく変わるだけでなく、自分そのもの:女性としての尊厳など重要なものを失うことでもある。部位によっては子供を二度と産めなくなる。

作者は2019年に子宮頸がんが発覚し治療を受けたが、入院中、がんサバイバー(がん治療を終えた人だけではなく、がんと診断されたばかりの人や、治療中の人なども広く含)の女性らが明るく化粧をしている姿を見て、「美しい」と感じたという。

 

 

全員を紹介しきれないので、このプログラムについてはまた別枠で特集したいが、「女性」が作り手・撮り手である上に、被写体も撮り手と非常に深いところで内面や事情を同じくする存在であったりする。その表現を届ける相手=鑑賞者もまた然りで、これらの作品の成立には高い共感力とリテラシーが前提となっている。つまり撮影者、被写体、鑑賞者はそれぞれに作品テーマに関する「当事者」として、作品を通じて関わっている。

 

 

5.人と自然界との関わり

KYOTOGRAPHIEは射程の広い展示を包摂するので、人と自然界との関わりを現わす作品も見られた。こうした予期せぬ作品に出会えるのもKGならではの魅力である。

 

昨年の榮榮&映里(ロンロン&インリ)に引き続いて、中心街から離れた「琵琶湖疏水記念館」・「蹴上インクライン」が会場となり、サミュエル・ボレンドルフ「人魚の涙」が展示された。

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展示形式も似ていて、地下テラスとドラム工場への通路、そしてインクラインの壁面が使われた。

会場にはコンタミネーション」、科学実験における汚染や異物混入を意味するタイトルで作者のテキストが掲げられている。世界中の膨大なプラスチックごみ、それが破片化して生じるマイクロプラスチック(これをタイトルのように「人魚の涙」というらしい)は、目に見えない小ささで海洋廃棄物汚染を進めている。自然破壊は回り巡って人間の生活を破壊し、その住まいを地域ごと奪う。

 

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「誉田屋源兵衛」の黒蔵と奥座敷では、写真家のイザベル・ムニョス × ダンサー・田中泯 × 染織物職人・山口源兵衛の3名が織り成す「BORN-ACT-EXIST」が展開された。

ただの織物や舞踏の写真ではない。舞台は誉田屋源兵衛の工房のある奄美大島、山口源兵衛が染め物用の泥田に潜り、泥を纏った体が乾いて土・大地と一体化していく様と、奄美の海中で舞う田中泯の身体が「海」と同化してゆく様を、イザベルは写真で表した。そして写真を編んで作られた帯。伝統芸術、前衛的な舞踏が「自然」と繋がり合って生み出される様が、写真によって結びつけられる。

 

 

6.外なる世界(国際)、内なる世界(仏教)

「私」の視座を日常の遥か外へと広げ、あるいはぐっと内へと深めた展示がある。

 

この日常や「私」の外側、世界の国際的な状況を語る展示として、【5】世界報道写真展「民衆の力 ―1957年から現在までの抗議行動のドキュメント」では、その名の通り世界報道写真展の歴史――世界中で常に勃興しているプロテスト、抗議行動の歴史を振り返る。

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木製の台で大部屋を囲み、世界報道写真展でお馴染みのフォーマット(黒地に白字の状況解説文と象徴的な写真の組み合わせ)、1Fで13点、2Fで10点を提示している。

多くは近年の出来事で、2020年6月・米国でのBLM運動(Black Lives Matter)や2019年12月・チリでの警察の性的暴行に対するデモなどが並ぶ。また、1989年6月の天安門事件で戦車の前に立ちはだかる男性、1963年6月の南ベトナム政府に抗議し焼身自殺する僧侶、という極めて有名な歴史的シーンも並ぶ。

ただ、展示としてはあまりにアッサリしており、解説文を読んで終わりになってしまう。もしかして、今般のウクライナへのロシア軍侵攻を受けて、抗議の意も含めて急遽組み込んだプログラムなのだろうか?

 

人の内なる深みへと向かうのは、【10】奈良原一高「ジャパネスク<禅>」だ。

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建仁寺・両足院の和の空間に、木製の立方体の板面が宙に浮くような什器で写真が掲げられている。立方体は庭側の両側面が抜かれ、空洞となっていて「無」を演出している。

奈良原一高の作品は「ジャパネスク」(1970年)から<禅>シリーズ:禅寺の僧侶や僧堂での勤めを撮ったものだ。一言で言えば、斬新。深くして鮮烈、明るい現世を闇の漆黒で切り裂くような写真である。世界報道写真展と真逆に、人間や信仰の内面へとアプローチするものと言えよう。

 

もう少し<禅>シリーズの魅力について踏み込むと、秘められた禅の精神と空間を鮮やかに可視化したことだけではないだろう。戦後の高度成長で近代化・都市化する日本社会と感性に対し、仏教などが元来持っていた陰影を、写真的機能をフルに動員し、更に西欧的な信仰や表現の彫りの深さを以てして突き付け直すという、モダニズム写真の本懐を完璧に果たし切ったことにあろう。

これが本展示では「寺(仏教空間・日本の闇というヴィジョン)を、寺(陽光に満ちた現実の空間)に当てる」という、同語反復、しかも相反する属性を合わせにいってしまっているので、個人的には奈良原作品の意味が場に相殺された――死んだものと見えたのだった。

 

 

7.写真を楽しむ心、喜ぶ心、そのもの。

社会的、個人的な課題や問題、テーマ性以前に、「写真を楽しむ、喜ぶ」気持ちそのものが強く表れた作品があった。「撮りたいものを、撮りたいように撮ろう」と、素朴に、しかしパワフルに勇気付けられるものだ。

 

【9】プリンス・ジャスィ「いろのまこと」と「いろいろ アクラ――キョウト」は、洗練と身近さ・地元感とが共存する不思議な作品である。

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プリンスはガーナ出身のヴィジュアルアーティストであり、撮影はiPhoneで行う。メイキング映像が流されているが、展示作品の洗練され計算された色と構図に比して、撮影の様子は実にフランクで、地元の人達、子供らと交わりとても近い距離感で撮っている。地元愛に溢れた、近所の良いお兄ちゃんといった存在感だ。

スマホによる撮影と鮮烈な色の対比は、まさに解説の通り「慣習を打ち破り、アートシーンのエリート主義に一石を投じている」し、誰でも(非エリート、非・先進国、etc...でも)写真によって表現を楽しむことができ、そして自身の才能を現わすことができるというシンプルなメッセージとなっている。

 

非エリートによる全身からの写真表現の喜びは、【8】鷹巣由佳「予期せぬ予期」が最も顕著に表している。

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作者は昨年のKYOTOGRAPHIE・ポートフォリオレビューで「Ruinart Japan Award」を受賞し、同年晩秋に老舗シャンパーニュ・メゾンであるルイナールのアート・レジデンシープログラムに招聘されて渡仏、ルイナールの所蔵する舞踏畑とカーヴ(地下貯蔵庫)を訪れた。

例年、ルイナールに招かれたアーティストは、シャンパン作りの歴史や人と自然との深い関わりの歴史を考察する作品を制作・発表していたが、鷹巣が個性的なのは、ルイナールやシャンパンの写真はごく一部に過ぎず(同社に招聘されたという実績が分かる程度)、会場を覆い尽くす膨大なイメージは、賑々しい街の光景スナップ群であることだ。

日常や旅先で取り留めのないスナップ写真をひたすら集める鷹巣のスタイル、ここまで「我が流儀」を力強く押し通す様は、プリンス・ジャスィとまた異なる点で「写真は自分の好きに撮って良い」ということ、そして西欧の中心にあっても西欧的エリートのコントロールからも自由であれることを雄弁に物語っている。

ただ、本作が作品として成立しているのは極めて高い編集力があってのことで、ここでは写真群をGoogleのロゴカラーである黄赤青緑白の5色で、Google Photo検索機能を用いて分類・再結合させ、更に空間にうまく合わせていることが、強い説得力となっている。

 

 

 

おわりに。歴史、女性、マジョリティと表現について。

今回のKYOTOGRAPHIEでは特に「女性」という存在について強く意識させられた。

やはり【3】「10/10 現代日本女性写真家たちの祝祭」の内容が非常に説得力があり、写真や社会における「現在」の在り様を再認識させられた。これは2021年10月~2022年3月まで開催されていた金沢21世紀美術館での「ぎこちない会話への対応策」と「フェミニズムズ」展と、自分の中で呼応し増幅されたものがあったためとも思う。

 

また、いかに現在と価値観や常識が様変わりしていようとも、過去作品は安易に否定すべきではないとも実感した。その時代時代での真理や信念や美学の粋があり、それらをよく見て知ることで「現在」の姿が掴めるようになる。

今、写真表現は、現代アートと同じく参加者との関係性において生まれてくるものとなっている。協働に近いと言えるだろう。同時代的な関係性の中での制作と鑑賞に留まらず、やはり「過去」・偉大な「古典」作品を踏まえた上で見渡すことによってこそ、「今」という形なきものを掴むことが出来ると言えよう。

 

そのため、KYOTOGRAPHIEプログラムから離れたところで、色々と考えさせられた。

古典的名作や写真史に対する私の再認識(再評価)は、2018年、荒木経惟に対するモデル・KaoRiからの告発と#MeToo運動の際に、私が曖昧にしつつも抱くことになったスタンス:荒木一強のような日本写真界のスタンスは、これまでの写真史的な評価も含めて懐疑的である――ひいては「歴史」は懐疑的である、という思いと、大きく矛盾するものとなった。このことはまだ様々な揺らぎがある。

 

また一方で、女性作家こそが現代のセンシティヴな問題に独自性を以って対応している、となれば、若い男性や、マジョリティの感性・世界観はどうなっているのか? それらは無視して良いのか? 表現としては有効でないのか? 評価や育成の機会が与えられているのか? などの疑問も沸いた。

若い女性でなければ今の写真界では評価されないのか。ヘテロの男性というだけでマジョリティ側と分類されて評価の機会を失う可能性はないのか。しかしこの問いこそ、これまで(今なお)社会のあらゆる場面において、「女性」らが置かれてきた問題そのものでもある。

 

ただ、今や「社会」なる語の中身が措定し難いほどに、構成員である「私達」は多彩で分化している、そして日々の生活を送るだけで手一杯である。写真を含む「表現」がマジョリティの権力性を問い、声なきマジョリティの声を拾うためのものであれば、多くの「私達」は空洞化したまま「表現」からも疎外されるのではないか。

 

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問いは飛び石となり、水面の波紋のように次の問いを生んでいく。

与えられた耽美な「夢」から覚めて、自分の眼を自分で開くのは、きついことも多いけれど、決して悪くない。眠ければまた夢を見るし、もっと見たいならもっときつい「現実」を見よう。それを自分で決められるのが現在形の「写真」だと私は思う。

 

KYOTOGRAPHIEの多彩で幅広い、そして力のある展示プログラムが、様々な問いを投げかけつつ、「私達」を救う(掬う)ものであり続けてほしいと願う。

 

 

 

( ´ - ` ) ひとまずの完。