nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真展】R4.4/8~5/8「KG+SELECT 2022」(後編:A5~A8_飯田夏生実、西村楓、松村和彦、アンナ・ベディンスカ)@くろちく万蔵ビル

「KYOTOGRAPHIE」サテライト展示プログラム「KG+SELECT」・展示8名のうち、残り4名のレポ続編です。意図したわけではないが3名がモノクロ作品なので妙に黒くて暗い記事になってしまった ('o' ) 

ドキュメンタリー色が強く、作者自身と取材対象者の内面の掘り下げが深い分、シリアスさを保ちながら、手に取りやすく、見て回りやすい展示方法を工夫し、鑑賞者の関心のスイッチをうまく押す形態がとられていた。

 

【会期】R4.4/8~5/8(KG本体と同じ)

 

 

前半4名(王露、高杉記子、林煜涵、岩波友紀)の展示レポはこちら。

 

 

【A5】飯田夏生実「イン・ザ・ピクチャー」

私生活、日常を写した断片的なモノクロ写真が散りばめられ、90年代的な懐かしい表現だな、と思っていたら、テーマは「子育て後の”空の巣症候群”に苦しんだ4年間」。撮影者は「母」である作者自身であり、「母」という役割を失いゆく者でもある。そしてそれは同時に、年齢的には老年期に入って「女性」としての心身のバランスを失いゆくことも意味する。

 

本作の主役は「私」だ。

「空の巣症候群」を調べると、役割消失に伴う空虚感、虚脱感、不安感など、抑うつ症状に似るという。言われてみれば確かに、濃い黒のモノクロで写された家の中、食事の光景、自身の姿は、鬱屈した虚ろな日々を物語っている。そして写り込む作者の手は、老いを痛感させる。柿の実に包丁を当てるシーンの写真と、時計をバックに顔を手で覆う自撮りの写真の組み合わせは、味覚・嗅覚を失う味気なさや鬱屈、膨大な時の流れを経た自分の顔に向き合うことのできない落胆や絶望感がある。

 

だが本作ではあくまで、撮り手の体をシャッターにして時間と光景をフレーミングし、断片的に切り出して濃い陰影でプリントするという、ストリートスナップ的な文体の延長上にあり、「空の巣症候群」の症状についてのルポルタージュ、内面の心理描写、日常景の観察などがそこに入り交ざっている。ストリートスナップ的な手法:断片化による即興性が活かされているのは、自身の姿と自身の影を撮る時だ。

リー・フリードランダーでは、自身の影や反射像を実体から切り離し、現実が写真化していく状況を撮ったのに対し、本作では「私」の手がかり、掴みどころを捜し、「私」の根拠として影を撮っている。自分はここにいるのか、ここにいるのだと確かめるようにして。

 

家の内、衣・食・住の暮らしの内を経て、写真は家の外、街へと移っていく。『やがて、ゆっくりと時間をかけて、それらの写真は私を明るい空の下へと連れ出してくれた。』とあるように、写真行為を通じて自身の質感を獲得し、喪失感をセルフケアしていったことが分かる。

写真はケアに用いられる側面もあり、フォトセラピーを提唱する個人や団体が散見される。(ちなみに、私が在学していた「写真表現大学」でも一時期、その効能に着目して「フォトヘルスケア講座」が設置されていた。) 一方で、家の外に出て、都市景に交わりながら自己像(影)を撮った写真はスナップとして強度があり、単なるケアに留まらない。飯田は京都芸術大学・通信教育部で写真を学んでおり、セルフケアの実施と表現の追求という、両方の方向性に着目しながら作品を制作していったと思われる。なかなか出来ることではない。

 

 

なお、飯田は【KG+SELECT】会場以外にも、【KG】出展枠として、京都駅ビルのピロティにも同作品を展開している。内容は同じなのでここで紹介しよう。

 

 

【S4】(同作品)@京都駅ビル7階・東広場北ピロティ

京都駅ビル・ピロティでの展示は【KG+】の恒例となっている。とにかくコンクリート建築の主張がめちゃめちゃに強い上に、ただ「空いている」だけのスペースだが、巨大な吊り下げ型木製什器を使って巨大な写真を展開すると、写真展示会場に早変わり。これはなかなかの発明だと思う。

というのも、写真の内容とそれを包む環境・風景が全く異なる(なんせ観光スポットで、そのへんの窓から京都タワーが見える)のに、気にならず、作品の画面内に集中することができた。

 

この展示スタイルと枠は2019年【KG+】で成田直子「みやこうつし -EYEcon-」を踏襲していて、Facebookで設営協力に当たっていることが伺えた。

 

【KG+SELECT】会場では、写真は群で示され、散乱と再結合するイメージだったが、こちらでは1枚ずつ単体の写真の中身に入り込んで見ることができ、また違った鑑賞体験となった。空虚さ、喪失感に浸るというのも妙な話だが、スナップの力があるため大伸ばしにしても強度があったのだ。

 

どこでも超巨大な写真を展開できるこの巨大フレーム、すごい武器かもしれない。

 

自分の母親ぐらいの世代の人が、写真で自己表現をし、自分の内面について自分の映像言語で語る・・・KYOTOGRAPHIE「10/10 現代日本女性写真家たちの祝祭」とはまた違った観点/年齢層からの、非常に今日的な話題・課題を語る作品だった。

 

 

 

【A6】西村楓「私たちがうまれなおす日」

展示室内を取り囲むポートレイトはLGBTQ+の人達であるが、衣服や装飾物など、本人の属性を物語る/判断できる要素が取り払われている。目、唇、眉などパーツを見る限り、メイクも無さそうだ。体つき、髪型と色、面立ち、微妙な表情が残る。

 

作品の目的は明白だ。まず、LGBTQ+と呼ばれる人たちが「普通」な性的マジョリティと外見上の特別な違いがないこと、区別がつかないこと、「普通」とは何かを問うことにあるだろう。もう一つは、作者のセクシュアリティ両性愛者=性的マイノリティ側)から見たときの観点として、「LGBTQ+」それぞれの立場においての「普通」の性愛対象、「普通」の性自認といった規範や型に当てはめていなかったか、「普通」があるのかどうか、という問い掛けがある。

 

後者の問いについては、私自身がバリバリのいわゆる「普通」、シスジェンダーヘテロセクシュアル以外の何物でもなく、そうした視点での問い掛けは考えたこともなかったので、新しかった。面白いと思った。

ただ、本作のようなフォーマットの作品:匿名性を高めたバストアップのポートレイトを並べ、差異の有無を問うものは、他の展示でも見たことがあり(どこかの学校の卒展だったか?探したが出てこなかった…)(ルフではない)、どうしても前者の問いのように、一般化された教科書的な問いと解、「性的マイノリティの方々って、私達マジョリティと区別がつかないんですね」という感懐を超えられないのではないかと思う。作者の本意というか、バリバリの「普通」人=マジョリティ勢からでは絶対に見えてこない、作者ならではの疑問点、問い、指摘を、更にソリッドな形で示すことが出来れば、意義深いものとなるだろう。さきの2つの問いは似ているようで、深さと角度が全く違い、重要かつ興味深い視点だからだ。

もしかするとそれこそルフのように、写真の大きさを変えると急に見えてくる・現れるような、あともう一つ二つの僅かな仕掛けで顕現するものなのかもしれない。

 

 

 

【A7】松村和彦「心の糸

4人の認知症の方とその家族を取材し、認知症とは何か」という問いを深めた作品。額装された写真、大伸ばしで壁面と化した写真、貼り出されたテキスト、4人それぞれの取材で見聞きした言葉や光景をまとめた冊子、という4点をバランスよく配した、、メリハリのある展示となっている。

 

他の出展作家より圧倒的に「読む」作品で、冊子の文章――インタビュー記事とエッセイが混ざったような、不思議な温度感の言葉を読み進めていくことになる。

認知症になること、認知症の家族を看ることの両方が主観的に伝わる作品である。認知症の当事者の語りもあるが、すぐ傍で支える家族(妻)の語りが多く、夫の認知症発覚から症状が進行してゆく様子、「忘れる」「分からなくなる」「話が通じなくなる」etc… が、リアルに映像として浮かぶ内容だった。

両親の年齢的には、私などはまさに避けては通れない話題となるし、少子高齢国家・日本においては、誰もが当事者であろう。

 

京都・西陣で、整経(織物を織る際、数千本の経糸を整える作業)で5本の指に入る職人だった夫が、取引先からの電話で「びわ色できていますか」と聞かれてびわ色ってどれや」と、色が分からなくなったというエピソードが、きつい。悲しかった。織物の色は職人にとって、ただの「記憶」ではなく、体に染みつくもの、「自分」と一体のものであるはずだろうのに、それすら失うのか。

 

本人の語りもある。デイサービスの介護職員・下坂厚は、以前は魚屋で働いていたが、46才で若年性アルツハイマーと診断されて職を辞した。5までの数を数えるのも覚えていられなかったという。

驚くべきことに、下坂厚は写真家としても活動している。令和4年3月には京都市京セラ美術館(本館北開廊・1階/無料コーナー)で写真展を開催、物忘れに満ちた日常を前向きに、鮮やかな写真と飾らない言葉とで表していた。認知症を患いながらも、仕事と表現とで活躍する姿はメディアでもしばしば取り上げられている。京セラで観た展示がまさか【KG+SELECT】で繋がってくるとは思いもよらなかった。


 

認知症の進行によって、家を出て行方不明になり、翌春に竹藪で白骨化した遺体で見つかった男性。

「徘徊の末に亡くなった」と思われていたが、妻は何年もその足取りを追い続けた。なぜ竹藪に入り込んだのか。そして、昔に住んでいた家のある光景に辿り着いたとき、夫は道が分からなくなって迷ってたのではなく、一番最初に住んでいた家へと帰ろうとしていたのだ、と気付く。

ただ記憶を忘れるだけではなく、古い記憶が今のもののように逆転してしまう。

 

 

作者の松村和彦は京都新聞の記者でもあり、そちらでも認知症特集で活躍している。記事の多くは有料会員向けで見られないが…

www.kyoto-np.co.jp

本作を通じて語られているのは、「認知症」のブラックボックス的な謎、あるいはコミュニケーション状のエアポケットとしての謎ではなく、認知症に関わる者が見た光景についてである。生活を通じて、本人は、傍にいた介護者は何を見たのかが綴られている。残念ながら作者個人のWebサイトなどがなく、作品アーカイブの形では読むことができないが、写真集など今後の展開に期待したい。

 

 

【A8】アンナ・ベディンスカ(Anna Bedynska)「永遠に私のもの」(Forever mine)

今回の【KG+SELECT】で一番重いテーマで、深刻さ、辛さだけでなく、現実問題としての対処が非常に難しいため解決法が見当たらないまま鑑賞を終えざるを得ないという、後味の悪さが際立っていた。どちらの側に立てば良いのか、あちらが立てばこちらが立たず、実際問題のジレンマにぶち当たる。

 

「日本は共同親権のない唯一の先進G7国です。」と切り出されるのは、離婚すれば必ずどちらかの親が親権を失う仕組みを巡って、親権を奪われた方の親の「声」である。子供の生活や成長、人生に関わることが認められないばかりか、接触も許されず、場合によっては一切の情報が遮断される。

 

私も詳しくないのだが、子の「親権」について制度をおさらいすると、民法第819条で「婚姻中は共同親権、離婚後は単独親権」と定めがあり、これを法的根拠として国や自治体、社会が動いている。

「親権」には「財産管理権」と「身上監護権」の2つがあり、親が子供と日々一緒にいて養育したり叱ったりすることができるのは後者に当たる。当たり前すぎて見過ごされているが、実は法的な権利である。ただ、親権がなくても子供にとっては親子関係自体は存在するので、協議離婚の場合には話し合いで「面会交流」を設定することができる。

しかしそもそも両親が協議困難であったり、子供にとって害となりうる場合などには面会は認められない。また、親権者が死んだ場合でも、親権を得るには家庭裁判所に親権変更審理の申し立てを行う必要がある。

本作に登場する「声」は、恐らく円満な協議離婚という形には至らず、親権を「奪われた」側の元・親の悲痛なコメントである。それぞれのイメージ写真を鑑賞者が直にめくることで、「声」を読むことができる。

 

様々な事例がある。どれも悲痛である。「夫が息子を連れ去った」「家に戻った時、妻と双子の娘はもう家にいませんでした」「8歳の子供と共に姿を消した暴力的な夫と法廷で争っている。夫による家庭内暴力を証明する353ページ以上の証拠文書とともに」「息子は250m離れた所に暮らしているにも関わらず、地下鉄の駅に向かう途中に息子の家の前を通り、部屋の窓を眺めるだけだ。彼に会うことも、話すことも許されない。学校からの情報も得られない」

薄暗い展示会場、暗い写真、黒塗りにされた開示文章の写真、黒地のメッセージボード、奪われた人生の声が連なる。しかも事の経緯、なぜそうなったのかも分からないので、「奪われた」という声のみを聴く(見る)ことになる。気持ちが沈む。

 

最も重くジレンマとなるのが、突き付けられる「声」の悲劇に対し、現実的な対応策が分からないこと――「これらのケースで共同親権であった方が良かったのかどうかが全く分からない」ことだ。DVの暴力行使や加害性など明らかな実態がない限り、物事には単一の絶対的な真実がない。二者間での認識や証言は必ず食い違う、特に家庭の事情、家族を巡る争いでは、当人らの性格の不一致、愛憎の積み重ね以外にも、両親その他親族の軋轢やエゴも絡んでいたりして、複雑な経緯もあるだろうから猶更である。

役所的な物言いをさせてもらうなら、ここに書かれた悲痛な「声」がそっくりそのまま客観的真実、100%被害者として同情・共感すべきかどうかが分からない。その複雑さゆえに読み進めるごとに辛くなってくる。もちろん「奪われた」側からすれば100%、いや400%ぐらい針振り切っての被害者的な「喪失」の訴えなのだけれども。

一方で、離婚後も共同親権を運用している外国人の目から見れば、この事態は相当に「異常」ということになるだろう。法で定められているからと、親権を持たない側には一切の情報を渡せないとし、警察から「家に帰り、子供達のことは忘れ、もういなかったものだと思いなさい」と言い放たれてしまうといった事態は、ただ思考放棄しているだけに見えるかも知れない。これには日本の社会・家庭でかつて基盤となっていた家制度も大いに関係があるだろう。

 

もう片側の壁面は白く、白い額装で、白く塗りつぶされた子供の写真が並ぶ。消された家族としての思い出、あるいは今後訪れたはずだった家族としての一時のイメージだろう。

そして正面の真っ黒な壁は、アンダーめに撮られた夜の街の写真だが、星のように穴が開いていて光っている。実は中を覗くと、白い空間に白いベビーベッドが浮かんでいる。

 

背中をぞわっと冷たいものが駆け上がってきた。これから一生大事にしていくぞ、育てていくぞと生きてきた「親」が、事故のように不意打ちにせよ必然的な結果にせよ、「子」を生きたまま生涯奪われる。その心象を表していた。

 

繰り返すがこれらの事例をどう解消すれば良いのか私には全くわからない。協議離婚という形をとらず、親権の協議もなされず、中には子の略奪のような形で、紛争・遺恨を残したまま別れている以上、たとえ共同親権が認められていても、通常の形での「親子」の形をとることは難しいのではと想像する。いやしかしその場合は「両者が親権者である」という全く異なるステージで対等に議論したり法的に争うことが可能ではないか… などとぐるぐる考えるばかりで、写真の鑑賞や評論から離れたところで唸っていた。これは作品に集中できたというべきだろうか?

 

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はい。辛かったですね。人生は辛いことが多い。昔の人が仏教で極楽往生を希ったのも分かる気がします。寺でお香を吸いたくなった。ふう。

 

「KG+SELECT 2022で、どれが一番良かった?」と聞かれたら何と答えましょうか。そうですね。ええと。

 

写真1枚1枚のパワーと展開力なら、飯田夏生実。

社会問題への切込みと取材力なら、松村和彦とアンナ・ベディンスカは同順。

会場空間インスタレーションの面白さと完成度では、王露と松村和彦。

テーマの切り口の良さと、今後の発展性への期待なら、西村楓。

 

みんな個性的で面白かったし、ためになりました。

 

( ´ - ` ) 完。