nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【KYOTOGRAPHIE 2022】R4.4/9~5/8【3】「10/10 現代日本女性写真家たちの祝祭」@HOSOO GALLERY・5F(吉田多麻希、稲岡亜里子、林典子)

「KYOTOGRAPHIE 2022」日本の現代女性写真家・10名を特集する展示企画。後半は「HOSOO GALLERY」5Fの吉田多麻希、稲岡亜里子、林典子、岡部桃、清水はるみのうち、前3名をレポートする。
(分量の都合により、岡部桃、清水はるみは次号に回します。。)

 

2Fが暗く、全ての展示が闇を舞台としていたと対照的に、ここでは窓から太陽光が潤沢に注ぎ込み、明るさの中で展開されていた。

【会期】R4.4/9~5/8

 

 

<前編:同ギャラリー2F展示の5名>

「2階で終わりだと思ったら5階もあって力尽きて死んだ」「ペース配分間違えて死んだ」という証言もちらほら聞こえる展示である。5階まで使われるのは今回が初だ。順路は一方通行で、再び2階に戻ることはできない。がんばってみましょう。

5Fのボリュームも多い。見るのもあれだが、社会的・歴史的意義や重みのある作品が多いので、書こうとすると2Fよりも大変なことになるのである。うああ。

 

 

【3-⑥】吉田多麻希「Negative Ecology」

 

展示は2分されていて、観客はエレベーターを降りてまず無機物・金属ゾーンに入り、隣の有機的な木材ゾーンを通って次の展示へ抜けていく。つまり都市と自然との対比と接続だ。どちらの写真も強い色と光の歪み、澱みが生じている。

 

作者は昨年:2021年の【KG+SELECT】でも今作と同タイトルの作品を出展し、KG+SELECTグランプリを受賞している。この時の展示は、真っ暗な部屋に北海道の野生動物とケミカルな浸食を掛け合わせた作品を展開するというものだった。

暗闇でバイオ・ケミカルな色で光る北海道の動物たちは、美しかった。

 

都市・人工と自然との対比を明確に打ち出した展開は、今回が初となる。太陽光に照らされているのも前回と非常に対照的だ。よくこんな思い切った針の振り方で構想できるものだと思った。勢いがある。

 

都市パートが単管フレームの垂直線から成るのに対し、自然パートは木材の乱反射するような線で構成される。前者は高層ビルや電柱など縦に・上へと走る構造体を、後者は植物が枝葉を伸ばすような形状と、動植物間の食物連鎖やエネルギーの相互関係を表しているように感じた。

また、自然界側では太陽の写真が木材の線の源となっているようだが、都市側の同じ位置には単管フレームの束が立て掛けてある。都市パートではそれぞれのフレームに照明器具があり、都市にはナチュラルな太陽がない/不要であることの暗喩しているのかもしれない。同時に木材の方も業務的な角材であるのは、純粋な自然ではなく人為が介在していることを表しているのかもしれない。

ただ、木材が綺麗すぎ、密集していて、太陽光を浴びて主張が強かったので、前作のように写真に没入するのは難しかった。

 

写真内のケミカルな侵食は、フィルム現像時に洗剤や研磨剤、歯磨き粉といった生活上の化学物質を混入させた結果だ。発端はフィルム現像作業でうっかり混入させてしまったミス、まさに「汚染」だったが、その自然とケミカルが強く混ざり合った「侵食」の有様から、都市の生活排水が遠く離れた自然(母の生家のある北海道)に影響を及ぼす様をイメージし、化学物質と自然の生態系との対話を試みるようになったという。

 

対話とは、元の写真に写った像と、ケミカルな侵食とを両存させて提示することだ。都市と自然、清浄と汚染を結ぶものは「水の循環」で、本作のテーマともなっている。作者が特徴的なのは、ケミカルの侵食状態を決して否定的に見せていない点だ。むしろ幻想的で美しい。

解説文では自然環境の話に力点があるが、作品は単なる環境汚染への警鐘にはなっていない。ケミカルな色と光が写真全体を侵食しているが、単に色が暴れたり元の像を押し潰しているわけではなく、うまく重なりを見せている。

 

「水の循環」で言えば、デジタル写真全盛の現在では見過ごされがちだが、実はフィルム写真では「水」が現像・プリント工程の要であり、それなしに像は生み出せない。本作をメタに写真側から読むと、「水の循環」は写真の現像、イメージ生成といった「写真の命」を語るものとも言える。そしてフィルム写真は、近代的な化学薬品の反応の組み合わせから構成されている。言わば環境汚染の権化のようなメカニズムの集大成である。

しかし写真の像は暮らしに必要不可欠で、それでしか語り得ないものはあまりに多く、例えば都会に住む私たちは写真でしか北海道の野生動物に触れる機会はない。実は二分法では語れないのだ。

ここに表されている野生動物とケミカルの幻想的な混合は、「写真」にしかない/写真ならではの、化学的な「美」の可能性を体現したものと見ることもできるだろう。

 

 

【3ー⑦】稲岡亜里子「Eagle and Raven

2フロアから成り、1つ目は閉じた空間に室内で撮られたの双子の肖像写真群、2つ目は円形の壁面にアイスランドの自然下で撮られた双子の写真が掲げられる。いずれも写真のサイズは大きくないのに世界観の密度が高い。見た目の数倍のボリュームがある。

 

幻想的でおとぎ話のように見えて。全く曖昧さや感傷がなく、しかし現実ながら記録やドキュメンタリー写真でもない。本作を支えているものの正体は何だろうか。解説を読むと作者の精神的なルーツの話が語られていて理解しやすい。

京都で約550年続く老舗蕎麦屋・蕎麦菓子店に生まれ、アメリカに留学して写真を学び、そしてアイスランドを訪れ、京都の原風景を思わせるような自然と光に魅了された。その滞在中に双子の姉妹に出会い、「何も語らずとも通じ合い無意識下であらゆることを共有し合う彼女たちに惹かれ、足掛け8年にわたって撮影した」という。

 

「写真とアイスランドは魔法のような逃避の場」であったのは、生まれた「家」の伝統、京都の歴史の強さゆえだろうか。だが家業を継いだことについてのインタビュー記事を読むと、かなり自由にやっていて、むしろ積極的に店舗運営に関わろうとしていたことが分かる。イメージと違った。

precious.jp

 

ちなみに「本家尾張屋」がその老舗店舗。トップページのランドスケープ写真からして、なんていうか普通の老舗蕎麦屋の概念を覆す。ほかの写真もやたらうまい。さすがの仕事です。食べにいきたい。

honke-owariya.co.jp

 

解説ではまた、神道の精神だけでなく、より普遍的なアニミズムの感覚をも想起させる」ともある。

改めて過去作を振り返ってみると、2020年に同名の写真集が出ているほか、2008年に『SOL』が出版されている(どちらも赤々舎)。『Eagle and Ravenは本展示と同様、双子が主役だが、『SOL』ではアイスランドの風景の写真が主体で、水と光に満ちた内容となっている。

 

www.akaaka.com

 

ここで赤々舎の写真集の解説から「共振」というキーワードを得た。これは本作の核を突いた言葉だと思った。

 

アイスランドの透明感ある光と水、双子の少女のシンクロはそれぞれに美しく神秘的だが、それだけでは本作の美しさと強度、1枚1枚に通底する世界観は説明がつかない。双子の写真も、構図や色味、ポージングの妙を取り上げて因数分解しても、どうも空振りに終わる。

個々の事象や形態の美を話題にしているのではなく、それぞれが関連して穏やかに繋がりを持つ状況を作者は扱っているのではないか。風や光、水や人間、全てのものが微弱に震え合ってエネルギーを共有し、伝達し合い、世界を成している状態。まさに「共振」を作者は体感し、可視化し、写真言語で語ろうとしたのではないか。

 

1つ目の部屋は両側の壁が双子のポートレイトで散りばめられているが、正面の黒いカーテンの奥には、漠然とした光が灯っていて、中を見てもそれが何の写真かは分からない。色を帯びた風景の「光」だが、これは双子の心身の間をはじめ、外界のあらゆるところに満ちた振動の力、エネルギーの姿を現したものかもしれない。

 

つくづく双子の写真は、強烈な力を湛えている。他の「双子」の作品/作家とは撮っている対象と前提が全く異なるため、その路線で比較検証することは早々に放棄した。

まだ雰囲気として近いのは、マリオ・ジャコメッリの有名な一枚:モノクロの中で、黒い服の神学生らが輪になって踊っているシーンだ。世界は見えない力で連鎖し合い、調和を保っていて、肌や目に触れるその運動力は地球、宇宙の円運動にまで連なっていくように思われる・・・そういうバイブレーション、エナジーの写真である。

 

 

本作の構造については、訪れた先の異邦の土地が持つ風土や光と、作者自身が内的なルーツとして持ち合わせている原風景や精神の在り様とを、作家自身が媒体となって強いバイブレーションによって接続し、作品へと転換しているとも読むことができよう。その枠組みでは岩根愛の作品とも似た構造ではないかと、KYOTOGRAPHIE展示概要をまとめた当初には考えていた。

ただ個別具体的に中身を見ていくと、あまりに「双子」の存在が、具体的でありながら象徴性に富んでいて、しかし美化、神秘化というものでもないため、岩根愛との相違点を比較するのではなく、稲岡作品を単独で掘り下げて考えることにした次第だ。

 

この双子、撮り始めた頃は幼かったのが、8年という月日の間で猛烈に成長しており、大人の肢体を持ちながら幼少期と同じように(むしろより見事に)シンクロしていることも、神秘とリアリティという相反する力を帯びる要因となっている。ただただ、凄い。

 

 

 

 

 

【3ー⑧】林典子「sawasawato」

展示された写真量と、取材内容、日本と北朝鮮との歴史と、情報量としては本展示で一番ボリュームがあった。今でもちゃんと理解し消化できたわけではない。実は会場で、本作をどう読めばいいか分からず、今に至るまで手付かずでいた。海の写真は印象的だった。

 

本作は、在日朝鮮人とその家族を対象とした北朝鮮への「帰国事業(帰還事業)」(1959年から1984年まで実施)によって、北朝鮮へと渡った「日本人妻」の声を聴き取る取り組みである。作者は7年間で12回も北朝鮮に訪れて、9人の日本人妻に会って取材・撮影している。

本展示ではうち2名の言葉と、持っていた過去の写真、現在を撮ったポートレイト、そしてかつて日本で暮らしていた時の思い出の場所を作者が訪れて撮影した風景写真などから構成される。

部屋の壁紙はそのまま本人の住居へと接続しており、日本へ帰れない日本人妻の代わりに、私達がその家から記憶と景色を眺めやる構造になっている。

 

 

キャプションでは本プロジェクトを「高齢となった日本人女性たちが暮らす北朝鮮と、日本の故郷との間の往復を重ねながら、両国を行き交う個々の記憶を紡ぎ合わせ、再構築していった」としている。

彼女ら日本人妻が所有していた写真と思い出の言葉を整理して提示するだけでなく、その記憶や思いを受けて、作者が更に撮影を行うところに本作の特色がある。思い出・記憶の写真は現在撮られた写真と混ぜられて掲げられている。直線的な読み方はできない。前後左右に揺れながら進む喋り・語りに耳を傾けるように見ていく。

 

それらを見終えると、海の組写真が窓の隣にあり、反対側には、海岸に立てられた海の写真を見て、指をさす日本人妻の姿の組写真がある。日本に戻ることができず、日本からの海景をもう臨めないであろう彼女の境遇が伝わる。

 

窓に立つ大きな1枚の海の写真は、日本から見た風景か、北朝鮮側から日本を見やっているのか、特に明記がなく、分からない。海はこちらの光景なのか、こちらとはどこなのか。北朝鮮側なのか、日本側なのか。どちらもがこちらで、どちらもが遠く彼岸にある。そうしたあまりに難しい「日本人妻」の状況と心情を表したのが本作の肝だったのではないか。身柄・アイデンティティーにせよ、国籍、地理的・政治的な負荷にせよ、所属する「国」にせよ、故郷にせよ…。

 

 

だがエモーショナルな共感だけでは追い付かない部分もあった。

北朝鮮という国の特殊性もさることながら、「日本人妻」という存在の歴史的経緯をこちらがインプットしきれていなかったことにある。

 

会場のキャプションには、日本が「在日」の人たちに行ってきた暴力的な扱いの歴史:戦前の日本による労働徴用や徴兵、戦後日本における貧困や差別による社会的・経済的苦境について記載されており、また本人らの過去の語りでも、在日朝鮮人との結婚に反対されたり、心無いことを言われたエピソードが描かれている。日本で在日朝鮮人と結婚した「日本人妻」にとっては、日本国内にいる時点で既に、帰属先としては「北朝鮮」との間で揺れ動いていたことを想像させる。

 

『sawasawato』というタイトルではWeb検索で出てこないが、書籍『朝鮮に渡った日本人妻 ―60年の記憶』(2019年、岩波新書でまさに本テーマが扱われている。以下の朝日新聞のインタビュー記事が分かりやすい。

book.asahi.com

 

一方で、解説も含めて本展示では「帰還事業」の実態と中身が一切触れられていない。

この事業によって北朝鮮へ帰還したのは9万人、うち日本人妻は約1,800人、という数字と、「夫に付き添って北朝鮮に渡り、家族や祖国から60年以上切り離されて暮らし続けている」という一言だけだ。

テキスト類は、日本における在日差別の記述に割かれており、北朝鮮朝鮮総連が当時PRした「帰還事業(帰国事業)」の欺瞞、現実として降り掛かった北朝鮮での地獄のような生活、そして今も日本との往来を阻む外交状況(そもそも国交がない状態)については、何もない。自分で調べなければ、そういうことがあったことも分からない。

 

NHKでは、北朝鮮政府を被告として(!)起こされた北朝鮮帰還事業裁判」について、原告らの声を特集している。(2022.3月) 中には日本人妻の声もある。地獄であり人権侵害であると…。

 

片や、「帰国事業」は増えすぎた在日朝鮮人の「厄介払い」として、日本政府にとっても利益があったという指摘もある。いずれにせよ個人が国ぐるみで「騙された」ことに変わりはなく、裏切られ、そして厳しい生活を送ることとなった。

gendai.ismedia.jp

 

「帰還事業」の中身を調べてようやく、私は「60年以上の歳月を海の向こうで暮らし続けてきた女性たちの人生と記憶との断片」について、具体的な関心と感情移入が生じるようになってきた。(と言っても既に5/8,KG会期最終日だが…)

日朝間の歴史的問題、今も続く外交問題、あるいは社会主義国の政治経済の実態、といった、大文字の「歴史」や「国家」の「文脈」に、個々人の声や眼差しが回収されてしまうことを、慎重かつ大胆に避けようとした意図があったのではと私は考えた。特定の国の体制を批判・糾弾することや、そのニュアンスによって「写真」が別の意味を帯びてしまうことの危険性は、よく理解できる。

 

だがそれなら前述の、日本の歴史に対する批判的な記述や発言はなぜ掲載されたのかが分からなくなる。

政治的な立場ゆえか…? いや、林典子のこれまでの活動を見ると、右・左の二項対立で割れるような、単純な人物ではない。もっと把握や理解の困難な状況へ赴いて現地取材を行っている。

 

ここでまた様々な記事、情報に当たりながら、再び、「日本人妻」が置かれている状況について、はっと思い至った。

 

言えるわけがない。

 

北朝鮮に住みながら、日本から短期滞在でやってきた「ジャーナリスト/フォトグラファー」のインタビューに、北朝鮮の内情についての批判・暴露など、言えるはずがない。

 

ましてやそれを、国境を越えて不特定多数の人の目に触れる場に出すことなど、出来ようはずもない。

だから本展示の全ての記述には、「北朝鮮」という国の現在系どころかその姿すらあまり書かれておらず、逆に「日本」というものが故郷・祖国である以上に、半ば仮想敵というか、トラウマの根っこのように、迫害の主体として登場するのではないか。

いや勿論、幸運にも、この9人(展示では2人)の日本人妻は、入朝後あまり抑圧されず、仕事にも恵まれ、苦労しなかった可能性もある。そういう人物が入念に選ばれて林に紹介された可能性もある。

 

林典子は、個人の言語構造のうちに幾重にも重なった政治性と権力を、誰よりも間近で見聞きし理解していたのではないか。そのため、、民主主義・資本主義的な「西側」の「正義」の論理を介在させずに、ひとりひとりの日本人妻――女性が、過去に見てきた風景、今現在「見ている」風景を、受け止めた言葉のとおり、そのまま丁寧に現わそうとしたのではないだろうか。

 

一概に語れないし、何かを迂闊に語れば、語ることで様々なスイッチが入ってしまう。些細なことで風景の色と形は変わるだろう。思い出の性質も変わるだろう。その困難さの中でここまで視覚映像化し、言葉を書き起こしている。なんという仕事か。

 

 

・・・とさんざん時間をかけて推論しながら書いては消しを繰り返してきたが、先に紹介した作者の著書を読めば、やはりそういう複雑な話:北朝鮮当局との絡み、取材の申請と許可、日朝の様々な歴史的関わりなど、全てを踏まえて本作が練り上げられていったことが分かった。

 

books.j-cast.com

これはいいレビュー。原著買って読めっていう話ですが。はい、はい。すんません今見つけたところなんですこれ(  >_<) すんませんね。

 

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「10/10 現代日本女性写真家たちの祝祭」展は、会期もうちょっと長くするか、別の美術館とか会場を変えて巡回してもらっても良いなあと思いました。これは他のKGプログラムより圧倒的に情報量と質が深いですわ。ひいー。

HOSOO GALLERYがそもそも完全予約制でしたし… 結局飛ばして見れてない人も多いのでは。

 

思いもかけず時間とボリュームを費やしてしまったので、残り二人:岡部桃と清水はるみは改めて稿を分けてレポします。へい。

( ´ ¬ ` )