nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R5.9/6-10/1_藤安淳「かさなるひかり」@Kousagisha Gallery

「双子」としての当事者から、自身と同じ双子を撮ってきた作者が、この新型コロナ禍の間に制作していたのは、身近な場所とモノを使ったデジタル写真作品であった。

一見、色しかない抽象表現となり、これまでの作品から遠く離れたようで戸惑いを覚えるが、一歩ずつ読んでいくうちに従来作との関連を掴むことができた。

【会期】2023.9/6-10/1

 

抽象度の高さに驚かされる。会場に入ってしばらくの戸惑いもさることながら、帰宅後に会場写真やDMを見返していても思い切った展示だったと感じる。

これまで発表されてきた作品は作者自身を含めた双子のポートレイトであり、セルフドキュメンタリーとでも呼ぶべき双子の当事者としての/当事者からの供述であった。まず話者がおり、言葉があって、写真があった。撮り方・アプローチはどうあれ――初期作品では全身の身体的特徴を分解しパーツ比較して提示したが、それも含めて「人物」の写真作品であった。

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双子として生まれて生きてきたことの内情、もう片方の兄弟姉妹との相違について、異なる・独立した自己を持つことを、双子である当事者から語るものである。外からは二人一組のシンクロした存在としてセット視、同一視されてしまう、そのことへの異議申し立てとなっていた。つまりこれまで「双子」を眼差す視点や扱い方が、実に当事者の内面への無理解に基づく、時に神秘的なイメージ消費でもあったことを気付かせる、そうした取り組みであった。

 

今作は圧倒的に思い切った針の振り方が試みられている。

話者も言葉もなく、映像だけがある。

現物を見るとそれだけではないのだが、会場をサッと回ったり、こうして会場写真で平面的に見ると、色であり、色のとろみであり、抽象絵画やデザインを意識したもののように見えてしまう。更にはスマホカメラのマクロ機能を度外視した超近接撮影や、サーモグラフィーの画面にすら見える。実際、遠目に見ているうちは、本当にスマホのサーモグラフィーアプリで身近なものを温度視してスクリーンショットした画像ではないかと疑ったほどだ。

 

と言うのもステートメントには、新型コロナ禍において全ての写真家が見舞われたであろう、苦境とも呼べる状況とと折り合いを付けた結果生まれた作品であることを思わせる記述があるためだ。

自らの手で身近なものを使い、

事物の揺らぎを作り出すことを始めた。

その揺らぎをカメラのレンズを通して「見て」、

「写真」に起こして並べる。

 

不特定多数の人(双子)と会って対話し撮影してきた作者が、大きく方向転換し、身近なものを自らの手で構成し撮影してきた。となれば、新型コロナ禍との関連――日常、生活、家族、対人関係、閉塞、自室、接触、体温、といったテーマをまず念頭に置いて読解しようとするのがニューノーマル読解しぐさとしては自然なところではある。実際、本作の制作動機としてはその通りで、人に会うことが憚られ、喋る行為も顔の下半分を露出することも禁じられ、移動すら自粛を求められる状況下にあっては(特にコロナ禍初年度の2020年は、恐怖や責任、疫学上の理由などから、社会的生活の全てがリスク要因としてメタに疑われる手探り状態となっていた。)、作者の制作手法は従来路線のままというわけにはいかなくなった。

 

だが自宅で身近なものを用いて制作を行う中で、作者が手繰り寄せたテーマ性は新型コロナ禍でのニューノーマル的文脈とはまた異なるものだった。それは、「見ること」「撮ること」自体への問い直しである。

問い直しについては展示DMの紹介でも触れられているが、実際に作品・作者と直接リンクするまで時間を要する。

「見ること」の「問い直し」がどこから来たのか、ここで直接的に効いてきてしまうのが新型コロナ禍での閉鎖的な生活、及び数多くの作家が語ったこの間の制作活動のありよう・動機、といった、これまたニューノーマル的な文脈であるが、しかし作者のこれまでの活動の核となる動機と照らし合わせた時に、理解が一気に進み、視界が進んだ思いがした。

 

やはりキーワードは「双子」だったのである。

双子として二人まとめて同一視されて「見られる」ことに晒され続けてきたために、その疑念や違和感などから「見ること」(見られること)に対して敏感であらざるを得ない作者にとって、またそのことをまさに作品としてきた作者にとっては、日常を見る・撮るといった行為は、日常的な記録や表現行為の域には収まらなかった。その行為を分解し、構造的に把握し直し、見ること・撮ることが何から出来ているかを自らの手で探るのが今回の試みである。

 

本作は各種の制作段階を飛ばして最終的な成果のみを展示しているため、「見ること」の行為性すら感じさせないイメージ体、色=光の現象に行き着いているが、説明を聞いていると、かなりの段階を経てここに行き着いたことが分かった。

撮影自体はステートメントの通り素朴である。身の回りにあるものを自宅内で並べて、簡易スタジオ的に配置・構成し、至近距離から撮影する。山沢栄子や杉浦邦恵の名が参照項として挙がった。

だがこれまでのフィルムからデジタルカメラに持ち替えた作者は、見ること・見て認識すること、それを写真と化すことのプロセス自体に踏み込む。当初は通常の写真的な像だったらしいが、photoshopでの作業を通じるうちに本作のような色=光のレイヤーに還元された像となったという。

なおphotoshop上での具体的な作業工程は不明だが、どうなるかは本人にも予測できないものだという。作者の手を離れたブラックボックス的なアウトプットは、フィルム写真における工程との共通性を連想させた。

 

「レイヤー」という発想が本作では強く生かされている。フィルム写真では遠近感やピントという空間的な概念(1つの世界に対して手前と奥行きがある)だった「写真」が、デジタル写真、特にphotoshopでの編集を介するようになると必然的にレイヤー(平面の層の重なり)として新たに立ち上がることになる。

こうしてデジタルに切り替えた作者が新たに取り組んだのが、レイヤー構成として世界/写真を「見る」、表すということだった。何かを見ること、デジタル写真にするということは、光を見る・撮ることであるが、光とは折りたたまれた明度や色相の層であり、遠近もまたその重なりから構成されている。

 

写真はほぼ同じようなイメージが2体1組の対になって配置される。距離が離れていてもどこかしらで対での展開がなされている。

デジタル写真から「見ること」を解体的に辿った上で、色(=光)のレイヤリングへと捉え直した像には、photoshopでのハードな工程を経ても元の写真の微妙な違いが残っている。元の遠近感、何かしらの被写体の輪郭、背景との境目、陰影といった、原型を感じさせる。色味の彩度がもっと控えめだったならば視覚と視野の構造を巡る議論、両目で見ること・左右の眼がそれぞれ見ているものの議論、などにも転じたかもしれない。

 

ここでは似たイメージの同一性と差異について、あるいはその共鳴・共存について言及されているようだ。

素通りしたり、概要を捉えるためにパッと「見る」際には、それらは同じ一つを並べた二つとして見える。両者に違いがあるという前提「見る」ならばそれは間違い探し行為となる。

これはまさに作者が「双子」として負ってきた「見る」「見られる」の眼差しの問題をそのまま継承していると言えないだろうか。展示されたイメージ体には、人間のように過去やプロフィール、発言こそ無いものの、これまでの作品で取り組んできたテーマがより高い純度で提示されていることを知った。差異の確認や間違い探しはともすれば優劣や美醜の価値評価に転じる可能性も秘めていて、それもまた「双子」に向けられるリアルの眼差しのきつさに触れるものと考えることもできるだろう。

 

展示DMから既にその示唆は始まっていて、縦長二つ折り・両面カラー印刷でデザインされた紙面の表側両面には、一見同じ告知・イメージが掲載されている。だが並べて見ればこれらはまさに「双子」、生まれたところと経てきた過程は同じでも、微妙な違いを湛えた異なる像となっている。ましてやその完成形である展示会場では、それぞれ個別に額装され、独立した別の個体として取り扱われている。

見る・見られるの議論、イメージの類似性と独立性、その共鳴、双子としての当事者性が、日常の視界をレイヤーの重なりとして解体・加工していくなかで見出されつつ、光の複合のように混ぜ合わされ、重なり合っている。

こうした理解は、概ね作者に意図を語ってもらいながら鑑賞することで得られた納得感に基づいており、私一人で観て回って帰っていたらどういう結果になったかは分からない。

さすがにサーモグラフィー的だなどと比喩に終始することにはならないと思うが、しかしそれも当たらずも遠からずで、作品にそうした暖色系が強く効いていて、人肌の温度感が宿されているのは確かであり、物の配置を撮ってphotoshopでハードに画像処理をかけていても、結果としては対人表現に近付いていくあたり、やはり作者は従来作品と根底で通ずる取り組み「人物写真を通じて双子の当事者性を扱っている」という結論に辿り着いたようにも思う。

 

今回は特急的に通過された、この抽象的な光へ至るまでの過程、山沢栄子や杉浦邦恵への関連を感じさせるような、具象的なモノ・風景や遠近を扱っている時点での「見る」「見られる」への試行錯誤も、何らかの形で織り交ぜて開示されると、写真的な問いかけ、視覚や視座を巡る問い掛けとしては色々とあり得るのではないかとも思った。

 

( ´ - ` ) 完。