nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真イベント】R4.5/28 写真作家ポートフォリオレビュー(速水惟広氏 呼び掛け)桑迫伽奈、塩原真澄、鈴木かずなり、ほんだのりこ

T.I.P(TOKYO INSTITUTE OF PHOTOGRAPHY)、T3 PHOTO FESTIVAL TOKYOファウンダー・速水惟広氏の呼びかけで集まった、写真家4名のレビューをさせていただいた。

 

「写真をやり始めてまだ間がない方々かな」と思っていたら、しっかりした受賞歴や展示歴があり、既に自分のテーマや手法を確立している方々であった。アエエッッ。強者だ。あかんこれ気合入れなやばい。アエエッッ。

皆さん、今後の活躍でまた出会う機会も大いにありそうなので、作品についてレポします。

【開催日】R4.5/28(土)19:30~21:00

 

 

会はクローズな場で行われた。こちらから評価や指南をするというより、こちらが受け取った解釈を伝えて意見交換をするのが主だった。

途中から速水氏がフォロー&議論に入り、作家としてのメタ的な立ち位置や展開の視野などについて、提示された作品の枠を超えて話し合った。これは作家との一対一の質疑よりも多角的で面白かった。

 

事前にポートフォリオ・作品のデータを送ってもらっていたので非常に助かった。

以前、コロナ禍が始まってしばらくした頃に完全なzoom内レビューを聴講した際、その場のPC画面共有だけで作品について議論することは不可能に近いと実感した。PC画面では何も分からなかったのだ。確認・指摘内容は根元のテーマ性や、今後の活動の展開についての議論が主だった。

 

なので、できるだけ事前に考えておこうと思ったわけです。不器用なのもあります。アドリブがへた。はい。

結果的には、やはりデータは生作品ではないので、どうあがいても作品そのもののディテールや質感は分からないため、テーマ性や今後の展開の話に向かうのだったが、「その場で見てその場でリアクションする」ことの経験値が圧倒的に少ない自分にとっては、事前予習は不可欠であった。ひろゆきや落合陽一のようなコメント力は無いのだ。凡夫は観念しましょう。

 

では今回、レビューさせていただいた4名の作家の取り組み、作品についてレポしていこう。

 

 

■桑迫伽奈「seeing the invisible」

「seeing the invisible」は、今年4/9~24、札幌の「ギャラリー創」で展開された新作シリーズだ。樹を見上げた写真に直接、刺繍を施している。

 

樹は様々な場所で撮られているが、秋から冬にかけて、葉が落ちて幹と枝だけになった姿が選ばれている。仕上げは絵画を意識し、正方形にトリミングし、カンバスに水張りされ、壁面と調和しつつ、刺繍部分が浮き上がるよう作られている。斜めからの拡大写真を見ると、糸の部分は厚みで立体化している。

糸の色は過去作品とリンクしていて、同じカラーパレットとなる。樹のどこをどう縫うかは直感的に決めているという。

 

リアルの展示・作品では、遠目からは部分的に着色された写真として、近付くと立体的な、微細な手芸作品として体感されたことだろう。

 

桑迫作品は、森や山の「自然」が持つ光や色を原点とし、そこから写真に刺繍を施すシリーズと、多重露光などを活用して重層化させるシリーズに分岐している。本作は前者に当たるが、過去作では光跡や雨粒などアブストラクトを糸で物性化していたのに対して、今作は樹の枝と幹という非常に具体的なものを縫っている。

 

具体物を刺繍することで、以前は観客から「何処で・何を撮った写真か?」という条件面を聞かれることが多かったが、今作では「こう見える」と、作品の「見え方」へと意識を向けさせることに繋がったという。ひいては、樹や森の見え方を変える/意識させることで、普段は景色に溶け込んでいて「見えて」いなかったそれらを、改めて「見る」ようになる。

 

観客が刺繍に自身の内面を投影することも可能だろう。何を見るかは委ねられている。だが、作者が一貫して「自然」と人間・人為との関わりを考えてきたことを踏まえると、多重露光で作られた前作《不自然な自然》と対になるものと考えた。

 

《不自然な自然》シリーズは、北海道を中心に様々な場所の「森」で、木々の木漏れ日を多重露光で撮っており、人の眼には見えない=カメラのみに見えている重層的なビジュアルを提示しているが、逆にその方が「自然」を五感で体感した時に近かったという。

ここでは作者の手を離して、カメラに委ねることで「人為・人工」と「自然」が結ばれ合うイメージを現わしている。本作《seeing the invisible》では、刺繍によって「自然」の表象を人間の手元へ・身体へと引き寄せる運動が行われている。

ふたつは往還している。どちらも「自然」が人の手を介して作られたり、人の意識が関わって現れることを問う。

 

また本作は、写真作品でありながら制作工程の途中から「写真」性が後退し、別の領域へ居場所を移していくような、粘菌のような性質も感じる。

 

写真を刺繍し、糸で繋ぐ作家は他にも何名か知る機会があったが、自身の記憶や心情、繋がりといったものを強く現すために用いられていたように思う。糸、紐、縄は、言うまでもなく塩田千春を連想させる。「私」の内側から強く、断ち難く発せられる「縁」や血・・・ だが桑迫作品では、そういった個人の身体性から別の次元で、「自然」という漠然としたものを可視化する働きを持つ。

 

ゆくゆくは空間的な展開が可能となり、個々の作品の完成度を打ち破って、糸が更なる人工的な「自然」/あるいは人為が現す「自然」の場を生み出していくのではないかと想像した。

 

kanakuwasako.com

 

 

■塩原真澄「Identification of Fruits Varieties」「Farmer's Improvisation」「Creation of new varieties」等

長野県で果樹農家を営み、果物のブリーダー(育種家)として数十種類の果物を育てて栽培している、異色の作者である。最初はボタニカルアートの作家に提供するために写真を提供していたが、そもそも写真でボタニカルアートが出来ないかと自身で制作するに至ったという。

 

植物の特許出願、品種登録時には、他の類似品種と比較するための記録:特性テーブルを作成する必要があり、花弁や葉、果実のどこがどういう形質を備えているかの記録写真を一つにまとめ、更に、鑑賞者の審美眼に耐えうるビジュアルを持たせたのが本作「Identification of Fruits Varieties」である。

 

例えば、農林水産省「審査基準・特性表」(りんご・生食用)PDFを見ると、事細かに各パーツの形質について審査・判定の基準が設けられていることが分かる。

http://www.hinshu2.maff.go.jp/info/sinsakijun/kijun/1399.pdf

 

作者はこうした業務的な観点とデータを、写真の編集によって「表現」へと昇華させている。

フォーマットは古風な博物図鑑を思わせるが、データの中身は現代の、生産現場からの経済活動とバイオ技術の博物学である。

 

本作が高い完成度を持っていることは重々理解できた。他のシリーズも、例えば一品ずつの果実をモノクロで精緻に捉えた「Farmer's Improvisation」も、展開は違うが完成度が高い。

「Farmers Improvisation」は、様々な品種の特異な形質を、モノクロで美的に表そうとする試みとのみ解していたが、説明を聞くとそれどころではない。異なる品種のブドウを組み合わせて別々の実を付けるようにしたり、畑での生育過程で手を加えて環形に実がなるよう操作したりと、文系出身で事務職として働く私には到底理解できない領域の話であった。農家にとっては「やればできる」レベルなのか、これがすごいことなのかも全く分からないが、「農家の即興」というタイトルの通り、技術を扱う当事者として果実の生育過程に手を加えること自体が、作品としてのアクションであることが徐々に分かってきた。

 

個々の作品の完成度が高いがゆえに、私は作者がどこに向かおうとしているのかを測りかねた。

品種と形質、交配など人為的な操作、すなわち種苗家ならではの「科学(農学)」のダイナミックな働きと、博物学的な編集力とをどう組み合わせれば良いのか――作者が表現しようとしていることと、こちらが受ける情報と、実際にその裏側にある科学的な領域の奥行きとが、果たして噛み合っているのか、個々の「完成度」がそれを狭めているのではないかという疑問で、唸らされた。

だが、速水氏の解説により、「果樹農家が身の回りの物事を、アートの文脈を用いて表現している」こと自体、アクションとして注目すべき価値があるという、メタ的な視点を示されて、納得した。

作者の関心は果実や形質の描写の域にとどまらず、見ての通り、日々の農業で接する光景や農具なども「アート」の文脈を援用して作品化している。美術関係の出身ではない別業種・別世界の人間が「アート」を用い、説得力のあるビジュアル表現を行っていること自体が、最大の見どころと言えるだろう。

 

これは、第1次産業・2次産業の現場や従事者が極めて高度かつ専門的な技術と知見を有し、日々アップデートを重ねているにも関わらず、私達のような第3次産業ベースの生活者はそれを顧みる機会もなく、3次産業内で半ば自己完結した生活を送っていることと、地続きな構造なのではないだろうか。

同じフィールドの人種同士を評価し合っているが、農業や鉱業、工業のことは「専門外」として度外視してきた・・・ 農家の方が何をしているか。コンバインやトラクターを運転している姿以外のことは、実は何も知らない。

「表現」の手段と機会が真に万人にもたらされるということは、第3次産業の上澄みである表現界隈の特権的なヒエラルキーの虚を突くことにも繋がるのだろうか。(同時に、再回収もされうるが) そのダイナミクスを感じさせるところが面白いのだろう。

 

作品は「LensCuture」サイトから参照できる。

www.lensculture.com

 

 

 

■鈴木かずなり「Surveillance Tourism」

有名観光地・景勝地の主体を画像処理で白く切り抜いてしまうことで、その周囲にある風景に目をいかせる作品だ。

観光地で誰もが定番の景色を撮影するのは何故か。作者は歴史を振り返り、約200年前の江戸時代以降に観光が始まり、浮世絵、そして写真の発達から、景勝地のアイコン的な表象が受け継がれてきたことに注目する。

作品は、古い写真・絵葉書が列挙され、次第に時代が下ってゆき、有名な景勝地がどのようにテンプレートとして語られてきたかを示す。最後の一コマは現代のライブカメラ映像の一コマだという。

 

作者の意図は、核となるアイコンを除いた際に「周囲」がいかに浮かび上がるかを示そうとするものだが、私が手元のスマホやA4紙の上下段にプリントして作品を確認した際には、逆のことが生じた。

主役のディテールを取り除くことによって、景勝地のアイコン性が増したのだ。

富士山や金閣寺は、何の支障もなく「それ」として認知に飛び込んできた。むしろその風景の「型」から目が動かせなくなった。

 

これは鑑賞時の作品の大きさによるところで、例えばトーマス・ルフのように極端に巨大化した時には見えるものが一変する、ということはありうる。

 

逆に、自分のあまり知らない「日光神橋」は、ただの橋に近いため、葉書によっては周囲の風景が勝つものもあった。私は関西人であるから、まだ天橋立のほうが広告などで見る機会は多い。

つまり景勝地とは、「周囲の風景とのセット化」と「物心つく前からのメディア体験・情操教育」の大きく2点から成立していると言えるだろう。

前者は、有名景勝地であれば環境を壊さないよう守られてきただろうし、有名な寺社仏閣や庭園などは最初から見られることを前提に、当時の最高の技術で建築・造園されている。そして適切な・最大限「よさ」を伝えるフレーミングが固定され、定番として語り継がれていく。

「観光」とは、後者の内面化された蓄積を、直に触れることで身体化させる行為と呼ぶことができる。私にとっては、初めての「東京」体験がまさにそうだった。さんざんテレビと写真だけで与えられ続けてきた光景の中を、実際に歩くというのは、たいへんな興奮を伴うものだった。

 

本作は同時に、場所の政治性を突くことにも繋がる。景勝地とは「美」であり、「国」のアイデンティティー、強さそのものでもある。「富士山」や伊勢の「夫婦岩」はまさに「日本」を象徴する重大なアイコンであり、神聖なものとして扱われてきただろう。

 

それ自体を消しても「それ」と判る、とは、権力を内面化しているとも言える。

逆に言うと、場所によってアイコン性の強弱が生じ、その周囲のものが強く表れるということは、政治性・権力にもグラデーションがあるということに繋がる。そうした発見をもたらしてくれる作品であった。

 

 

■ほんだのりこ「EDLP ~COVID-19」

何気ない日常スナップに見えるが、これは現代の都市生活者のドキュメンタリーでもある。まるで生きる機械のように一方向へ歩いていき、電車で運ばれる人々。集合住宅、空き地、鳩、雑草、折り重なる廃物。EDLP」、Everyday Low Place=毎日低価格というタイトルは、コストパフォーマンスの観点からしか評価・認識されない労働者としての作者自身を指している。

 

コスパそれは「特別な何か」になれなかった全ての生活者の至上命題だ。いや、「特別な」国民的アイドル、芸人、歌手すら、コスパで判定され続けている。割に合わなければ番組再編で姿を消し、コスパが良ければ登場回数が増し、多角的な仕事を任される。

コスパとは時間当たりの労働力・生産性だけを指すのではない。健康・障害の有無、道徳的な安全性も含まれる。何の問題も起こさず、良い感じで安定し、政府や自治体の唱える「自助・共助・公助」の範疇に収まっていることが暗に求められている。

 

「今や「一生懸命働いたら、豊かな暮らしが待っている」ということは、おとぎ話になってしまいました。本当はずいぶん前からそうだったのかもしれません。」

 

見て見ないふり、ずっとスマホを見て、お互いを見ることもなく、それでもただ働き続ける私達のありようが撮られている。さしたるビジョンや目的も、あるのかないのか、ただ生産性の一部となって稼働している。

 

これはマジョリティの実態をよく表していると思う。

マジョリティかマイノリティかで言えば、私も作者も被写体の人達もマジョリティに振り分けられるだろう。だがそこに特権的な、優越する何かがあるのかどうかは、個別具体的に生活を顧みていくと、怪しい。雇用や健康その他の条件が揃い、今たまたまマジョリティ側に居られるだけに過ぎない。割に合わない、コスパの悪い存在になった瞬間に、恐らくひっくり返る。

 

とんでもないところに私達は立っていると思う。

 

写真をはじめとする「表現」から、マジョリティの日常や感性が抜け落ちることは危険だと常々思っている。弱きもの、語られざる者、マイノリティ、地方、歴史的問題、傷、暴力性・・・を語ることは大切だ。しかし大企業に勤め、政府与党に票を投じ、性自認・性愛対象にブレのない人間が、何もなく幸せに、安定して生きているのかどうか。生きづらさは誰のものなのか。今や大多数の一般的な感性ではないのか。そこが空洞化するとまずいのではないか。

本作のようなスナップは、表現の空洞化に歯止めをかける。

 

なお、本作にはしばしばモノクロ写真が挿入される。具体的な風景のカットはカラーの方が効果的だと思ったが、形の定まらない影や、ゴリラのような影(樹の写真の上に手芸品を乗せて再撮影したらしい)のカットは、不穏さ、不安感をよく表していた。幸福への期待値が底をついている状況を示唆するようだった。

 

 

デイリーで蓄積されていくスナップの場合、作品発表をどうすればいいのか?という話題になった。

自主運営ギャラリーのメンバーなどで展示の機会が多い作家なら、タイムリーな話題をその都度発表できる。例えばコロナ禍の最中にコロナ禍の鬱屈や閉塞を表しても、タイムラグがないのでストレートに伝わる。だが普通はそうもいかない。フリーペーパーを定期刊行して配るという方法もあるが、配布先が必要だ。

まずはSNSTwitterなどで上げ続けてはどうですか、という話で落ち着いた。色々できそうに見えて、わりと限られている・・・。

 

 

なお、作者はスナップ活動だけではなく、妹との関係を撮った作品を発表している。

honda-noriko.jimdosite.com

 

 

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もう1名、レビューに直接参加はされなかったが、本田光さんを紹介いただきました。

《うきま》という作品で、今年R4.4/28~5/11、EPSONの「エプサイトギャラリー」で個展をしていました。妻との暮らしを10年にわたって撮ってきた作品です。

www.hikaruchan.com

 

 

皆さんテーマ性と手法の確立がしっかりしていてすごいですね。「写真」表現の幅の広さを実感します。まさに、有名観光地に行ったり、綺麗なものを綺麗に撮らなくても、「作品」は作れるんやということです。

 

それぞれの受賞歴や活動歴は省略したが、皆さん旺盛な活動を行っていて、今後どこかで、例えば展示などでまた出会うことは確実に思われた。こうした、現在進行形で活躍中の作家に関われることは、自分にとって色々と重要なことであると実感した。

 

写真やりましょう写真。

 

( ´ - ` ) 完。