nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真展】R3.4/3~7/4_山内悠「惑星」@入江泰吉記念奈良市写真美術館

山内悠は多才だと思う。作風の幅だけでなく、会場の構成、各パートの並べ方やサイズのリズム感、題字の見せ方など、様々な要素がデザインとしても心地好く、モンゴルに対する共感の豊かさが溢れている。この共感を無限大に広げたところに認められる存在や時間の多様さを「惑星」と呼んでいるのだろう。無論、私はそれだけでは満たされないので、「惑星」の別の可能性を探った。 

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【会期】R3.4/3~7/4

 

モンゴルを舞台とした作品シリーズで、2014年から毎年、モンゴル全土と内モンゴル自治区モンゴル国の南側に位置、中国政府が管理)に通い、その独特な光景:原始の世界を思わせる自然景と、その自然の中で生きる人々を捉えている。

 

展示構成は順番に<楽園>、<都市>、<砂漠>、<創世>の4テーマから成る。うち<都市>だけは、首都ウランバートルの多彩な人々や都市空間の表情をスナップで撮ったもので、後は自然界が主役である。

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なお、本展示は撮影不可だが、作者HPにて作品を見ることができる。

 

www.yuyamauchi.com

 

作品は3つに大別できる。モンゴルの情景や地元民をファンタジックに、デザインや広告のように鮮やかに捉えたもの。都市部の光景を鮮やかに断片的にスナップしたもの。地形や岩や空を宇宙に直結した場として、そこを一個の「星」として捉えたもの。

複数の作風は、ステートメント『すべてが「いま」という瞬間に存在している』『僕たちがいま此処にあるということ。それは、すべての瞬間における無限の選択の集約である。』とあるように、多彩な光景をひとつの次元のものとして提示する。作者個人が様々な、多彩な時間や存在に対して寄せる穏やかな共感から浮かび上がるネットワーク、それが「惑星」という世界観なのだろう。

 

最初のコーナー<楽園>は、本展示のキービジュアルに象徴されるように、空の青と高原の緑で写真の上下が構成され、伝統的な民族衣装を纏った地元民が、草花や動物と共に写されている。ビビッドな絵柄はまさに「楽園」だが、そのような描写を見ると、標高1000~1500mの遊牧生活の厳しさや、北側にはロシア・南に中国という地政学について、理想郷というよりシリアスな営みを逆に想像させられてしまう。

 写真はとても豊かな幸福さに満ちている。私はその色と構図と表情の豊かさ、写真の完成された感じ、どうとも解釈できないーー理想的すぎる雰囲気に対して入り込む余地がなく、テーマパークの広告のようだとも感じた。これは誰にとっての「楽園」なのか? 

 

だが山内悠という写真家がコマーシャル仕事とは逆に、長期間の滞在によって自らの心身で「自然」と向き合い、対話する中から写真を撮っていることを踏まえると、純粋に作者が「モンゴル」という地の豊かさを前面的に肯定したものと解釈した。

そのような解釈を選んだのは、会場に置かれていた著作『雲の上に住む人 富士山須走口七合目の山小屋から』(2014,静山社 作者:山内悠、関次廣)の、優れた筆致のためだ。

 

これは、富士山七合目に立つ山小屋「太陽館」の主人・関氏に密着した写真と手記である。シーズン前から人知れず山小屋を開け、雪の中から山小屋を掘り出し、山開きとともに登山客を受け入れ、そして冬を前に小屋を閉めるまでの日々を綴っている。低温、低気圧、悪天候、いつなんどき人が死ぬかも知れない、水のやりくりさえ非常に苦労する厳しい環境で日々を生きることは、すなわち「自然」との対話そのものである。山とは、人智を超えた存在としてそこにあることを、作者が体得していく様子がよく伝わってきた。よい本だった。

 

作者のこのようなスタンスを踏まえると、写真が幸福な雰囲気で完成されていたのは、現地に滞在する中で、実際に豊かな場所として作者が関係を取り結んだことの、偽らざる純粋な想いなのだろうと素直に解釈するに至った。

現地の遊牧民らも、実際にはソーラーパネルやWebの通信ツール等、電子機器を駆使した現代風のテント生活を送っていると思う。だが本作では、原点としての遠い昔で時の流れが止まったままのような、自然と共にある営み・装いに焦点が当てられている。

 

その分、先述のとおり、次の<都市>パートは急進的に都市化したモンゴルを捉えている。無機質の電光とコンクリートと配管と直線的な陰影に満ちたスナップは、スピード感があって面白かった。ウランバートルという都市が、ロシアと中国のどちらにも引き寄せられながら・混ざり合いながら、ひたすらメイクの厚塗りのようにキッチュの上乗せで疾走していることが伝わってくる。

ただ、都市景は主題ではなかったと見えて、2L位の小さなプリントをケースに入れて横に2列で並べていた。主力はやはり自然景である。

 

後の<砂漠>内モンゴル自治区の砂漠で、うねる砂の世界に白いドーム状の建物だけがチラッと見えている。<創世>は真夜中のモンゴルの荒野を歩き、岩や木々の姿を長時間露光で写し込んでいる。

 

凄まじい光景、これは「地球」ではなく「星」だ。

写真は「ここ」を地球という日常の領域から解き放ち、頭上を占める真空――暗い空と無数に輝く星々へと地上を直結させている。地球は宇宙の一部としての「惑星」へと還元される。

 

真空や宇宙とくれば私の大好物なはずだが、不思議と、あまり世界観に没入は出来なかった。<創世>の深夜のモノクロが、プリントの調子のためか、夜空と手前の地上の岩や木々と均質に暗くざらざらしていて、夜空の暗黒の抜け、奥行き感、つまり陶酔感がなかった。

 

空と地上が一つの闇――宇宙へと繋がれて還元される様子を表現したい、という意図があったのかもしれないが、私の念頭に奈良原一高をはじめとする、プリントの明暗や暗黒の深さに優れた写真家の存在があったためか、陶酔感、異世界への深い突入を求めていた。

夜のモンゴルの地上が宇宙と直結して、原初の「星」の姿を見せることには大いに共感し、了解できた。だが現実のドキュメンタリーか、幻想のファンタジックか、どちらもありつつ、どちらにも逸脱しないバランス感が、私をどこかで押し留めていた。

 

逆に、「地球」を宇宙の「惑星」へと一転させた決定的な一撃は、<楽園>、<都市>、<砂漠>に登場する、奇妙にソリッドな形状の、近未来的な建築物の写真だった。

<楽園>と<都市>の冒頭に提示されたそれらは、疑う余地もないほど月や火星の表面に建設された基地だった。見覚えのあるスターウォーズ的なそのフォルムは、想像するに、旧ソ連、旧共産圏の美学的意匠がモンゴルにも進出していたのだろう。これらのカットは揺るぎない現実としてのドキュメンタリーと、壮大なファンタジーとの両面を強く併せ持っていた。

 

何が本作を「惑星」たらしめているかというと、私にとっては、社会主義という強い政治的イズムの退潮後、取り残されて思想的真空と化した建築物と砂漠とが、その夥しい透明な虚無によって「宇宙」と連結されたという、ダイナミックな歴史的事象である。

そしてそれは写真によってまた更に冷たい真空に包まれる。その相乗効果が良かった。効いた。この零度さには、作者の言葉を元に本作のテーマと照合するならば、その認識や共感のネットワークとも異なる層の力があるように思われた。無数の、並行して存在する人々や時間は、かつては大統一されていたはずだ。建築物の意匠を通じて発信、流通していた強い思想的・政治的統制力が不在となり、国土が純粋なもの――「星」へと解き放たれた。その真空に、私はもう一つの楽園、惑星を見た思いがした。

面白かった。 

 

 ( ´ - ` ) 完。