nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真展】R4.1/29~2/26_石川竜一「いのちのうちがわ」@The Third Gallery Aya

2021年5月発刊の写真集を元にした展示である。2021年3~4月の渋谷のギャラリー「SAI」から1年越しで関西での展示となった。写真集が独特かつ高価で、話題作と聞きながらも目にする機会がなかったので、有難い企画となった。

以下、2/12(土)に行われたギャラリートークも踏まえて、レポートと私見をあれする。

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【会期】R4.1/29~2/26

 

 

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「自然」の写真、と括ると違和感がある。ネイチャーフォトと称される写真とは「自然」との関わり方と写真の扱いが異なっている。狩猟・解体という非常に直接的な行為を経ていることと、奪った命から得られた「いのち」の「かたち」を扱っているからだ。それはもう、人間的な安全圏から「自然」を一方的に撮る行為では全くない。

 

写真集の詳細は発刊元の「赤々舎」ページを見ていただこう。普通の、ページとして綴じられた写真集と違い、ポートフォリオ形式で1枚1枚が分離している。印刷の質が高く、額に入れればそのまま作品として飾れるような逸品だ。

 

石川は2015年から現在に至るまで、サバイバル登山家・服部文祥(ぶんしょう)氏に同行して山に入っている。2016年に写真集『CAMP』をまとめたが、その後も二人で山に入り続けている。山と言っても基本的に自給自足のサバイバル、獲物を獲らないと食べるものがない、だが獲物はいつ現れるか分からない。そもそも道がなく、何かあっても容易には引き返せないという状況である。狩猟、寝床の確保、薪の確保などと、「生きる」ことに忙しいそうだ。

 

どのように自然に分け入ってサバイバル&撮影を行っていたかは、TOKIONのインタビュー記事で詳細に語られている。

tokion.jp

 

本作は独特な魅力に満ちている。静かな緊張感、静謐と猛々しさが同居している。

インタビューで『内臓は時間がたつと乾いてくるし、ガスが溜まって膨らんだり、常に変化していく』と語っているように、狩猟という偶然性が高いイベント/状況の中で、即興的に臓物を撮影している、なおかつ作者自身の置かれた状況や心情を極力排し、ドキュメンタリー性や解説を避けた撮り方に徹している。

 

具体的には、獲れたての新鮮な内臓、首や手など体の一部が画面の中央に置かれ、どの臓物や部位も一定のサイズ感を保っている。作者の心情の動きやコンディションとは距離を保って画面内の主役となっており、視線は造形の表情に正面から向き合っている。臓物がこっちを見ているようでもある。ゆえに静物写真ではなくポートレイトに近い。

一方で、写真は作者自身のことは語らない。危険を伴う命がけのイベント/状況であり、それゆえに高揚感や達成感を伴うであろう一期一会の体験にも関わらず、狩猟の過程、獲物を食うことの喜びや興奮、登山のことすら語っていない。この削ぎ落とし方は驚異的だ。普通は不可能だと思う。

 

サバイバル生活が日常化しているためかなとも思ったが、話を読んだり聴いたりした限り、服部文祥と違って石川のサバイバル期間・回数は『5~6年かけて20回近く』『2~3日の時もあれば1週間の時も』トークより)と、割と限られている。「自然」界から見れば私達一般人と大差ないとも言えるだろう。

「自然」界を挑戦者的に制圧・攻略するのではなく、逆に一体化したりスピリチュアルに向かうのでもなく、本作は「自然」を現実的な「人間(人工)」の世界へと結び付けている。本人も、ライセンスが無いため猟銃を持てず、服部文祥のサポート役に徹していることもあってか、そのことにかなり自覚的なように見える。

難しい立ち位置をバランスよく保っているのは、「自然」の懐深くに入り込みながら、肖像を撮るように敬意を持ってカメラを向ける距離の取り方ゆえだろう。だが、両者の世界をリンクさせているのは撮り方だけではない。

 

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「自然」と「人間」を結ぶのが、フォルムの類似性による循環論だ。

 

石川自身が語っているように、獲物から取り出された臓物や器官は、自然界で目にする岩や木々など他のモノや光景とどこか似通った「かたち」、存在感を放っている。「自然」以外に何もないところで、解体して得られた「うちがわ」と向き合っているうちに、世界がフォルムの入れ子構造になっていることに、実感として突き当たったのだろうか。

同時にそれらは、同じ「動物」である私達・ヒトの持つ「かたち」とも根底で共通している。直感的に、小中学校の理科や保健体育の知識によっても、脳や心臓や肺や腸といった「かたち」が類似していることへと容易に連想が働くはずだ。時に生理的な気持ち悪さも伴うかもしれないが、基本的にはフラットな連想を呼びこむ。

距離、鮮度、クリアな画質を保った撮影形式に加えて、ダイナミックな見せ方を企図しつつも、余白を十分に取って1枚1枚を独立させたフレーミングと展示形式は、美術品的な格式や販売のためというより、臓物や自然界の風物などのフォルムをしっかり浮かび上がらせ提示させる、そしてフォルム同士を緩やかに接続させる。ここには目的意識を感じる。

 

結果として、それぞれの写真は別個のものでありながら等価に存在感を発揮し、なおかつそれゆえにフォルムの連鎖や共鳴が生じていくものとなっている。繰り返して言えば、本作が撮っているのは「動物」から切断・摘出された臓物や脳などの部位であることに留まらず、それを取り巻く「自然」界と、それらとは縁遠い我々「人間」界との、双方のフォルムの類似性を写真によって現そうとしている。

 

言わば「いのち」を奪って取り出したものを、より大きな形象や領域へ――自然界や人間界へ、写真によって循環させることを試みている。「いのち」が次の形で循環していく姿を現すために。人間もまたその循環の一部であることを示唆するかのように。

 

 

ここで終わればきれいにまとまるのだが、この循環論はある水平性を巡る話題へと繋がっていくことになる。もう少し続けよう。以下は作者が語ったことではなく、私の連想である。

 

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それは、解体の前後における「いのち」の水平性についてである。

 

前提として、本作の写真群=解体後のパーツはそれぞれ等価の「いのち」の価値を帯びている。展示会場、写真集において、「いのち」の水平性が保たれていると言っていい。

狩猟(あるいは事故など)によって「ひとつ」の生き物=「いのち」は尽きる。通常ならここで「いのち」は終わりとなるはずだが、本作ではその先:解体(と更にその後の摂取や分解)によって別の形へと分化し継承される「いのち」の在り様が示されている。

元の「ひとつ」から切り分けられた個々の臓物や肉を見つめ、そこに輝きと価値を認める時、その価値は解体される前から減じてはいない。むしろ写真の上では、幾つもの「いのち」複数形へと尊さが等価にスライドして分化している。元のひとつの「1」が分数として分配されるのではなく、複数の「1」へと移行しているのだ。

 

つまり等式が成立しない。

バラされた臓器(写真)を足し合わせて1頭の鹿なり雉なりを再形成するとしたら、それぞれの写真が持つ尊さや存在感「1」の複数形の和は、元の成体の「1」を超過することになる。

この不等式はひとえに、解体という技と写真化のプロセスによってそれだけの価値と尊厳をもたらされたがゆえに生じたものと考えるのが妥当だろう。バラされた後も豊潤さや生命の循環の神秘や力強さを見る――まさに本展示をシンプルに鑑賞する限りは、シンプルに素晴らしい世界観として映る。だが本当にそれだけなのか。

 

試しに構成要素を「動物」から同じ「いのち」である「人間」へ置換してみると、激しい矛盾に襲われる。

「ひとつ」の人間の「いのち」が、奪われたり尽きたりした後、つまり死後も、変わらず価値を持つことにならないか。更には、体がバラバラにされた後でも解体前と等価に尊さを帯びることになる。道徳的・倫理的な通念に、真正面から反する話へと突入し、そもそもの「いのち」の唯一性(それゆえの絶対的価値)が否定されうる――水平性が綻びをもたらすのだ。むしろバラされた個々の臓器の総和は、オリジナルの「私」を上回る価値を帯びる可能性があるというのか?

 

前提がそもそもおかしいのは承知の上だ。だが動物・自然との類似性をなぞって、同じように解体と「いのち」の移相に「人間」を乗せた時、明らかにとんでもないことが起きてしまう。

 

更にもう一つの水平性もある。「いのち」を奪う事象・原因の水平性である。

本作では猟によって仕留められた獲物だけでなく、車に轢かれた雉の首と尾が提示されている。タイトルを見たり話を聞かないと、写真だけでは分からない。個々の作品における「いのち」の輝きや価値は等価であるが、その死因もまた等価なのだ。人の手によって故意に奪われた命も、自然死も、人間界との衝突による事故死も、本作では等価であり水平となっている。

これも上記と同じく、人間(界)にそのまま当てはめて想像すると、えらいことになる。死を巡る責任追及や補償、再発防止など様々な社会的な制度が吹っ飛ぶ。むしろ、たとえ山や川や海であっても人の死は自然に回帰されないよう、人間界側の仕組みで手厚く囲い込まれている。本作に向き合っていて、何か言葉に出来ないところへ作用するものがあったのは、その囲いを解除する――水平性によって綻びがもたらされる兆しのようなものだったのかもしれない。

 

二つの水平性(がもたらす綻び)、原因として考えられるのは、本作:自然界・サバイバルにおける「いのち」は、唯物論的な循環論に立っていることだ。大前提として、「いのち」は生死の懸かった場面では、タンパク質その他、生命維持に必要なエネルギーとして循環するもの、言わば「資源」そのものである。

この前提は人間社会とは大きく異なるから、度外視すべきでは、・・・と思いたいところだが、そうは問屋が卸さない。

 

例えば臓器移植。

死後の臓器提供・移植を巡る議論が少し昔、90年代~ゼロ年代にかけて盛んに交わされていたことを思い出す。1997年に臓器移植法が施行され「臓器提供意思表示カード」が発行された。これは現在も運転免許証や健康保険証、マイナンバーカードの裏面に意思表示機能が継承・拡大されている。

死後の臓器という、解体後の「いのち」を巡って切実な必要性や実用性と、深い倫理的な問題などが議論されていた。まさに新鮮な人体・臓器――死後の「いのち」には、元の「ひとつ」の「わたし」とは別次元に個別具体的な価値があること、そして優先順位を逆さにするなら、個別具体的な死因にではなく「死」そのものに次の「いのち」へスイッチする価値が現れてしまうことなど、「人間」世界を揺るがす綻びが突き付けられ、真に問われていた。ゲノムや遺伝子解析などの解析・特許・応用技術も、同じような性質の問題・話題を孕んでいるのは言うまでもない。

 

こうした構造が、本作の「いのち」の水平性やカウントを考える中で浮かび上がってきた。

 

幸か不幸か、一度、技術が普及したり制度が施行されると、なぜか不安と関心は薄れ、目立たなくなる。そして社会を回すシステムや日常の観念に覆われ、その一部として「いのち」は埋設される。

本作の臓物や血肉の輝きを帯びた「いのち」は、そうした「人間」側の矛盾のようなところを突いてくる。「いのち」の約束事の表皮を反転させて、内側に押し込めていた躍動的な矛盾を呼び起こすというか。

 

臓器移植と全く真逆の事例を連想することもできる。例えば、人里に下りてきた熊や猪を射殺した際に、全くの部外者から大量に寄せられる感情的な非難・苦情の声。この場合、「ひとつ」の「いのち」は徹底的に「人間」と同じく「かけがえのない」「ひとつ」である(べき)との、硬直的に水平な価値観・感情が働いている。

一見道徳的なようだが、「わたし」=人間側への強烈な自己同一化を強いることで、「いのち」の分化・分散による循環可能性を全否定しているとも言える。すべからく、工業的手法による食品加工以外の形での「いのち」の転化――猟と解体によってエネルギー摂取し還元することは、感情的道義的にも認めることができないだろう。

それを推し進めたところには、何もない。本来共存できない、敵対し得る二者を同一化させても、熊が地元民を襲って死人が出るだけだ。「自然」と「人間」の距離感、関連を見失い、それぞれを純粋に等価で唯一無二な「ひとつ」とカウントすることで、これもまた人命の尊厳を巡る価値の転倒が容易に生じてしまう。

 

そういった「いのち」を巡る観念、通念、虚構のような常識などを、連鎖反応させうる、まるで爆弾のような臓物の写真なのだ。本作は。

 

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繰り返しになるが、本作はそのような話題に言及するものではなく、石川本人も語ってはいない。

 

が、本作の論理的な撮影方法や作品提示の在り方:「いのち」のカウントについて 解体の前後で、特に写真において等式が成立しないことを考えると、本作は私達が扱う・思う・感じている「いのち」の矛盾や捉えがたさ、絶えず燻る定義の不安定さを突くものとして働いてくる

 

一見、シンプルに素晴らしく、ピュアに「自然」のバイタリティを感じさせる作品に思えるのだが、本作はもっと根深いものを刺激し、根底から覆すアナーキーな問いを孕んでいる。思えば初期作品『okinawan portraits』の、得体の知れない、アクとコクの強すぎる人々のポートレイト群も、全く同質のアナーキーさとヤバさを湛えていたのではなかったか。

 

「いのち」を巡る社会のシステムや道徳観念、常識が綻び、通用しなくなるところの問いを垣間見せ、あるいは直面させるもの、それが「いのちのうちがわ」という、赤くて深いクレバスなのだと思った。

 

 

( ´ - ` ) 完。