nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真展】R4.5/14~6/18 川田喜久治「地図」@The Third Gallery Aya

関西で川田喜久治の写真集『地図』を4バージョン比較して鑑賞できる、非常に貴重な機会。プリントも写真集も、同じイメージがどれもまた異なるビジュアル世界として迫ってくる。黒の凄み、影の凄み。戦後日本が切り拓かれた、閃光の瞬間の影、ゼロの地点を見た。

【会期】R4.5/14~6/18

 

とにかく写真集である。写真集を見ないと始まらないし終われない。

 

 

写真集『地図』は1965年に発刊され、半ば伝説のような存在となっていたが、2000年代以降、複数のバージョンが出ている。本展示DMによると以下の通り。

・2005年:新装版月曜社、Nazraeli Press)

・2014年:復刻版(Akio Nagasawa Publishing)

・2021年:マケット版(MACK、New York Public Library)

 

このうち本展示では「初版」と「新装版」はケース内での展示、「復刻版」と「マケット版」が直に手にとって閲覧可能となっている。

 

これは凄い。有難すぎる。

 

あまり野暮な話をするのもあれだが、写真集『地図』は高価だ。写真界のレジェンドの写真集はどれも高いが、VIVOメンバーであった川田喜久治も例外ではない。しかし数年前に出た「復刻版」までべらぼうに高い(税込55,000円)のはどういうことだ。と思ったらどうも定価がこの値段なのか。

 

まず「復刻版」を手に取る。

 

黒い。

何をどう撮ったのか分からない、自分が一体何を見ているのか分からない、これは写真なのか? 闇に棚引く襞・・・恐ろしい粒度の何かを見ている。焼き締められた宇宙空間、高温の火山ガスに晒されて幾重にも色と罅と襞を刻んだ大地、焼けついた時の化石・・・ 月並みな言い方だが、そのような連想が浮かんだ。

これらは原爆ドーム地下の焼け爛れたシミだと後に知った。1957年、『週刊新潮』の企画で土門拳が広島を撮影するのを、同誌のカメラマンだった川田が取材した。その合間にこれらのシミと出会い、土門とは異なる方法で「広島」を映像化することを思い付いたという。

 

固有名詞も一般名詞も通用しない、言葉が効かない真空にいるように感じる。言葉を当てがおうとすれば闇に吸われてしまう。

 

大江健三郎の寄稿する序文「MAP」が、暗黒の真空に兆しを与える。人類史上初、併記として落とされた原子爆弾の閃光と熱線が、膨大な死と破壊の影を遺しつつも、「戦後」という新しい世代の世界を切り拓いたことを、この序文は詠っている。この漆黒の宇宙のごときシミの襞は、破壊と残酷を写しながら、新たな世代に与えられた、まだ見ぬ世界の「地図」だったのだ。虚空の中からとてつもないものが始まってゆく、そんな予感に満ちた詩と闇だった。

 

戦後の自由から宇宙へと繋がるイメージは、同世代にしてVIVOの同志・奈良原一高の現す世界観と同質でありつつも、『地図』は「日本」という国家の内側へ深く入り込んでいる点で一線を画する。

写真集は全ページが観音開きで、実際にページをめくるたびに中央を開きながら読み進めていくのはなかなか異様な体験だった。読み進めていくと、暗黒のシミの襞が戦中の日本、戦後の日本へと繋がっていく。

元々、原爆ドーム壁面のシミの闇は別シリーズとしての作品だったが、戦中日本のイメージ(特攻隊兵士の遺影や遺書、爆弾三勇士など)・戦後日本のイメージ(コカコーラ、ラッキーストライクなど)のシリーズと合体されて、一冊の写真集となったらしい。

 

そのため、抽象的・誌的な造形美が際立っているのと同時に、戦中・戦後の「日本」の生々しい中身のヴィジュアルが際立っている。「国家」の存続のために犠牲となり、戦後の「国家」一部となったものたちの肖像は、新しい時代と自由が何によってもたらされたものか、重く問いを重ねてくる。そして、それらが米国と一体化したものであることも。

 

新しい地図とは、戦争と軍国主義からの解放された自由と、戦後の米国統治体制(安保)下での自由という二律背反に他ならない。

 

撮影~発表当時に本作がどう受け止められたかは分からないが、1950年代の土門拳の提唱したリアリズム写真運動の方向性からは、相当外れたヴィジュアル表現であることは明確だ。やはり奈良原一高と同質の、個人の主観的な世界観に基づくドキュメンタリー作品であるから、戦後社会においてのみならず、戦後写真界においてこそ本作は新しい地図として、形なき未来を指し示し、輝いていたのではないだろうか。

 

 

自由閲覧できるもう一つの写真集「マケット版」は、同じ写真集でありながら本としての構造も写真の載せ方も全く異なり、実質的に別物だ。「マケット」=構想模型の名の通り、『地図』を作るための模型を復元したものだ。

時間が無かったため撮影できていないが、「マケット版」はインタビューや研究論文のテキスト冊子1冊と、写真が2冊に分かれていて、いずれも通常のページのめくり方となっている。観音開き版『地図』に比べてサイズは縦長で大きく、写真は大きくトリミングされて1枚1枚が拡大され、より抽象性を増した。黒の感じも違う。

 

www.pgi.ac

 

マケット版は18,700円(税別)と、高額ながら他バージョンに比べれば格段に安価である。比べればの話だが・・・ がしかし、これは観音開き版と全く別物やん・・・ そう思うと、代用品として買うこともできず、なんとも言えぬくるしみを味わうのであった。あああ。

 

 

写真集もいいけどプリントはまた別の魅力があります。

離れて撮ると写真の「黒」で像が潰れて、何の写真だか分からなくなってしまうが、黒い襞の中に光が、闇の蠢きが閉じ込められている。精緻な粒度で闇が現れている。

名詞の当てられる具体物ではないから、抽象的な写真ということになるが、例えば今井壽恵や山沢栄子の作り出す「抽象性」とは意味が全く違う。『地図』の抽象性とは、形あるものが膨大なエネルギーによって吹き飛び、意味や時代性すら吹き飛んだ後の、何もない――何かが闇の中から始まるかも知れない、そんな兆しの時空間のことである。

 

戦中・戦後の「日本」のアイデンティティーを巡る写真も、プリントが素晴らしい。

 

解説によれば、1970年代のゼラチンシルバープリントと、近年発表しているデジタルプリントとが展示されているとのことだが、区別して鑑賞できていなかった。1枚1枚の画作りの見事さに目を奪われていた。

 

1950~60年代の「日本」のリアリティ・本質とは占領国「アメリカ」が保障する自由であり、その裏には「お国」のために死んでいった若き兵士たちの像がある。何とも重く相反するリアリティだが、それはつまりアイデンティティーを一夜にして裏返して生き延びた「戦後日本」には、何のリアルも無いということでもある。この先に森山大道中平卓馬がいるということか・・・。

 

 

さて冒頭の話題に戻って野暮な話をすると、写真集『地図』の相場はこのようになっています(参考:日本の古本屋)

「初版」が100~150万円台、「復刻版」「新装版」が55,000~7万円台。えらいことですよ。

 

いずれにせよ、写真史上の名作として語り継がれながら、普通には実物のページをめくって拝めるチャンスがないのだから、本展示は非常に貴重だった。そもそも関西では川田喜久治の展示がない。どこかで(できれば関西で)大規模回顧展を催してほしいものである。してよ。

 

 

( ´ - ` ) 完。