全く異なるタイプの2つの展示。上原浩子は古来から人と自然・植物に伝わる生命力を「祈り」の立体作品で表わし、岩田小龍(Iwata Kotatsu)は様々な商品のパッケージ・デザインをポップアートに通じる絵画を展開する。
言うまでもなく私の分野は写真であるが、全然違う分野の表現もまた良くてですね、言語化の術は無いけれども見てそれっきりにして忘れてしまいたくはないと常々思っていて、もののあはれの感嘆符にとどまらぬあれやこれやを書き残しておきたいと思う。
◆上原浩子「祈りの庭」
静謐な場である。
一目で「祈り」が満ちた空間であると知れる。
「祈り」とは何であったのか。鎮魂や祈願や感謝、礼儀作法など多くの場面でその所作が用いられ多くの意味を持つが、ここでは静寂の中で心身を、我を「空(くう)」とするための姿となって表れている。彫刻自体はむしろ非常に多くの情報、ディテールを有していて、質と量によって語るものに事欠かないのだが、不思議と色や形や質感は静謐を保っている。
この場に配された彫刻らが湛える静寂、姿勢、所作のためであろう。
キャラクターたちは超絶リアルを誇るが、腕だけ・足だけだったり、逆に足が省略されていたり膝をついて着物の中に下半身が隠されていたりする。つまり人物像として極めてリアルな解像度を有する反面、身体のどこかが大幅に欠落――抽象化されているため、情報や表象の抑制が効いているのだ。
しかし欠落・抽象化がそのまま軽さ、不完全な不能さに陥らず、逆に転じて緊張感を発揮しているのは、体や顔など大部分が消されているにも関わらず、何らかの意思を保った所作、姿勢の純度が高められているためだ。手先、指先の形、閉じられたり伏せられた目が向かう先には、より純度の高い地点―無我の世界がある。此処から遥か彼方へと向けられたそれらの運動は、「祈り」と呼ぶべき力を感じさせる。
それは存在と無の世界との間で、見えない重力との引き合いを催させ、宙空を形成する。作品群が属しているのはこちらの物理・物質世界が1/3ほどで、残りはその「無」の世界、名付けようのない、しかし現に志向されている向こうの世界である。
恐らく作者の作品と世界観について「アニミズム」と形容されるものがそれである。
アニミズムがやって来る源泉は、自然・森である。オブジェやスケッチが参照しルーツとして根ざしているところは森の深き生命力だ。作者が過去に訪れた屋久島の森、沖縄の斎場御嶽、高千穂、戸隠といった地が参照されているが、いずれも古来から日本神話や琉球神道、山岳信仰の場であり、人と自然界とが死や霊感を通じて深く入り交ざる場であった。
手や足のオブジェが静謐な神秘性を宿すのは森の生態系、生命力と融合していて、人体―森が直接的に生命力を交感(往還)しているためでもある。
そして身体の部分的かつ象徴的なパーツに止まらず、人体と自然との融合は全身によってもなされ、下半身がそっくり自然界へ和合している。音もなくまさに自然に、当たり前のようにして水と緑の繁茂する世界が人体に同化している。人と自然界がシームレスに混ざり合う、精霊的に静謐な存在感をもたらすのは、「祈り」の無我による境地なのだと感じた。
◆岩田小龍「something」
縁日の出店が華々しく繰り出すキッチュな手書きの看板、偽のキャラクターや著名人が洗練されざる野のままに並ぶ様と、スーパーの商品棚で缶詰やチューブの同じデザインが連続して並ぶ、アンディ・ウォーホルを呼び出すまでもなく機械的な複製イメージの世界とが混ざり合った、温もりと工業的さがポップに重なる作品だ。
先述の上原浩子が「自然」のエレメントと人間の身体が無我の地点で混ざり合う=人間の固有性が消失し、より大きな世界の一つとなるところを表していたのと対置してみると、岩田小龍作品では体温のない商業製品の印刷イメージをある個人(作家)の身体や記憶を介して再出力すると、温もりを持った一点ものとして受肉化されるという、まさに逆順を辿るものとして理解されよう。
実に楽し気なアップテンポの色使いと筆致は実際、「鳩サブレー」をお土産に貰った際に、容器の缶のデザインでテンションが上がったことで意欲を掻き立てられたそうだ。道理で「鳩サブレー」の絵だけシンプルながら力があると思った。シリーズ作品としてスタイルが確立される前に描かれた起点となる一枚ゆえに、偶発的さと最低必要限な要素とで出来上がっていて脱力と完成度が共存している。
それはひとえに「鳩サブレー」のデザインが高度かつ私達日本人にとって馴染みが深いということでもあるだろう。
「芸術家としての性」で商品(鳩サブレ―)の容器を描き始めた作者は、「デザイン」が発注者(クライアント)とエンドユーザーという二者の顧客に向けて描かれたものであることに気付き、また日本製のデザインがNY在住の作者にとって、近くて遠い日本のことを想起させNYと日本との距離に目を向けさせた。
そのため、ここではNYで入手された飲食物、日常生活用品のパッケージが描かれる。
大きなペインティング作品と対に並ぶのが、色鉛筆で描かれたドローイングと無色のドローイングで、それぞれ同じものを描いていても質感や受ける印象がまた異なる。柔らかさ、優しさ、親密度が上がる。
どれも手書きの線の温もりがあるため、ウォーホルの制作した版画の「大量生産・大量消費」の冷徹さ、アイコン性、オリジナルの一点が存在しないのにそれを表現することのオリジナル性という倒錯…といった「アート」性は、ここではどんどん薄くなる。
むしろ作者の私性というかアイデンティティー:NY在住の日本人、という立ち位置を表現する手記のように感じられた。自己の地点が2つあって、それが現在地のみの単円になったりルーツ地が強く重なって二重の円になったりする。近藤綾乃「ニューヨークで考え中」を読んでいて感じたのと似たものがある。
やっぱり「鳩サブレーすごいわ」という結論になった。
なるやん。
「レー」が分身みたいにブレたレイヤーになっていて、絵に描かれたことで、作者のアレンジなのか原本がそうだったのか分からなくなり戸惑ったりした。こういうのは商品だけを見ていても気付かず、模写や複製、引用されて初めて気付くことが多い。
情報量が多いので、本作は見る度に受ける印象や感想が変動すると思われる。ひとまず、これにて。
( ´ - ` )完。