nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R4.11/19~R5.1/22 星野道夫「悠久の時を旅する」@東京都写真美術館

長年、自分の中にあった疑問を解くために、観に来ました。

ワタリガラスの伝説に感染するの巻。

 

【会期】R4.11/19~R5.1/22

 

星野道夫を後回しにしてきた。

 

 

経歴、功績、作品・・・全身どこを切っても大自然なので、正直私にとってはお手上げというか、「大自然」としか言いようがなかったので、小学生の頃からずっと気まずい距離があった。本当に小学生の頃から作者の存在は知っていたのだが、ちゃんと作品を観たのは今回が初めてだった。

 

人生まるごと大自然である。

1973年・大学生の頃からアラスカのエスキモーの家族を訪ね、卒業後は写真家の助手を経て1978年にアラスカ大学野生動物管理学部に入学。本格的に写真家活動を開始し、以降は1996年8月にカムチャッカ半島でヒグマに襲われて亡くなるまで、アラスカ、カナダ、シベリアなどで自然、動物、現地の人達を撮り続けてきた。

最期は悲劇だったが、文字通り「自然に還った写真家」としか形容のしようがない。すごい。おみごとです。わが身を振り返ると神々しくて直視できない。

 

 

なおテントで寝ていてヒグマに襲われた件については、同行していたテレビ局(TBS)の遭難報告書と、その場にいた関係者の話が食い違っているらしい。「星野自ら望んでヒグマのうろつく自然の真っ只中にテント張って一人で寝ていたらクマにやられた」という旧来のイメージは修正すべきだろう。(実際、下記リンク記事を読むまで、作者の強いこだわりがあったがゆえに事故に遭ったものと思っていた。)

wondia.net

ameblo.jp

 

私は幼少期より自然が好きで、宅地造成やダム開発、ジャングルの焼畑農業などは絶対の敵で、とにかく自然と野生動物、小動物類が好きで、小学生の頃は自然・動物関連のテレビ番組や新聞記事は欠かさず見てきた。が、星野道夫とその作品には全く関心を示すことがなかった。

 

なぜなのか?

知らなかったのではない。80年代終わり~90年代前半はマスメディアが強く、余裕があり、地球の環境や自然についてガチの特集を組むことが多かった。星野道夫も取り上げられていたはずで、目にしていないはずがない。むしろ何度か目にして「これは違う」と脇に置いたのだろう。

 

自分でも意味不明だったので、その謎を解く意味もあって本展示を観た。

 

 

( ´ - ` )

 

理由が分かった。

展示内容から、以下3点を挙げます。

 

 

【理由①】動物・自然保護の「正義」を語っていないため

観て一番思ったことだが、意外なまでに星野作品にはイズムというか、「正義」の主張がない。これは幼少期~ティーンにとっては逆に分かりにくかっただろう。

 

自然・環境と「正義」とは、切っても切れない縁にある。今でもSDGsの取り組みがそうだが、特に80年代~90年代前半には「環境破壊は悪、開発は悪、地球を守ろう」と、学校でもテレビでも新聞でも徹底的に叩き込まれていたので、星野作品では逆にとっかかりがなかったものと思われる。当時の私はグレタ氏並みに企業や政府の無策を口撃し、晩飯中にも大手ゼネコン勤めの父親の前でダムや高速道路の開発を詰っていた(ひどい)のだから、むりである。

佑学社「世界はいま」シリーズの、「自然や動物を守れ」とか「こんなに破壊されている!開発の手が伸びている!」「少数民族の存続の危機!」といった危機感と告発あふれる写真と文章に慣れ親しんでいた私にとっては、善悪メッセージを持たない星野作品は「なにもないなあ、」と感じたのだろう。

 

別に作者が無関心だったのではなく、そういった危機感も複合的には含まれている。図録には『ヤマケイグラフィック』1985年秋号の寄稿文「海洋動物たちに影響をおよぼす沿岸油田開発」が掲載されているが、これはまさにタイトル通り、ベーリング海から北極海にかけて計画されていた油田開発による野生動物への悪影響を危惧している。だが展示と作品はそうした直接的な訴えはほぼ見られなかった。

星野にとって、「正義」は ワンオブゼムであって、伝えようとしていたのは、寒冷な極地で動物や人が「生きている」ことそのものだったのだと、展示でようやく分かった。

 

 

【理由②】野生動物の写真が図鑑的、網羅的でなく、人格があったため

星野作品の動物らは、人間と対等だった。人格のような尊厳が写っていたのだ。どの写真も、現地の人にリスペクトを示した上で撮らせてもらった肖像写真のように、芯の通った写真だった。

不勉強なことに著作をひとつも読んでこなかったので、一体どういう態度で撮影に臨んでいたのかは分からないが、観察や記録といった撮り方ではない。相手は野生動物なので、移動や狩猟、闘争、子育て、休息といったごく一般的な営みを撮っているのだが、驚くべきことに、動物の姿のうちに現地人としての、人格の輪郭が見えるのである。動物であるかヒトであるかはあまり問題ではなく、その横顔や体躯はそれぞれの地域・場所に長い年月をかけて順応した部族としての重みを有していた。

特にアラスカのムース、ホッキョクグマ、アザラシなどは、まさに現地人の風格があった。

 

これには驚かされたと同時に、子供~学生時代の私がハマれなかった理由として納得できた。

当時の私が求めていたのは、動物を機能主義的に見た生態観察や記録、あるいは標本の図像として網羅的に体系化された図鑑としての写真であった。動物は動物として、クジラならクジラ、クマならクマとして細分化された先の、分類結果としての写真が見たかったのだ。今もおそらくその欲求が強い。

だが星野作品は、階層化とラベリングによって細分化された種々の存在を、風景写真や現地人の暮らしとともに、大いなる「自然界」へと統合し、地球規模の生命力を認めようとするものであった。この構造は子供にはなかなか難しく、年を経てようやく受け容れられるようになったと言えよう。

 

なぜそのような写真になったのか? 普通の動物写真家と、技術的な要因よりもっと根深い眼差しの違いがある。

両者を分けたのは恐らく「狩猟」なのではないか。

現地に長期滞在し、現地人の文化・生活 撮影を行う上で、生活するために狩猟は欠かせない。猟銃にせよ釣り針にせよ生きているものの命をもらい、自分の命へと転換する営みを実践していく中で、各地の住民、部族の歴史や文化も同時に血肉化した。スポーツ的に切り離されたハンティングと違い、そこには恐らく命への深い「敬い」があったはずだ。そうして動物たちは星野にとって、被写体、対象=オブジェクトを超えた存在へと昇華したのではないか。

 

 

【理由③】全てを包含した文化人類学であるため

つまり文化人類学の写真なのである。

 

大自然の美しく雄大な風景も、雄々しく美しい動物たちも、太陽や夜や白夜やオーロラも、四季も、現地の人々も、古来から受け継がれてきた狩り・クジラ漁も、トーテムポールも、海岸に立てられたクジラの肋骨も、全ては等しく、大いなる地球の中で繋がっている。星野道夫という人間の移動、旅、生活、探求を通じて、それらの各要素が一つの大きな世界観として結ばれてゆく。そんな見えざる大河を見出すような写真家人生だということが本展示で分かった。作者はその大河をゆく小舟のようだ。

特に展示第4章「森の声を聴く 神話との出会い」と第5章「新しい旅 自然と人との関りを求めて」に至って、すなわち星野の人生の終盤に至って、自然と文化と神話を巡る壮大な、文化人類学的な探求が行われていたことが示されていた。一枚一枚が主役として立っていた風景や動物の写真は、ここではついに「歴史」という更に大きな軸が導入されたことで、大いなる世界の一部となっている。個々の写真の指し示すものが、現在形としての「自然」や「生命」から、その世界を現在にまで至らしめたものへと迫ろうとしているのだ。まさに探求である。

 

子供の頃は、星野道夫=アラスカ方面の野性動物と自然風景の写真家と捉えようとしつつ(TVなどの報じ方もそうだった気がする)、それがピンときていなかったのは、やはり星野の見ている視野、捉えていた世界観がもっと広かったためなのだろう。写真も活動も特定のジャンルに固定できない。環境活動家でもない。あえてラベルを貼るなら「文化人類学的写真家」だろう。それでも足りない。なんせ1978年(26歳)からはアラスカに移住している「生活者」でもある。これは子供時代には分からなかった。

 

 

■レイブン

ともかく昔からの私の謎は解けた。これですっきりした。だが新たな謎として、星野が追ってきたテーマが私の中に積まれた。

 

星野はいつからワタリガラスの姿を追っていたのだろうか。

 

「この四~五年、南東アラスカの自然を撮り続けています。原生森林、氷河、クジラがテーマです。いつかこの世界をまとめたいと思っているのですが、長い間、その方法がわかりませんでした。つまりこの世界の核となるものを捜していたのです。いつもそのことを考えていると、いつかその答が出てくるものです。昨年、ふとそのことに気が付きました。それは、ワタリガラスでした。」

(『オーロラタイムス2号』1995年12月15日付、「ワタリガラスの神話を捜して」)

 

アラスカとカナダの国境近くにあるクィーンシャーロット島、森の中で朽ちてゆきながらも残されていた古来のトーテムポールには、ワタリガラスの姿が刻まれていた。

神話を辿ってアラスカのインディアンの各部族やエスキモーらを訪ねるうち、その精神世界にワタリガラスの神話が深く根ざしていたことを作者は知る。遠く離れた部族間で同じモチーフが共有されているのは、何故か? 星野は、彼らの祖先がワタリガラスの神話を携えて、1億2~3千年前にベーリング海峡を渡ってアジア、シベリアから新大陸へと渡ってきたためではないかと仮説を立てた。 

そして星野はシベリアに赴く。図録には「シベリアの日誌より」で、1996年6月30日から7月27日までの記録が掲載されている。亡くなったのは8月8日。シベリア探訪を踏まえて書かれたまとまった文章は掲載されていない。論をまとめる前に亡くなったのだろうか。亡くなるのが、早すぎた。

 

 

話が壮大な上に、日本から遠くて馴染みのない地域の話が続くので、動画が参考になります。こちらは星野道夫の息子さん・星野翔馬氏が父の足取りをたどり直し、各地でワタリガラスの伝説を追っていた当時の話を聴くというもの。


www.youtube.com

 

写真家活動、写真作品、旅の「核」となるワタリガラスの神話と太古の民族移動というテーマは、星野の手から離れ、後の世代にバトンが渡された形となった。私はその分野に詳しくないので、星野以降の研究がどうなっているか分からない。

 

図録に掲載されていた、当時96歳というアサバスカン・インディアンの古老、ピーター・ジョンワタリガラスの神話について語るシーンが印象に残る。

 

「・・・・・・遠い昔、ユーコン下流から人々がこの地にやって来た頃、三つの部族が分かれて争っていた。それを一つにまとめたのがレイヴン(ワタリガラス)だ・・・・・・」

 

「・・・人間も動物も区別はなかった。さまざまな生きものたちに名前を与えたのがレイヴンだ・・・・・・レイヴンはこの世界の創造主だった」

(「森と氷河と鯨―ワタリガラスの伝説を求めて」―『家庭画報』1996年8月、「レイヴン、北へ」)

 

星野自身も古老の断片的な言葉の意味は分からなかったが、理解するのではなく聴くことに徹したという。古老が締めに「この歌は人間がつくったのではない」と言うのもまた理解を超えている。深遠である。

だが星野がこのような「レイヴン」へと辿り着いたのには、必然性があったのだと思った。クィーンシャーロット島でトーテムポールに出会ったことが直接の始まりだとしても、もしかしたらそれまでのアラスカ生活:自然や歴史、文化との深い交流の中で、動物らの姿と命を追う中で、「レイヴン」の影・気配のようなものが、少しずつ、宿り始めていったのではないか。

長年に亘って自然に入り、野生動物を追っていると、通常の都市生活者とは全く異なる感覚に至るということはありそうだ。Twitterでも「狩猟が趣味だった父親が、山に取り込まれる気がして猟をやめた」話がバズっていたが、無関係な話とも思えない。「自然」にダイレクトに接続される前に、そうしたものを人間側へ引き寄せた「神話」を挟むことで、狂気ではなく崇高な念へと切り替える仕組みが文化的・歴史的にあったのかもしれない。

togetter.com

 

私もこのブログを書いたことで、「レイヴン」の影を幾分かでも受け継いでしまったかもしれない。展示を観た時点では何も考えていなかったのに、今、改めて図録を読んだり調べ物をして星野の言葉を咀嚼したことで、何か、変な気持ちになっている。神話は、ウイルスに似ている。脳裏に烏の影が・・・。と言いつつ、生ゴミの日にネット引っくり返してゴミ漁って荒ぶるカラスを見たら、またリセットされてしまうのだろうけれど・・・。

 

 

( ´ - ` ) 完。