nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【KYOTOGRAPHIE 2022】R4.4/9~5/8【3】「10/10 現代日本女性写真家たちの祝祭」@HOSOO GALLERY・5F(岡部桃、清水はるみ)

「KYOTOGRAPHIE 2022」の主役プログラム「10/10 現代日本女性写真家たちの祝祭」レポ・最終回です。5F展示・5名のうち、最後の2名:岡部桃、清水はるみを紹介する。

色彩と廃墟の水圧が見事な岡部桃の叙事詩、色鮮やかで軽みのある清水はるみの博物学。二人は生と科学技術、人工的な生命の関係について語っているようだ。掘り下げて読んでみたい。

 

【会期】R4.4/9~5/8

 

 

順路が一方通行の展示会場のため、展示順にそのままレポを綴ってきたが、これまたどえらく対照的というか、対照ですらない異分野の2人が対になってしまった。組み合わせに他意はございません、が、そこは関連がないようで、実はあった。2人は全く異なる立ち位置と切り口から生命と科学、人工について物語っている。

 

本展示のおさらいです。

 

◆会場2Fの5名:細倉真弓、地蔵ゆかり、鈴木麻弓、岩根愛、殿村任香

 

◆会場5Fの3名:吉田多麻希、稲岡亜里子、林典子

www.hyperneko.com

 

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【3ー⑨】岡部桃「ILMATAR(イルマタル)」

 

等身大の巨大な映像に囲まれて圧倒されて言葉を失う。巨大な熱帯魚、あるいは深海魚の水槽の底へと落ちた気分だ。毒気と幻想と安らぎの混ざった色、性、荒廃、そして生命に満ちている。90年代のインディーズ映画のような混沌とざらつきに満ち、そして明確な正解を持たぬ原初的な力が滞留している。魚に例えると全ての辻褄が合う。色や姿形が艶やかなことも、性別が、肉体が、性器が、命がまろび出ていることも、求愛も妊娠も出産も廃物も全て同じ層/槽にあることも・・・ 

 

だが彼ら/彼女らは熱帯魚でも深海魚でもない。人間だ。そして岡部桃の現実である。岡部の言葉を借りれば私小説」「実体験」「叙事詩である。

 

本展示は写真集『ILMATAR』(2020、まんだらけを空間に立ち上げたものだ。

www.mandarake.co.jp

写真集の解説文でも書かれている通り、岡部は非性愛者――恋愛感情は感じるが性的欲求を感じない・感じることが少ないという性的志向であり、性行為を伴うことなく結婚し、体外受精IVF)によって妊娠・出産を果たしていて、それらについて写真で語っている。

 

写真集の内容や作者の考えについては、「IMA」インディペンデント・キュレーターの若山満大が本人にインタビューを行い、分かりやすく言語化している。作者の意図、叙事詩としての本作、性的少数者であること、写真家としての系譜――荒木経惟との関係と相違点について、非常に参考になる。

imaonline.jp

荒木経惟が身内の葬儀の場でカメラを向けるといった形で、社会のタブーを敢えて犯して表現を行うことに、岡部桃はある種の「正しさ」を見出す。その言葉を受けて若山満大は、岡部の眼差しに同じく「公序の外から持ち帰ってきたもの」を見出す。

それは岡部の、性・愛の全般に対する乾いた眼であり、自身の身体、生殖機能すら産む機械」と見なす眼である。同じ発言をしたかつての厚生労働省大臣は大批判されたが、岡部のそれは、現時点での「公序」=「みんな」の「外側」にいる者たちを眼差す姿勢であり、本書は「みんな」をアップデートする可能性を持つ作品である、そして自分自身は旧来の「みんな」側にいる・・・と若山は解釈を綴っている。

 

これで締め括って綺麗に終わっても良いのだが、せっかくちゃんとした論なので、ここで挙げられた産む機械」、「荒木経惟」、「公序=みんな」という3つの重要な観点を用いて、私なりの解釈を展開してみたい。

 

まず「産む機械」について。

前記事:2Fの【3-③】鈴木麻弓が同じIVFという医療技術・治療を用いていたが、その目的が両者で全く異なる点は興味深い。同じ「自分が生きるため、命を産むため」でも、その前提が全く異なる。

岡部は写真集の巻末でこう書いている。「子宮という装置から赤んぼうを産み落とした。」「実験の夜。」

言葉だけを切り出すと危険なサイエンティスト、あるいはロマンティストと誤解されうるだろうが、性的接触・性交渉を望まない(行わない)人間が、妊娠と出産を主体的に果たすという矛盾、わが身に置き換えて想像すればするほど伝説・伝承のような、非現実的な試みである。膣や子宮は誰のための、何の器官か?

「イルマタル」フィンランド民族叙事詩『カレワラ』に登場する女神で、潮風と波で妊娠したというが、同じ類型では漫画『ゴールデンカムイ』の死刑囚マイケル・オストログ(ジャック・ザ・リッパー)が恍惚として語るアイヌの伝説の方が身近かも知れない。

その神話を、今や医療技術は個々人の人生の選択肢に用意している。そして、岡部はその選択をした。自他ともに前例のない科学的な選択を「実験」と呼ぶのは、正しい。それは科学的リアリストの言葉である。

 

 

次に2点目・「荒木経惟である。

岡部桃の写真家活動における荒木経惟の影響は、別の記事で更に掘り下げた記述がある。

"Aside from Araki, Okabe has no interest in other photographers – not in the sense that she doesn’t care about their work, but because for her, photography is an internal, psychological process. " 

――荒木経惟を除いては、岡部は他の写真家に興味がない(写真とは岡部にとって、内的かつ精神的なプロセスであるために)、というのだ。

www.1854.photography

(掲載日が不明だが、今回のKYOTOGRAPHIE参加に言及があり、直近のものと思われる。)

 

岡部桃がアラーキー」的な系譜を否定も転向もせず、自ら語り続けている点は注目に値する。

自身の写真家としてのルーツ、スタートとして荒木経惟と名指しし、なおかつ自作を「私小説」と言い表し、性的な描写を色彩と共に全開にし、プライベートを俎上に乗せつつ巧みな写真的演出によってそれを過剰さによって創作世界に転換させてしまう作風。一見、どこをとっても「アラーキー」的なものに満ちている。

 

例えば、前記事【3-⑤】殿村任香の項でも荒木経惟との関連について言及したが、殿村の場合は、私性の激情的な劇場仕立ての『焦がれ死に』制作後、自身の子宮頸がん発病・治療を経て、現在は『SHINING WOMAN PROJECT』という社会的活動へ転向している。孤独の言葉なき内圧による情動の表現・芸術から、社会や医療が高度に練り上げた言語体系の一部に参加しそれを使うという、真逆の運動に身を置いている最中なのだ。(なんだか長島有里枝の話にも繋がりそうな構造である…)

 

しかし岡部桃における「アラーキー」的なものは、完全に見た目上の「的」であって、生物種としての本質的な生態は全く異である。要は、「表現界の何処に住んでいるか」という棲み分けで割ると同じ「私性とエロスの写真」というかなり近いエリアに入るだろうが、生物種としては両者はまるで異なる

荒木はやはり、殿村の項での繰り返しになるが、劇場の支配人、兼・シテ役としての登場人物である。強烈なサービス精神と強烈な前衛芸術家の本性を、「粋」という古き良き江戸前情緒にて結び合つけて写真を撮る。尖った芸術家でありながら、「大衆」の欲望と聖性を一手に引き受けることを厭わないため、アラキ界には誰もが立ち入ることができ、更には、鑑賞者にも被写体にもなることができる(「日本人ノ顔」「いのちの乳房」など…)。

岡部は、妊娠・出産という決定的な姿を晒していながら、私性が異常に薄い。他の登場人物らの「性」や「生」と同じ色と闇の内圧、深海の水圧の内に泳ぎ、沈んでいる。それは鑑賞者にとっては舞台(=荒木)よりも遠く、触れようもない領域にあり、なおかつ既に登場人物らによって完成されている。鑑賞者にとっては、暗いミニシアターに光るスクリーンを観ているような関係にある。岡部は、科学的リアリズムを映すスクリーンだ。

 

ここから3点目、「公序=みんな」の話に入る。

そんな岡部桃の映画的スクリーンには、岡部と同じ種族のみが登場できる。岡部がいつの頃からか目にしてきた「色」の濃度と闇の水圧を共有できる種族らのみが、そこに写ることが出来るのだ。性的マイノリティか否かの問題ではない。もっと基本的なもの――セックスを介さず受胎し子供を授かるという、神話か、機械か、そんな世界の選択肢に向き合える者だ。

 

「VICE」の特集:写真家ハーレー・ウィアーが岡部桃を取材した映像では、岡部は自身の作品を「生身の人間のドキュメンタリー」と語っている。

このように岡部が自作を語るスタンスにはブレがない。想像や創作ではなく現実。自分にとっての史実。それは逆を返せば、本作の入り間口の狭さはそのまま作者にとってのリアリティであり、それを眺めている鑑賞者側との断絶は、この先も交わらないという可能性だ。

荒木経惟は妻もレディ・ガガも緊縛も、無名のサラリーマンも主婦も猫も花弁も、全てを荒木劇場として撮る。岡部桃は、恐らくそうではない。つまり、さきのインタビューで若山満大がアウトサイダー性の反転可能性を示唆して結んだ論考とは、真逆の帰結を辿る可能性があるのではないか。

私たちマジョリティは岡部作品に新しい「公的」=「みんな」を見出すことはできよう、しかし岡部作品に「私たち」が参加できるかどうかは、大きな賭けを伴う。

写真集と展示は人物と廃墟・廃物とを2枚1組で展開する。「世界」、常識や前提そのものが滅びたあとの世界に生き残れる者が、岡部作品に出る権利を持つことを物語る。廃墟の都市は、ダチュラで壊された後の都心、アフター・『コインロッカー・ベイビーズ』。そこは性ではなく「生」の意味で、剥き出しのリアルを生きるクィアがサバイヴする世界…。

 

「滅び」を読み替えれば、前提や常識という母体の外にある世界。かの登場人物らはそこにいる――毒々しさと影に満ちた多彩な「色」は、オゾン層のような羊水と胎盤のない、宇宙線の降り注ぐ外世界を表しているかのようだ。岡部世界に参加するには、こちらの安全で安心な前提=「世界」と私たちを繋ぐ臍の緒を切り、その「外」へ出なければならないだろう。岡部桃はその「外側」で、科学(医療)の技術を用いて子を宿し、そして、産んだ。

 

その代償として、私たちマジョリティは明確な「色」を選択する。投票権を行使して、誰かから与えられたファッションやルール、政党・政治という「色」を選んで生きている。シンプルで一様で濁りのない「色」を選択し、投票し、その中で安心と安定を、喜怒哀楽を得て、守られながら生きている。岡部桃の「色」の世界、にサバイヴする力が、果たして残されているのか、もう、分からない。だから、岡部桃の世界を、映画のようにして、こうして、立ち尽くして観ている…。

 

スペースが尽きたが、画面内に「色」が溢れ、「性」や「生」を扱う観点では、前項【3-①】細倉真弓の従来作品(『川崎』や『CYALIUM』など)との相違点の検証が不可欠であった。また機会があれば試みてみたい。

 

 

 

【3ー⑩】清水はるみ「mutation / creation」

写真の構造としては写真家10名の中で最もシンプルだろう。突然変異したり品種改良された全32種類の動植物をカラフルな背景で撮っている。反対側の壁面にはそれぞれの動植物のプロフィール:名称と変異・交配の歴史や由来を説明したパネルが貼られている。

シンプルというのは、写真内に写っているものと、それが指し示すもの=名称・情報とが1対1で一致している点だ。しかも、色味と構図のフォーマットは統一されていて空間演出を意識されてはいるものの、写真1枚ずつは独立しているため、画を見る→解説を読む、の繰り返しで基本的に成立する。

 

写真で見る博物館。

これまで紹介してきた9人の展示では、空間自体を作品と化すサイトスペシフィックな展開が先にあったため、作者の「世界」を腑分けしながら紐解いてゆき、最も奥にある「写真」の文法を取り出してその意味の骨格を確認してきた。

本作は逆に、写真的文法と文字情報が目の前にある。もっと言えば、それしかない。インデックス性がそのまま作品なのである。なので鑑賞の手順を逆にとり、被写体と作者が内に保有している「世界観」を引き出して、鑑賞者側から3次元+αの科学的な「知の体系」を展開させることが肝要である。

 

 

まず被写体:変異した動植物らの有する「世界観」について。

登場する動植物は、野性での突然変異か、人工的な交配による品種改良で生まれている。後者は突然変異を人為的に継承させたりある形質を特異的に伸ばすために行われてきた。意外と、遺伝子やゲノムを切り貼りしたりナノマシン酵素を注入するといったダイレクトに侵襲するものではなく、世代単位で時間をかけた人類との付き合いが多数を占める。

作者が端的にまとめたキャプションでは、1枚ずつの写真/品種に、国や企業にも似た歴史が語られていてそれぞれの時代、国、交配の発端や動機と目的、その形質、人類にとっての有用性などが綴られている。

 

代表例を挙げれば、青いバラ「アプローズ」/遺伝子組み換え品種』。2004年に発表された、世界初の青バラで、サントリーとフロリジン社(オーストラリア)の共同研究によって生み出された。遺伝子組み換えのため「野生バラと交雑しても影響を与えないなどの実証を経て2009年に一般発売された」という。

他にも、『尾長鶏「白藤」/観賞用鶏の改良品種』、『白イチゴ「雪うさぎ」/栽培品種』、『孔雀鳩/鑑賞用鳩の改良品種』、『椿「卜伴」/園芸品種』、タヌキ、カイヤン(ナマズの一種)、モリアオガエル、オスフロネームスグラミーなどのアルビノや色素欠乏個体… 全て紹介したいところだが割愛する。(作者も特にHP等でアーカイブ化してはいないと言っていた。残念。。)

 

これら全ての科学的な被造物:クリーチャーに、歴史という物語が広がっているのだ。

一応、「IMA」の作家アーカイブでは、本作の一部を見ることができる。作品の要である「解説」がないので、優秀なアート作品のヴィジュアルに留まっているが、本当はこの画像の先に物語がある。

imaonline.jp

 

しかし変異のクリーチャ-らは、ずっとこの姿を保てるわけではない。

作者がKYOTOGRAPHIEインタビュー動画で語っているが、これらは限られた人間の栽培するエリアでしか生きておらず、その時々の流行によって移り変わったり、品種改良の進行によって廃れていったりもするという。農作物や愛玩動物のような、産業の産物を思い浮かべると分かりやすい。

変異のクリーチャーは、自然から生まれながら、人の手を介して意に沿った姿形となり、そしてまた人の手から離れて/離されて、徐々に消えてゆく。まるで寓話のような生物種である。

 

自然と人為が編み出す寓話、これは清水はるみ作品のひとつの肝となるのではないか。

 

 

次に、作者が有する「世界観」について。

同じくKYOTOGRAPHIEインタビュー動画では、自身の創作活動について「人間の好奇心をもたらすものの傾向を知りたい」と語っている。

 

最初期の作品を振り返ると、旅先の地で自然景を撮ったり(『水の骨』、2013)アイスランドで撮った自然景の写真を水とともに凍らせ、現地の植物や石を載せて再撮影したり(『icedland』、2014)、常に自然との関わりに着目していた。

その後も作者は「自然」に人為、操作を掛け合わせていき、独特の発想と手法を獲得していく。インデックス性の散乱による「寓話性」が強く表れるのが『OPEN FRUIT IS GOD』(2014制作、2015展示)である。制作はアイスランドへの旅をきっかけとした『icedland』と並行してサブショット的に撮り溜められたもので、モノの配置をアナグラムのように操って生まれたシュールの文体は、現実を撮りながら具体的な場所や自身の私性も失った、まさに変異体である。

 

「寓話性」と自然との関係を強く意識し、本展示に直結するのが『The Plants in the Voynich Manuscript』(2019)である。タイトルの通り、ヴォイニッチ手稿に登場する植物をイメージして、写真によりヴィジュアル化したものだ。

shimizuharumi.com

 

ヴォイニッチ手稿は世界最大の奇書と名高く、未だ読解が果たされていない。現存する全240ページの半数近くに植物に関する記述があるが、植物の絵の半数以上は実在するか不確かだという。だが当時の(発見されたのは1912年のイタリアだが、作成されたのは1400年代前半と言われている)様々な分野の学術体系を集約し書き表そうとした、異常な熱意と密度が際立っており、人類は今もこれを無視できずにいる。

 

清水は以下のように述べる。

「仮に解読できたところで偽非科学の域を出ず、かけられてきた苦労に見合うような学術的収穫は得られないかもしれない。しかしこういった科学とフィクションの境界にある非合理的なものを面白がり、財産や時間を費やしてきた人間はいつの時代にも存在した。」

 

更に、自身の作品に言及する中で、既に本展示に直結するテーマが示唆されている。

「フェイクを疑われるまでもなく、これらが作られた写真であることは明らかだ。花と葉のありえない組み合わせや形、不気味な根。しかし部分だけ見れば、既存の種に似た特徴を持つものもある。およそ30万種とも言われる植物の世界では、日々人工的に新種が作り出され既存の種もゆるやかに姿を変えており、未開の領域や過去や未来に似たような種が存在する可能性もないとは言い切れない。

 

植物、ひいては全ての生物種と、それを扱う「科学」の二者について、作者はフェイクとリアルの両方の性質を見出している。いや、真・偽の境界をまたぎ、どちらでもあり、どちらでもないことが起きうるのが「科学」なのだと。その真偽の境界の乗り越えを興させるのが人間の科学的情熱・探究心であり、また、時代の流れの中で変遷する「科学」的常識でもある。新しい発見の積み重ねにより、ある時代の科学的真実はすぐに誤謬、フェイクとなり、いつしか寓話性も帯びるだろう。清水が扱おうとする「世界観」は、見た目以上に大きくて深く、博物学的である。

 

 

これら生物種と作者自身が有する「世界観」を繋ぎ、引き出す「博物学」(としての写真)に欠かせないのが、冒頭で述べたインデックス性だ。写真は意味内容と直接の照合関係にある。

だが特徴的なのは、引き出されるのが科学的・歴史的「事実」だけではないという点だ。繰り返してきた通り、科学の本質、そして生物種たちが辿ってきた変遷、ヒトの手を介する存在の儚さ、それらひっくるめての「寓話性」を物語ることに、本作の肝はある。

 

写真の柔らかく優しいデザイン性に満ちた見た目は、これらの被造物:クリーチャーの多くが人間の感性に寄り添うよう作られたことを意味するし、背景にある「知」へアクセスするための、クリックしやすいアイコンとしても機能する。

しかし何より、作者の手を介することで、この作品制作=インデックスの付与がそもそも、前作『OPEN FRUIT IS GOD』『The Plants in the Voynich Manuscript』のように作為的な操作を孕んでいること――インデックスの交錯と氾濫に満ちた「ヴォイニッチ手稿」のDNAを継承する、変種の現在形でもあることを思い起こさせるのだ。

 

 

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これで「10/10 現代日本女性写真家たちの祝祭」の10名をレポートし終えた。一人一人の取り組みの多彩さに加え、各作家が現代の諸課題や現象、今を生きることの意味に深く入り込んでいるため、それらを言語化するうち、こちらもどこで筆を切り上げるべきかが分からなくなってしまった。

 

結果、KYOTOGRAPHIEの会期は終わり、blogはどんどん長くなり、当初考えていたような形ではレポートできなくなった(実は、素揚げの天麩羅のような、軽くあっさりしたものを書こうとしていた)が、一度こうして沼に身を浸すように書くことは不可避の定めだったかもしれない。現代女性写真家らのことを、軽く見積もらないためにも。

 

( ´ - ` ) 完。

 

(また不足などに気付いたら、都度、追記・修正すると思います。)