「KG+SELECT」2021の後編、全9組中4組をレポート。後編は、⑥藤井ヨシカツ、⑦吉田多麻希、⑧山本郁、⑨フレデリック・メリー を紹介する。
なお、10/16(土)夕方、「KG+SELECT 2021 "Grand Prix by GRAND MARBLE”」、今年度「KG+SELECT」最優秀賞として、吉田多麻希『NEGATIVE ECOLOGY』が選出された。
- ◆【KG+SELECT】⑥藤井ヨシカツ《ヒロシマ・グラフ ー 永遠の流れ》
- ◆【KG+SELECT】⑦吉田多麻希《NEGATIVE ECOLOGY》
- ◆【KG+SELECT】⑧山本郁《DO NOT GO GENTLE INTO THAT GOOD NIGHT》
- ◆【KG+SELECT】⑨フレデリック・メリー(Frēdēric Mery)《IN BETWEEN EASTS》
KG+SELECTレポート前編
写真を空間に沿わせてインスタレーション風に展示する手法は従来の「KG+SELECT」と同じである。だが開催直前で会場が「元・京都市立格致小学校」から一般のビルに変更され、学校の教室よりは確実に部屋が狭くなっている。各作家の展示プランにおいて影響はあったのだろうか。そのへん諸事情が分からないまま、辛いこと言ってたらすいません。
◆【KG+SELECT】⑥藤井ヨシカツ《ヒロシマ・グラフ ー 永遠の流れ》
広島の原爆で被爆した祖母に話を聴き、被爆体験、記憶を語り継いでいくという作品。本作の構成は林田真季と似ていて、写真の展示はイメージのイントロダクションにあたり、主たるコンテンツは重厚で念入りなフォトブックの方にあった。
会場に展示された写真は、過去に撮られた祖母の記念写真に他の像が重ね合わされ、キラキラと光を帯びているものが多い。何を合わされているのか、どんな意図があるのかは謎だが、過去の写真をそのまま提示する=完了形の「被爆」を扱うのではなく、例えば原爆資料館のような場で光を当てられる展示物(=現在形の公的な記録)と、逆にスマホなど液晶画面の光に慣れ親しむ私達の主観(=現在形の私的な心象)とを併せて提示する試みなのかもしれない。
フォトブックでは、祖母の個人的な記念写真、身体、語られた言葉を収めつつ、現在の広島の風景や土地から被爆の記憶・痕跡(あるいはその不在)を見い出そうとしている。
終盤で続くテキストは、1947年(昭和22年)から2020年までの広島市「平和宣言」本文である。広島市がどのようなニュアンスで平和、核兵器廃絶を訴えてきたかが確認できる。
ボリュームが凄い。テキストが多いこと、祖母という私的な人物を起点にしているので、私は読み切る時間と体力が足らず断念した。ブックデザイン、編集にかなりの工夫が施されているので、デザイン面から読み進めやすい作りとはなっている。
ではなぜ私が読んでいて体力的にきつかったかというと、間違いなく「広島」や「被爆」が「他人事」になっていたからだ。これが現在進行形で、米国を相手に補償を争う問題であったり、北方領土や竹島のように国境、権利を争う話、あるいは放射能汚染という話題であれば、幾分かの今日的な当事者意識が伴っただろう。いや、「原爆」は戦後日本という現在形にそのまま掛かってくる起点に他ならないではないか、被爆者は放射能被害の第一人者ではないか。理屈ではそうだ。頭では分かっているが、その理屈は日頃から馴染んでいなければ自分と結び付かない。小学生の頃はもうちょっと「原爆」を素直に受け止めていた気がするが、流石に80~90年代と今とでは世論や状況が違うらしい。
「原爆」「被爆」が「他人事」で、その受容の「しんどさ」を再発見したことが私における本作の鑑賞成果だとしたら、なぜ石内都や笹岡啓子、藤岡亜弥は「しんどくない」のか、この点の考察は今後の宿題にします。
その点で「平和宣言」の掲載は非常に客観的な、公的な「被爆」への向き合い方が記されていて、面白かった。やはりパーソナルな語りに耳を傾けるのは、私にとってたいへんな労力を使うらしい。ここで「公私」とは何か、「公・私の記憶」とは何か、という問いも生じるのだが、本作もそのことを語っているはずだし、これは今後の宿題にします。あかん終わらん。
◆【KG+SELECT】⑦吉田多麻希《NEGATIVE ECOLOGY》
幻想的ながらアシッド味のある色の滲み歪み漏れ出しは只事ではない。パッと見ると化学的な手法で変形・加工し幻想や悪夢を表現するために動物の写真素材を持ってきたのかと思ったぐらいだ。これは何の作品なのだろうか?
実際の手法は、北海道で実際に野生動物を撮影した後、フィルム現像時に歯磨き粉や洗剤、化粧品といった日常生活にある化学薬品を混入させ、像にダメージを与えてプリントしている。
この自然とケミカルとの融合は、フィルム現像時の薬品・温度管理などの失敗がヒントになったという。だが単なる偶然の思いつきではなく、例えば「写真新世紀」2019年度・優秀賞を受賞した作品『Sympathetic Resonance』において、サーモグラフィーによって野生動物の熱を赤外線感知した写真を提示しているように、作者は従前から自然と科学・人工との掛け合わせによって関係性を模索している。
自然界に生きる野生動物と、私達人間は距離を置きながら共存しているものの、私達が日常生活で使い排出している化学薬品は環境とは切り離せない関係にある。環境ホルモンやダイオキシンのように根深いところで脅かし影響を与えている、そのことを踏まえた共存についても考える。そのような趣旨であることがステートメントに綴られている。
しかしこれで終わるとマジそのとおりですねと、道徳的かつ直線的な話になるので、私個人の感覚を元に別の角度からも読んでみたい。
本作を自然対人工という二項対立で見るには、ケミカルな色や光や濁りが野生動物の像と密接不可分にマッチしており、しかも違和感がなく一枚の仕上がった画像として捉えることができる。好悪の念もざわつかない。すると本作は両者の「共存」とは別の次元におけるマッチングの成立、すなわち環境や社会といった実態の共存ではなく、「イメージ」の領域における先行マッチングなのではないかと推察できそうだ。
可能性のひとつには、私達にとって自然界に生きる野生動物が既に「イメージ」でしかなく、独立した実の存在感を伴わないため、「いち映像」としてどぎつい色や光のノイズと等質なものとして融合可能であり、それを受容するだけの感性も備わっていた、本作はそのことをトレースしたもの、とも考えられる。言わば映画やゲーム内の映像素材としての「動物」のように。それは都市生活者にとっての野生動物が、農作物の食害や市街地でのクマやサルの捕獲劇、あるいは動物園で紹介される無垢な赤ちゃん動物といった報道でしか表れない、モンスター or フレンドの「イメージ」として流通していることと無縁ではないだろう。
もうひとつは、表現主義的な意欲と手法による不可避の領域侵犯である。スティーヴン・ギルが野生動物や植物を撮るのと並行して、人物写真のネガをエナジードリンクに浸して現像したのと同じように、自然や野生動物を捉えようとする動機と人間の都市生活を捉えようとするそれとは実は等価かつ同質であって、写真・アート界における様々な手法的前例の後押しと、作者個人の表現意欲が昂じたことによって両者の混合がなされた、という見方も可能であろう。
本作の挑戦的なイメージからは、様々な読み方を展開することが出来るのではないかと思う。ケミカルは体に悪いが、快楽を伴う。多くの面で、脳に刺さる快楽である。実は私達が望むビジュアルがここに現出していることも、本作が生み出された要因の一つにもなり得よう。
◆【KG+SELECT】⑧山本郁《DO NOT GO GENTLE INTO THAT GOOD NIGHT》
作者の祖母のポートレイトと、祖父母の家の周辺の自然などを撮った作品で、祖母が亡くなるまでの2年間で撮影されている。しかし単に日常を撮るのではなく、作者の友人である山懸良和氏が手掛けるブランド(writtenafterwardsの「flowers」)の服を着せて撮る、というプロジェクトである。
本作については作者のステートメントの通りだ。その通りすぎるので、私の言葉で汚さず引用したい。
私の祖母は対面を気にする保守的な人間で、私ともしばしば衝突することがあったため、山懸氏の前衛的な服を見てどのように反応するかは未知であったが、赤やピンクや白の斬新な素材で作られた不思議な造形の服たちに祖母は興味津々で、撮影になると自らおしろいと紅を塗って髪をなおし、カメラの前で照れ臭そうにポーズをとった。
介護施設に入った頃はベッドに腰掛けてポーズをとってくれた祖母も、最後は横になったまま、服を着せて写真を撮った。それでも毎回、10分弱、私が急いで36枚撮りのフィルムを使い切る間は、祖母はステージに立った主役のように振舞って、その度に私はなにか普遍的で動物的な、生への執着と、「着飾ることの尊厳」のようなものを感じさせられた。棺に入る前の最後の撮影のときでさえも。
加齢に伴い身体が弱っていく中でさえも、着飾り、人に姿を見せることの喜びは、人を強く動かすものだということがよく分かる話だった。介護施設の入所者でも同様のエピソードはしばしば耳にする。
お洒落やファッションというのは想像以上に、人間にとっては生理的な、生命活動の一部とも呼べる要素なのではないか。なぜお洒落によって活力が上がるのだろうか? 自尊心の高まりが興奮としてバイタルに連動するのだろうか。作者はその謎にかなり深く触れていたことになる。
だが本作は私には難しい面があった。まず、非常にプライバシー性の高い情報を突き付けられている感じが、居心地が悪かった。ファッションと生命力という普遍的なテーマ以前に、作者と祖母の間でのナマの応答が強く立ちはだかり、それ以上には立ち入れなかった。(本来そこに部外者は立ち入ってはいけない、という感覚が働いたようだ)
展示形態が、没入や普遍性への気付きには不向きだったためかもしれない。床に台を置いての展示だったが、足元を見下げながら、さほど大きくない写真の密集を見て回ると、どうしても突き放した、部外者の目線になる。
そして風景のカットが非常に少なく、祖母のシリーズとは別に外側の壁面で飾られていた。同じ作品と気付かなかった。
これについては展示全体における編集によって、公・私のバランスと意味合いが大きく変わり、見え方も全く変わるだろう。1枚1枚の写真がしっかりしていて、弱い写真がないことは確かなので、作者が写したものが何を物語っているかに自覚的になれば、受け止め方が大きく変わる気がする。
◆【KG+SELECT】⑨フレデリック・メリー(Frēdēric Mery)《IN BETWEEN EASTS》
作者はフランスの作家で、フォトジャーナリズム、ドキュメンタリー写真に関心を持ち、旧ソ連諸国の多くを訪ね歩いた。2019年からは京都に移住しているとのこと。
本作の舞台はモルドバ共和国、西にはルーマニア、東にはウクライナがあり、その更に東がロシアである。1991年に独立した当初はビジネスの民営化と拡大、自由への夢と希望に満ちていたが、汚職と腐敗が進み、経済不況に陥っている。また、ロシア系住民が1990年に分離独立を宣言した一部地域については、モルドバ国内でありながら分離国家となっていて、現在も実効支配が及んでいない(没ドニエストル共和国、トランスニストリア)。そして近年発生したロシアのウクライナ侵攻という差し迫った危機もあり、緊張関係に晒されている。
本作のタイトルで「EASTS」と「東」が複数形になっているのは、モルドバ共和国がロシア、ウクライナという複数の「東」の狭間に位置していることに由来する。ロシアでも、東欧でも、ウクライナでもない、モルドバの表情を写しているという。
私もモルドバに詳しいわけではないので、作家ステートメントを貼っておきます。
町の景色や住民らの写真と、ソビエト連邦の歴史について映像が流れていた。
ああーソ連でしたねー。これまでNHKや社会の資料集で見てきた「ソ連」の歴史である。ソ連やなあーと思いながら見ていたが、実際、1991年までのモルドバの歴史はソ連なわけで、その後も「モルドバ」という固有の風土やアイデンティティーがあるのかどうか、それはどういう姿をしているのだろうか。明確にないから、明確な写真にならないのかもしれない。
ステートメントではこのようにある。
ロシアとウクライナの狭間ではある特異な人々が暮らしており、日々苦難を強いられている。ソビエト連邦の瓦礫の中で暮らし希望を失っている若者たちや、90年代にかつてあった希望が失われていくのを見守る年配者たちだ。この写真集では、彼らの日常生活に焦点を当てている。
写真集あったっけ…? なかったはず この「特異な人々」の内容や実情が展示では分からなかった。人物写真はあるが、深くシリアスに掘り下げるものではない。また、苦悩や悲惨の表情でもない。モルドバはヨーロッパ圏では「最貧国」に位置付けられ、人口の3割が他国への出稼ぎをし、国民一人当たりGDPはフィリピンと同規模と言われるが、もしかしたら写真集が本作の本体で、そこで掘り下げて展開しているのかもしれない。
会場入口に置かれているレーニン像が本展示と「モルドバ共和国」の全てを物語っている気がする。昔も今も、ソ連及びロシアから切り離せない国・国民であるということだ。アイデンティティーの面でも、危機においても、経済面においても。
本作から受け取れる内容や、そもそもこちらの素地が無さ過ぎるため、あまり言うことがなくて薄くてすいません。モルドバがどういう所かおさらいをして〆たいと思います。
「沿ドニエストル共和国」って普通に観光で入れるんですね。
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これにて、「KG+SELECT 2021」レポを完了です。
面白かったですね。毎年おもしろがってる気がします。わあい。
( ´ - ` ) 完。