nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【学生】R5.3/18~31_令和4年度 大阪芸術大学 写真学科 卒業制作選抜展 @ソニーストア大阪 αプラザ

「あれ?大阪芸大ってこないだもハービスENTソニーストアで展示してなかったっけ??」

もう1年経ったんかなと己の時間感覚をあやしんだが、10~11月にも選抜展が行われていたのだった。今回は卒業制作の選抜展である。

【会期】R5.3/18~3/31

関西の写真系学科・学部を持つ大学でいうと、大阪芸術大学、京都芸術大学成安造形大学あたりが挙げられる。どの学校もキャンパスが遠方にあり、特に大阪芸大南河内郡河南町というよく分からないけど南側の遠方(富田林市と羽曳野市の間ぐらいか)にあり、車がないととんでもない時間がかかるのでまず卒展に行けない。

学校側もそのような地理的特性(ヤバさとも言う)を認識しているようで、あべのハルカス内の「スカイキャンパス」や、大阪の中心街にあるメーカー系ギャラリーで「選抜展」を積極的に行い、生徒とその作品の「見える化」を積極的に行っている。

 

昨年10月に鑑賞した「選抜展NEXT」はまさに、卒展・修了展以外でのお披露目であった。こういうオフシーズンの展示は他校とバッティングしないのでありがたい。

www.hyperneko.com

 

今回の卒業制作選抜展では、12名の作家が展示していた。全部取り上げたいところだが、特に興味深い作品・テーマについてフォーカスしてみたい。

 

(1)「自然」との関わり、自己との関わり

今回は自然(動物、植物)をモチーフとした作品が多かった。特に植物。4年間の制作期間の大半が新型コロナ禍で封殺され、対人間、対地域・社会の撮影行為や取材が制限され、そもそも外出自体が困難だったという特異な状況を反映しているのかも知れない。

 

◆山田絢太《HANDMADE EDEN ―美しき侵略的外来生物―》

関西では聞かないのだが、関東では東京都内と神奈川県を中心としてインコが野性化して定住しているという。1960年代、ペットとして持ち込まれたインコが捨てられるなどして野性化し、タカ等の天敵のいない都市部で生き残り、千数百羽まで繁殖しているらしい。

しばしば新聞やニュース等で取り上げられてきた現象だが、Web検索トップに出てきたのが「マンションでの鳴き声・フン害対策」である。元は人間の勝手で買われて捨てられた生物なのだが、その後もずっと厄介者扱いされており、自然にも都市・人間界にもフィットできない歪さを物語っている。

www.kenso.co.jp

この件でまず思い当たったのは水谷吉法『Tokyo Parrots』(アマナ、2014)だった。しかし本作では副題で「美しき侵略的外来生物とあるとおり、社会学的なアプローチを行っている。野性化したワカケホンセイインコの生態と野性化の経緯をフラットに説明しつつ、その美しい色と姿で活き活きと暮らしている姿をポジティブに撮影している。

目を引くのはインコが桜の花々に囲まれながら花を咥えている姿だ。花を嘴でもぎってソメイヨシノの蜜を舐めているらしい。かわいい。さすがインコ。だが愛らしい姿の写っていない地面や街路樹の写真も多々見られる。

ソメイヨシノは通常花びらが散るところ、インコが花を丸ごともぎ取っては蜜を嘗めるので地面には小枝ごと捨てられた花が散らばり、また住み着いたインコの啼き声やフン害に苦情が寄せられ、対策として住処となる街路樹の枝が切り落とされるなど、インコの生息によって景観・環境の変化が生じている。本作にはそうした周辺の変化も観察されている。

本作はこれら人間主体の景観、インコを「害」として排除する目先の簡単な対処を取り上げることで環境保護SDGsなどへの「場当たり的な対策」を批判、「本質的な」生命多様性や自然環境への考察を訴える。多角的なバランスの取れた作品だった。

 

 

◆佐藤桃果《かげのこえをきく》

上下2列、計10枚のモノクロ写真は揃ったトーンで植物が撮られている。ステートメントでは植物側の主体を認め、植物の自由さに対して、美しさと共に恐ろしさや羨ましさを認めている。だが作者の主観、心象光景や感傷的な作品と思いきや、テキストを別にして写真だけを見ていると、主観の外側にある植物の姿形がしっかり白黒で表されている。

それは植物個体・単体の造形とも、植物種の生態ともはっきり分けられないところの描写である。足元に繁茂する「雑草」などと概して呼んでいるものの群れ、その塊の輪郭と膨らみである。雑草は多くの場合単体で生えておらず、一定の塊で群れを成している。種族間で競争、棲み分けもあるのだろう。

日常生活の中ではそれら塊としての姿を切り出して見つめることはまずない。全て一様に「雑草」であり、流れ去る風景の背後に過ぎないだろう。

本作は、身近な自然界に存在するクラスターの形状を写真によって切り出して明示したものと捉えることができた。通常は見えていないものが、光学の眼によってフレーミングされ、フォーカスされ、像になって明示される。植物の生命力への賛美もさることながら、本作には光学メディアと「視る」ことの魅力や力への関心があるような気がした。

 

 

 

◆多田純菜《記憶の庭》

さきの佐藤桃果《かげのこえをきく》と同じく植物 × 白黒写真の作品だが、こちらは植物の造形そのものが持つ力をミクロの視点と写真プリントから最大限に引き出そうとしており、全く異なる、真逆とも言える作品になっている。

荒々しく過剰なトーンと描画、カール・ブロスフェルトではなく中平卓馬をいくのか、と思わせつつ、しかしそうではない。植物の造形を真正面から強く突いた写真だけでなく、落ち葉や草むらの中に忘れられた腕時計や携帯電話?も撮られている。

ステートメントによると演出として置いた小物のようだ。過去の作者自身、祖母の私物などを用いているという。

本作の主旨は、作者の回復的行為、祖母の記憶を巡るものであった。様々な事情から、これまでの人生で精神的に頼れる唯一とも言える存在だったのが祖母であり、祖母が育ててきた花だった。しかし祖母が倒れて施設暮らしになってからは、庭の花の面倒を見る人がいなくなり、花も無くなってしまった。

 

本作は祖母の庭の幻影、記憶の庭であるという。

だが面白いことに、ここで露わになっているのは、植物の異形のフォルムや群れの力であり、むしろ作者の個人的な過去や記憶とは全く別のところから生えて育っているように感じる。形態の迫力、捉え難さがしっかり先に来ているのだ。一般的には逆のパターンで、何でもかんでも自分の心象、手元に引き寄せてしまう作品が多いのだが、本作は違う。制作意図に反するだろうが、良い意味で作者の想定を超えたものがあるように思う。

 

 

(2)日常、風景と「私」というもの

「私」、若い学生が武器にできる数少ないジャンルだが、差別化を図るにはやはり何らかの工夫、学びが必要となる。(1)の植物系の作品も部分的には該当している。「私」や「日常」を扱うことでどこまで作品として自立させられ、オリジナリティを出せるのか、深みを持たせられるのか、試行錯誤を見るのは面白い。

 

◆東本朱寿《四角の脳、私と写真》

スナップ写真でできた立方体をラフに積み上げた箱の山、190個ものサイコロ。どれを手に取ってもどう見てもどう置き直してもOK、ありそうでなかなか無かった作品である。

全ての写真は正方形で日付・時刻入りのため、これらを追うと作者の過ごした大阪芸大での2年間の日々が浮かび上がる。だが数が多くてサイコロ全てを追いきれないのと、多面体であり1つの面が見えている時には他の5面は見えず、写真全体を一望することは叶わない。全容は作者のみが知っている。私達鑑賞者はピックアップできた1、2面との出会いと接続をランダムに繰り返していくことになる。

手のひらサイズの写真サイコロはアイデアとしては面白い。平面メディアへの接し方が少し変わる。それが生み出す真の効果はまだ不明である。立方体が最適だったのか、プリントの山にするのが良いのか、壁一面にカオスに散らせたり重ねたりして見せた方が効果的なのか、試行錯誤の余地は大いにある。

何より、特に何もないような日々の中で撮影し続けていることに意義がある。卒業後、どういう進路を歩むにせよ、カリキュラムに沿った画一的な生活から、より個別に固有な生活を迎えるだろう、そこで撮るもの・写るものがまた変わってゆくとき、見せ方も含めて深化・発展してゆくのではないだろうか。

 

 

◆阪本歩《雄大

ROLANDGACKTの自伝の表紙めいたポートレイト、誇張された強き我・「俺」に意表を突かれ、コマーシャルやファッションのフォトグラファー志願者か、あるいは演出的セルフポートレイトかと思った。しかしそれにしては誇張が効いている。 

ポートフォリオのテキストを読んでようやく真意が判明した。ある意味で最初の印象は正しかった。

写されているのは作者の中学・高校時代の友人である。タイトルの雄大はその友人の名前であった。

高校卒業で別れてから3年ぶりに再会した彼雄大は、渡米して「自信に満ち溢れた魅力的な男」に変貌を遂げており、作者が在学中に重病を患って学校に通えなくなり、家からも出られず自信を喪失していたのと全く対照的であった。彼は作者にとって理想の人物像を体現していた。

「彼を深く知ることで自分も何か変われるかも知れない」という思いから作者も渡米し、20日間の共同生活を送る中で友人を撮ったのが本作なのだが、なおも自信のない作者に友人は「自由に指示を出して撮ってよい」と伝え、展示のような、自信に満ち、誇張気味ですらある「俺」ポートレイトが生まれたのだった。「自分にもあり得たかも知れない」もう一つの可能性・アナザーストーリーの姿として写し取られているのだろう。実際そうだったかもしれない。

なお、ポートフォリオでは他にも旅の途中の光景、雄大なグランドキャニオンなどの風景とともに、何気ないフラットな時の友人の姿など、幅広いものが写されていて面白い。単純な自己啓発や願望のイメージ、キラキラした部分を愛でるだけでなく、それ以外の「オフ」の状態にも自覚的に目を向けている。

また一方で、私が初手で「ROLANDGACKTの自伝の表紙のような」ある種の典型的な理想像としての肖像イメージを作品に感じたことも、興味深いことだと思う。作者の背景や制作動機に触れたことで、彼らのような分かりやすい理想像:無尽蔵の”自信”を持って自己革命し、自己PRし、社会的成功を生み出す(ように見せる)人物像が、今なお目指されるべき目標像として何かしら共有されている・機能しているのではないかと感じた。

 

 

◆余坤鵬《見えない河》

作者にとって日本は異郷である。だが日本に滞在しながら、自国と日本の両方に近付こうとする姿勢は「私を逆の方向に、中心から離れた周辺に押しやった」という。ステートメントの日本語を解しきれないところが多々あったが、恐らく「自分の内面にある羨望」=故郷の記憶ともまた違った、望ましいイメージとして抱いている故郷の原型・ノスタルジックな像と、現在生活している日本の風景とが折り合う場面を写真で表現しているのではないか。

ノスタルジアと現在形とが出合って生まれる写真的な「見えない河」、私達日本人にはありふれた日本の日常景の一つにしか見えないが、そこに作者の故郷(苗字からすると韓国だろうか?)と共通する、共鳴する瞬間があったのかも知れない。

なお、日本の光景に母国のノスタルジーを見い出して撮られる写真という発想は、同じく異郷の写真家・田凱「Temperate Landscape」トークショーから連想したものだ。

www.hyperneko.com

 

 

 

(3)乗り物・マシンと記憶

写真作家で乗り物・マシンを主題とした作品はあまり(全く?)出会わない。モノとしての意味が強すぎる、世界観が固定されるためだろうか。学生ならではの自由さと関心の強さで向かっていくところが頼もしい。

 

◆生頼俊也《Requiem》

わかる。これは撮りたい。(筆者は廃墟、廃村好きです)

道路沿いなどで「死んだ状態で放置されている自動車」への関心から撮られた作品だが、ノスタルジアやフェティッシュに寄せるのではなく、そこに機能的な死(修理不可能、走行不能)を認めた上で、悲しみの念と共に架空の物語を与え、個人的に誰の目にもつかないところで「供養」を試みているところが独創的だ。

展示会場では廃墟を愛でるがごとき廃車両の写真のみが展開されているが、ポートフォリオのほうで「供養」の真骨頂を見ることができる。1台1台に付された空想のストーリーは、実際に持ち主か誰かに取材して書かれたものと勘違いしてしまう(していた)ほど尤もらしく、情感と経歴が豊かに描かれている。

 

これら放置車両が生まれる構造的な原因として、作者は経済状況・景気と、中古車・アンティーク車市場の関連を挙げている。要は羽振りが良い時には高級車を買って、愛着を持って所有していても、車は維持するだけ・所有するだけで経費が掛かり、また市場価値が低ければ中古で売却するメリットもなく、書類を揃えるのも手間であるため、棄てられるだけになる。家屋の空き家問題と似た構造があるかも知れない。モノとしての良さとは別の次元で手放され、売られるでもなく放置される。

 

 

◆松田隼弥《残影》

手書きのイラストを写真の中に直接投げ込む、なかなか大胆な作品だ。これが許される時代になったということは、「写真」の唯一性や真正性、絵画やイラストとは根本的に異なる表現分野であるという独立性などが、今や問われなくなったことを意味している。

近くで見ると、別に描いた手書きの絵をphotoshopで写真の中に合成している。つまり絵・イラストと「写真」は画像データ形式と編集ソフトという次元において地続きであり、本質的には同じものとして移植でき互換性があるということを示している。私が学生の頃・ゼロ年代初頭にも技術的には出来なくはなかったが、たぶん誰も評価してくれず、「写真なら写真で勝負せえバカタレ」としばかれていただろう。今現在では本作のような越境というか、共通言語として扱うことは当然のことと受け止めることができる。

写真はどこへ行くのかという命題がずっとある。撮影行為は蒸発して「画像(データ)」「リアルデータ」といった風にデータの質だけ区分され、呼び名は絵・イラストと統合されるのかも知れない。無論、本作は描かれた絵がそれだけ写真ぽくうまく立体感を出しているから、写真に溶け込んでいるわけだが、それにしても違和感がないので、私達の写真を受容する感性が従来から大いに変化していることを実感した次第だ。

 

 

 

(4)古典技法の実践

2021年11月の「旧杉山家写真物語展」で分かったこととして、大阪芸大では古典写真技法の学び、実践にも取り組んでいる。写真がデータ化され姿形、定義を変えてゆく一方で、元はどういうものだったのかを掴んでおくためにも古典技法は不可欠である。何より古典技法は色々大変で、個人が家で簡単にやれるものでもなく、教育・研究機関などの力を借りないと難しい面がある。

www.hyperneko.com

 

◆松原瞳《記憶の栞》

フィルムカメラで撮影後、和紙にヴァンダイク・プリントで仕上げた作品である。

詳細な説明は省くが、ヴァンダイク・プリントはサイアノタイプのように日光(紫外線)を当てて、紙に塗布した感光薬品と反応させ、セピア調の像を得る。このセピア色がバロック期の画家アンソニー・ヴァン・ダイクの特徴的な色調と似ているためその名が取られている。ネガを密着させて像を転写するコンタクトプリントなので、複製は可能なのだが、とにかく仕上がりが薬液の調合や塗布の仕方、光の当て方など様々な条件に左右されるため、結果的に同じプリントが生まれることはない。古典写真ならではの特徴である。

しっかりとした描画、特に建築物や道路の線が力強く出ていることに驚かされた。そしてはっきりしたトーンが気持ちいい。黒が効いているので、撮った会場写真は額のアクリル面に色々反射して処理が大変だったが、やはり古典技法の写真は一点一点を現物で見ないといけない。手に取れない像、光を紙に定着させること自体に意味があるのだ。

------------------------

はい。面白かったですね。展示作品だけ見ると淡泊な感じもしましたが、ポートフォリオを見て、特にテキストを読むと、作者の真意や「やりたかったこと」が分かり、写真の意味が奥行きをもって理解できました。見え方が変わるんですよね。

なかなか全ての展示を観て、全てについて記録を残すことは難しい(むり)ですが、やれる範囲で持続可能なアレでアレしていこうと思います。アレ。

 

( ´ - ` ) 完。