nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展/KG+2020】【No.31】西村勇人『Lives』、【No.32】マルセレ・フェルベルネ『黒い水』@MATSUO MEGUMI+VOICE GALLERY pfs/w

【KG+】レポ。 VOICE GALLERY(ヴォイスギャラリー)の展示です。西村勇人『Lives』の、科学的見地から生命へアプローチするスタンスが興味深い。科学しましょう。

 

f:id:MAREOSIEV:20201005170320j:plain

【会期】2020.9/18~10/4(西村勇人)、~10/18(マルセレ・フェルベルネ) 

 

  


 

【No.31】西村勇人『Lives』

作者は研究施設の内部や科学者の思考などを映像化し、「科学」と呼ばれている領域の内側に入り込む。昨年の【KG+】では実験機器から延びる色とりどりの、そして夥しい配線の美を作品としていた。

 

 

本展示は施設ではなく、科学の領域で扱われる「生命」という現象をテーマとしている。生命・生物に焦点を当て、ギャラリー2室分で展開している。作品の一部を以下に紹介しよう。

最初の部屋では 、目の覚めるような鮮やかなブルーの作品が飛び込んでくる。どこかの土地を衛星から特殊な波長で測定した地図のように見える。

f:id:MAREOSIEV:20201005170320j:plain

作品『Fluctogram』(2013)はサイアノタイプ技法で作成された。感光材として鉄塩などを紙や布に塗り、ネガを密着させて太陽の光で焼き付ける。日光写真の原理だ。

地図や体内の器官にも見えるのは、粘菌アメーバ(モジホコリカビ)が飢餓状態に見せる揺らぎや複雑系を元にしたものだという。複雑系というのは、脳や神経を持たない粘菌がとる集団行動の「知性」を呼び表すものだ。粘菌は普段、単細胞のアメーバのように生きているが、飢餓状態になると集合し、個体のまま融合せずにあたかも一つの生命体のように振る舞う。それは中央集権的な(ヒトの脳のような)判断ではなく、全体が同時に動きながら役割分担しながら行動しているのだ。

そうやって這わせたところをサイアノタイプで像にしている。これは知の一つの形ということかあ。

 

f:id:MAREOSIEV:20201005234924j:plain

対するのは作者の脳の輪切り映像、『Cogito』(2017)である。私が「私」であるための、最大の根拠であり唯一の(デカルト的な)自己弁明が、正にこのMAPに懸かっている。存在の確からしさとは、脳のどの部位がどのように稼働しているか--どのぐらい機能が損なわれているかによって大きく左右される。だが脳単一ではなく、様々な部位が連動して夥しいネットワークが稼働することで「私」が浮かび上がる、その点では粘菌とも通じるところがある。

小さなメモ用紙ぐらいの紙にプリントされたこのMAPは、未知への興味と、健康上の不安も想起させる。いつまでも健康な脳でありますように(でなければ「私」を私は保持できない!?)。

 

f:id:MAREOSIEV:20201005165908j:plain

f:id:MAREOSIEV:20201005170114j:plain

隣の部屋では『Clones―Mendel's Grapevine』(2019)、メンデルの図とブドウの木の写真が提示される。生物種の「遺伝」を語る上で欠かせない第一歩が、メンデルだ。受験勉強以来、久しく忘れていたがこういう再開の仕方があったとは。

なぜブドウなのかというと、彼が品種改良に携わったからだ。東京の小石川植物園にはメンデルブドウのクローンが育っており、本作はそれを写したものだ。クローンというと、倫理的問題を孕む対象として見てしまうが、植物の場合は特に不審にも思わないのが自分でも面白いところだった。

 

f:id:MAREOSIEV:20201005170103j:plain

f:id:MAREOSIEV:20201005170256j:plain

f:id:MAREOSIEV:20201005170232j:plain

そして西村作品を象徴する『Shape of Life』(2009)シリーズ。ニワトリの卵の殻に、チョウザメ、スッポン、ニワトリ、ゼブラフィッシュの「胚」の状態の写真をプリントし、生まれる前の生命を刻印する。目には見えない卵の内側で起きるダイナミックな現象を表側へと逆転させる。この写真を撮影したのは作者ではなく、様々な研究施設や大学の関係者であり、各所から得られたデータの引用・加工により成果物とするところもまた研究者的な姿勢である。

また、「写真」というより写真を用いた「彫刻」に近いが、「卵」の殻と聞くと、写真史初期に使われていた鶏卵紙のことを想起させられた。遠い遠い縁ではあるが、卵と写真は元々、進化の過程で密接な関係にあったのだ。 

 

「科学」と聞くとあまりに広くて漠然としているが、こうして個々の話題を具現化された時には、生命に直結した重要な・興味深い領域を開拓してきたことが見えてくる。いつからか、科学分野および科学的な見地はひどく軽視されるようになっていた。気付けば、民の(そして為政者の)目の敵にされているぐらいの勢いだ。それはコストとの天秤にかけられた時に、ポピュリズムの叫びを如実に刺激する。「収益性の高い研究に選択と集中を」と号令を掛けられる様は、「競馬で絶対に当たる馬を当てて賭けろ」と言われているに等しい。

科学とは何だったのか? 勝ち馬に確実に投票することが「科学」なのか? 白か黒かをつけることが科学なのか? 本作を見れば、そういった話ではないことが自ずと知れてくるはずだ。

 

 

【No.32】マルセレ・フェルベルネ『黒い水』

アムステルダム在住の写真作家である。写真はまさに黒く、暗い。写真は、同作者が執筆した小説『井戸』と連動している。今から100年ほど前に起きた殺人事件を元にしているという。  

f:id:MAREOSIEV:20201005165924j:plain

f:id:MAREOSIEV:20201005170038j:plain

f:id:MAREOSIEV:20201005170013j:plain

小説の中身を把握するだけの時間がなく、パラパラとめくった時に、親子の話であり、子供がどうかしてしまう話だということだけは分かった。

KG+サイトの解説文を日本語訳したところ、「子供が井戸に溺れ、継母が告発される。しかし何が起こった?子供は最後の瞬間に何を見ましたか、井戸に声があったらどうしますか?水が物語を反転するとしたらどうでしょう。」と、謎めいた怖いことが書いてある。時間があればじっくり読んでみたかったが・・・。写真の映像の中=井戸の奥、水の闇へとダイブするためには、軽いスナップ的な貼り出し方よりも、サイズや額装などの力を総動員する必要があるように思われた。

小説『井戸』の日本語版は100部限定で販売されていた。気になる方はぜひ手に取ってじっくり読んでいただきたい。

 

 

( ´ - ` )完。