nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真展】R3.5/11~5/16_加藤俊樹「失語症」@gallery solaris

美しく強い光が差し、写真は生命力に満ちている。 脳出血により失語症に陥った作者が、入院中から撮り溜めてきた写真と、言語リハビリで絞り出すように何度も書き付けた言葉と図が並置されている。

文字と図は、普段私達が使っている記号・道具ではなく、生々しい身体性を反映していた。圧巻の展示だった。

 

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【会期】2021.5/11(火)~5/16(日)

 

 

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入って一発目の写真、3枚一組の脳のMRI画像にぐっと来た。

出血を来した箇所が白く光っている。本展示の作品がこの傷付いた「脳」を介して生み出されたこと、この作品が単なる「表現」ではなく、作者の身に起きた「現実」であることを、強く立証する画像だ。

 

作者は2012年7月、47歳で脳出血を発症し、その後も失語症を抱えることになった。約半年間の入院の後、在宅で通院しながらリハビリ生活を送り、発症から約2年後には復職。リハビリを続けて現在に至っている。ご本人は奥様ともども会場に在廊されていて、ほぼ普通に喋っておられたが、気長にリハビリに取り組んでこられた努力の賜物なのだろう。

 

写真は発症後の入院生活から撮り始められている。焦点は「光」に合わされていて、病室の床やカーテンに差し込む光の表情が実に力強く、濃く、手を伸ばしてぐっと掴むように撮られている。

写真内には、病状について語る情報は非常に少ない。普通なら、日常の記録として日記をつけるように自身の療養・リハビリ生活の様子をスナップしてゆくだろうと思うが、作者は一貫して、太陽の光が強く差し込むことで生まれる、陰影の表情に食らいついている。

 

だからもし、作者の置かれている状況、「失語症」という言葉を伏せて観たならば、何の違和感もなく、手練のスナップ写真家の作品展として鑑賞したことだろう。純粋に「うまい」写真だった。構図、色、コントラスト、瞬間、どれも見事である。

 

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だが単なるスナップの鑑賞であることを許さないのが、作者の言葉である。絞り出すようにぶるぶると、がたがたと書きつけられた言葉は、見事にキマッた写真との落差ゆえに、凄まじさが伴う。字体のふるえ、存在のふるえ。「おれはどこに行ってしまったのだ」と、「おれはここにいるぞ」との、二つの叫びが同時に聴こえる。

 

『心は言葉か?
 心は絵か?
 心は脳CTか?
 心は写真か?』

 

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反対側の壁面には、リハビリの過程で書き付けられてきた言葉、図が拡大され貼り出されている。平仮名や漢字を書く作業は、言葉の記憶を失った作者にとって、例えるなら私達日本人が未知のアラビア語を絵のように模写する作業に近いのだという。作者の内側にある意識や意味と、それを表意する記号との繋がりを取り戻す作業の痕跡は、作者が気の遠くなるほど長い道のりを歩んできたことを実感させられた。

 

失語症」と言っても、ざっと調べたところ7種類ほどあり、発音・識字・聴理解・読解・復唱の機能について障害の有無により分類されている。作者の場合は、人の言葉が理解でき、自身でも考えることも出来るが、文字を読んで理解したり、考えを言葉に変換して発話・記述する機能が奪われてしまったようだ。

なので、作者と文字・言葉との関係は断たれたけれど、記憶や意識、意思自体は発症前から連続しており、つまり外界と内面との視覚的な関わりはある程度保たれていたと言えるだろう。

何が言いたいかというと、意識不明に陥って記憶自体を失った中平卓馬とは、一見似ているようで、見舞われた症状や、世界の関わり方が大きく異なるということだ。

 

写真を見ている間は、どうしても中平卓馬のことが念頭にあって、類似点を見出だそうとしてしまった。しかし、作者のリハビリ生活に随伴し、自身も言語聴覚士の視覚を取得した奥様から、症状について「日本語に不慣れな外国人が、日本に滞在しているようなもの」と、非常に分かりやすく説明いただいたことで、写真を見る角度を切り替えることができた。

症状の違いは、個人の正確や生い立ちの違いにも匹敵する。個性だ。他と比較するのをやめた。

 

その症状やリハビリの経緯については、こちらのblogが詳しい。

 

shitsugokun.com

発症直後から、奥様である米谷瑞恵(こめたに・みずえ)氏が付けておられるblog。リハビリの取り組み、社会復帰の歩みが客観的に記録されていて、非常に参考になります。

 

作者は発病以前、カメラ・写真雑誌『CAPA』の編集長だったという。光や構図を選び抜く力に秀でていたことに納得した。その映像言語のフォーマットは、脳出血失語症でも損なわれることがなかったのだ。

復職後も、複数名が発言する会議に対応するのは厳しいものの、例えば撮影機材を紹介する企画で、この機材ならどのカメラマンに依頼すべきか検討する、どの写真が最もよく機材のスペックを表しているかをセレクトする、といった仕事は、問題なくこなすことが出来ているという。

 

リハビリで書き付けられた字やイラストは、リハビリの苦闘のドキュメンタリーとしてではなく、脳内での認識・出力の処理をそのまま転写したように、生々しい身体性を反映していた。写真よりも写真的だ。

繋がらない意味を繋ぎ直すための格闘、振り落とされた大きなもの(=言語と意味の体系)へと食らい付いていく行為があった。よって、文字やイラストの方にこそ、中平卓馬との結び付きを感じた。

それはとても強い力だった。

 

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ちなみにこれは2019年3月に、東京の「Roonee 247 Fine Arts」で展示された時の様子。

この時は色々と物の置かれたカウンターの壁で展開され、正直、作品の中身をしっかり観ることが出来なかった。しかし文字の練習に使った「あいうえお」帳の写真、この一枚の記憶が私にずっとあった。今回の展示で再開し、改めて全身で向き合えたことは、とても幸運だった。

 

 

( ´ - ` ) 完。