nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真展】R3.5/7~5/20_木村和平「あたらしい窓」@I SEE ALL

大阪・本町のセレクトショップ「I SEE ALL」横のギャラリースペースで展開される、木村和平の写真展。何気ない日常や親密な人を撮ったように見える写真には、何が写っているのだろうか。

 

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【会期】2021.5/7(金)~5/20(木)

 

 

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「I SEE ALL」、聞いたことのないギャラリーですが。えー? あったっけ? 

階段の入口あたりにも店やギャラリーの表示がなく、まさにレトロゲーばりにノーヒント。展示の告知も道具入れの扉に貼ってある笑。いいですね個人的に好きです。これ入口間違えたかな…。

 

iseeall.net

セレクトショップとのこと。大正レトロの建物「丼池繊維会館」(どぶいけ、と読む)の2Fにある。お店も見たけどおしゃれーでした。女性向けの服やアクセが。おしゃれえええ。きえええ。

店内になんか気になる白い写真集が置いてあって、あれは・・・と思ったが、上記ネットショップを見たら、澤田育久『SUBSTANCE』、伊丹豪『PHOTO COPY』がある。まじすか。最近Webでも売り切れが目立つからこれは穴場。

 

ギャラリー見ましょう。

 

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2Fに上がると思っていたよりも広く、通路が真っすぐ伸びて、手前に「I SEE ALL」店舗、その隣にギャラリースペースがあった。空間の全景を撮ってないのは、私が油断しまくっているからです。たるんどる。へえ。

 

通路側はカウンターがあり、写真集やステートメント用紙が置かれている。思っていたよりギャラリーとしての空間作りがなされていた。てっきり雑貨や服や本などの広いショップ店内の壁に作品が掛けられていると思っていた。ちゃいましたね。ギャラリーです( ^-^) 

これは今後の展示、要チェックかも知れませんね。

 

 

作品でも予想外の裏切りがあって、

 

マットの余白がでかい。

 

でかいです。

写真本体がL版よりもっと小さくて、ほとんどが余白。額、マットを通して写真を覗き込む形になっている。雑誌『IMA』Vol.34で見るとページいっぱいに写真が掲載されているので印象はかなり違う。

タイトルにあるように、写真を見ることと「窓」を覗き込むことを繋げているのか。余白が鑑賞者の主観の溜まり場となっているのか。

 

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写真本体よりマットの余白が主というか、余白から写真を覗き込むことが主であると考えたので、あまり接写せず半端な距離から撮りました。なのでモヤッていますが、実際の写真はシャープです。フィルムで撮られているためでもあるかも。

 

撮られているのは、ほぼ単数形で、多くは女性だ。この人物の関係は不明。恋人、パートナーに見えるが、歳の近い妹を見守るような眼差しでもある。また、自分の家の中と思われるシーンも見られ、光の差し込む窓とカーテンレース、チューリップの花、犬などが現れる。

一見するとファッション的だ。光と色に注意深くて、女性はさりげなく、しかしカメラを向けられていることを十二分に意識してそこに立っていて、撮影者は一定の距離感を不文律のものとして保っている。だがファッション写真ではない。その受け手となる読者や、納品先のクライアントの顔が見えない。

 

なら私写真なのかというと、モチーフは近いものがあるが、文体が異なる。身近な存在を撮ることで新たな表現主題を開拓したり、作者自身が生きている実感を得たり、被写体との共犯関係を取り結んで演出したり・・・といった雰囲気でもない。作者の個人的な主張、「私」の題材化や主張がない。不思議な距離感だ。

 

ある時間に注がれた光と、そこにいた存在を確かに受け止めている。「何気ない」ようで1枚1枚が強いのは、「何気ない日常」として整地された、単一に見える時空間が、実は無数の単数形から成り立っていて、それらの存在はそれ以上に因数分解できないことを、写真によって現わしているからだろうか。

 

それは熊谷聖司『EACH LITTLE THING』で取り組んできたことに近い。実際、いくつかのカットは熊谷作品の、何とも言えない色と形状の美しさ、艶めかしさと、言葉への変換を許さない・逃れてゆく写真内回帰(写真に写ったものを語ろうとすると、それを言語化できないため、写真というものそのものを語らざるを得ない方向へ回帰してしまう現象。今思い付きの造語)に、よく似ていた。

 

www.hyperneko.com

 

 

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実際、カウンターに置かれていた『日本カメラ』2021年3月号での作者インタビューにて、『最初、ファッションスナップを撮ったがすぐ不向きだと悟った。』『2019年に書店で偶然、熊谷聖司さんと知り合い、彼が主宰する暗室教室でカラープリントを教わった。』という非常に興味深いコメントを見つけた。

そういう体験や経緯が作品に表れつつも、作者独自の風合いも出していることが面白かった。

 

「窓」というのは「写真」というメディアを介して見える、「何気ない日常」に内在された、なにげなくない非日常のことだと思うし、これまでに写真史的に試みられてきた私写真や、鏡と窓の分類の歴史などからも自由な、作者自身にとって確かな光を招き入れるための「写真」であることを意味しているように感じた。

 

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当然ながら、同名の写真集と見比べると受ける印象が異なる。写真集は像が大きく、よく見えるので、何か物語を感じたりこちら側で独自に思い浮かべることが出来そうだ。見開きでバーンと光景が開かれると、おおーってなる。展示は、小さな写真の中を覗き込む体験性が強いため、暗箱―記憶の中を捜しながら像に出会う感じもする。

 

 

( ´ - ` ) 完。