nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】2025.4/12-6/15_報道写真家・浜口タカシ「ドキュメントアングル」@奈良市写真美術館

戻れない時代を見た。象徴的だったのだ。

造反有理」「安保粉砕」「空港完全爆砕」「空港粉砕」・・・スローガンが写真の中で鈍く強い光を放つ。財務省解体デモとか東京五輪反対デモと迫力が違う。写真の質感のせいだけではない。言葉のエッジ、字体の重み、それを掲げる者たちの体つき、そして闘争の空気感が全く違う。

 

1980年代生まれで、90年代~ゼロ年代初頭が最もリアルな時代感覚の私にとって、それ以前の60~70年代日本というのは完全に別世界としてある。安保闘争学生運動三里塚闘争成田闘争)は、終わった歴史であり、遡行しえぬ別日本としてある。

 

浜口タカシの写真は報道やドキュメンタリーの類で、発表当時はまさに即応性・速報性が意義としてあったはずだ。報道や同時代ドキュメンタリーは「作品」になるのか?  今、一周回って「作品」という扱いになっていて、それが成立しうるのは、この国が通過してきた確かな事実としての歴史であるとともに、もうその時代には二度と触れられず、遠く離れたものとして大文字の歴史に奉られるか忘れ去られるかしかない、それだけの時間が経ったからだ。

時代が変わって、いくつかの時代区分を跨ぎ、地層が現在と交わることはもうない。歴史の堆積の中で、当時の写真は結晶化して化石のようになった――尊いものとなったのだ。

 

この展示では「70年代安保闘争」「戦慄の成田空港」「宝石の海」の3部シリーズが中心となっている。前2つは白黒とカラーの違いはあれど、思想や背景としては連続している。

ディテールの追求はしないが、1959-60年の安保闘争以降、左翼・新左翼のデモ活動がピークに達し、日本列島を、東京の中枢を揺るがした。国家的な出来事であり、戦後日本という時代を象徴する出来事になった。大きな力のうねりが生じ、大衆が、学生が、数の力で蜂起した。60年代でそれは終わらなかった。先鋭化し、内ゲバ、リンチ、人質と鉄球で壮絶な結末を迎えてもなお、戦線を三里塚―成田空港に移し、盛大な闘争を繰り広げた。

浜口タカシの写真を見れば、昭和とは血と肉体の時代だったのだとわかる。戦前も戦後もそこは一貫している。人間は血と肉体を有し、それを動かし、何かを明確に生産したり破壊することで生きる、暴力的な存在である。暴力性がありふれて溢れているから、問題視して指摘・糾弾するよりもむしろ、その力に負けない暴力性を誰もが身に付けて抗する必要があったのだ。そもそも「国」自体が、最高暴力の機関であって、民は、全力でそれと対峙しなければならなかった。そういうことが分かる写真だ。

もちろん60~70年代の「闘争」が、国民全体の総意、民主的クーデターなどでは全くなかったことは言うまでもない。運動は、時を経るごとに党派性を帯び、先鋭化し、一般庶民は逆に暴力の犠牲にもなった。誰が白昼の丸の内でビルが爆破されてガラス片が降り注いだり自分の乗った飛行機がハイジャックされ北朝鮮やテルアビブへ連れ去られることを歓迎するだろうか?むしろ大衆は羽田だけでは足りなくなった空路の供給を大いに望み、成田空港の開港を歓迎したはずだ。農村と新左翼の結託、親和による戦線の存続は強烈なノスタルジーを感じる。

 

だが試験飛行を妨害する黒煙の中を飛ぶ飛行機は、美しかった。自らを鎖で固定し強制排除に反抗する農民の姿も、分かりやすすぎて美しかった。こうした美しさのために闘争がなされていたのかもしれない、などと狂った錯覚を覚えるほどにそれらは美しい写真だった。プリントや撮影技術の次元の問題ではなく、象徴をいかにして発生させるかということにおいて、安田講堂占拠と放水の構図もそうだが、これらの闘争は一貫していた気さえする。天皇、あるいはアメリカという象徴に匹敵する何かを生じさせようとしていたのだろうか?

それらはやはり血と肉体の成せる業であったと思う。

80年代になり、バブル経済の中で血と身体を浄化・除却し、天皇が代わり、30年間も「平成」という時代を経て、SNSと動画とスマホの「令和」にまで至ると、血や肉体というものを自分が備えていることすら完全に忘れてしまっている。心、傷、トラウマ、毒ガス、Web、関係性、格差と階級、マーケティング、戦略、経済効率性、ウイルス、陰謀、正義、アテンション、AI… 私達には身体も象徴もなく過剰な接続が終わりなく続いている。

浜口タカシの写真は象徴的で、象徴なき時代の私達には、美しく感じられる。その時代の身体にはもう戻ることはない。だから「作品」なのだと思う。

( ◜◡゜)っ 完。