現代美術家・今井祝雄の仕事の幅は広い。
写真もあるよ(たくさん!
写真作品がたくさんあるのだ。
近年は今井祝雄=メディアアーティストとして捉えられる展示機会に恵まれ、例えば直近では今年5~6月に大阪・天満「アートコートギャラリー」にて「今井祝雄の音 − 開廊20周年記念展 Vol. 3」が、9~10月には同会場で「皮膜のうちそと」が展開され、写真・映像・音響などと越境的なメディアアートが紹介された。一方で、2024年は「具体」結成50周年にあたる時節だったため、「具体美術協会の最年少メンバー」として、戦後日本の現代美術・前衛美術の文脈でも大いに紹介・再考されていた。あるいは公共の場に開かれた彫刻や音響などのパブリックアート作品でも知られている。芸術家としての顔が広いのだ。
特に写真については、東京都写真美術館「風景論以後」でも紹介されたように、風景や時間に関する考察の作品が多数あり、シリーズの量と種類は並みの写真家を凌駕する。
なので人によって見えている「今井祝雄」という作家像はまちまちなのではないかと思う。
かくいう私も写真作品の多さとアプローチの理知的さ、時間という領域を直接扱っている面白さから「今井祝雄=写真・時間のメディアアーティスト」という印象がかなり強い。私の通っていた写真の学校(大阪国際メディア図書館・写真表現大学)でも、講師として、写真と現代美術を結ぶワークショップ的な授業でお世話になった。
本展示ではこれら複数領域に跨る活動の経歴を網羅し、作家人生を回顧する構成となっていて、改めて「今井祝雄」の全体像を掴むことができた。
◆構成:時を遡って
展示は順路を追って、「現在」からキャリアの始点へと時を遡っていく構成となっている。
1Fは2020年前後の最新作・現在系として、ビデオテープやカセットテープ、レコード、写真などを使った、まさにメディアアーティストとしての側面が強い。だが1946年生まれ、御年78歳ゆえ、素材や着眼点は90年代的である。
2Fへの階段には《デイリーポートレイト》の層が並び、毎日撮られ続けるセルフポートレートは作家の時の流れそのもので、階段を上るごとに現在・2024年から、制作の開始された1979年へと遡っていく。
2Fでは、2つの展示室で1970→80年代:写真作品メインと、1960→70年代:キャリア最初期の絵画作品とが特集され、間の通路には机を置いて各時代の展示の企画やパンフレット、展評などの関連資料が提示された。
作家人生の時系列と、その時代区分の中で取り組んできた主要な作品を辿っていけるので、実に分かりがよい。
よしこれで分かったと言いたいところだが、そう言えるほど今井祝雄は甘くない。
◆今井祝雄の写真作品
特に写真作品においては、見ただけでは分からない。ただただ連続性の強い写真が並んでいる。
これらは「美」や技術を鑑賞するものではなく、中に指し示されているものを辿ってもあまり得られるものがない。撮る行為、指示対象を含めてメタに言及している部分へ視線を移す必要がある。
写真作品はどれも思考=設定したルールに基づいて、手続き的に写真を試行していき、その中で写し出されたものを提示するというもので、一個の唯一性や物語性を問う/帯びるものではない。情念、精神、私生活、他者との関係性、生と死、美、などといった領分の写真とは真逆の世界観・手法だ。
いわば「写真家」(当時)の写真作品とは区分されていると言ってもいい。写真(写真機・写真家)自体が主体性、主題性を問われるのが写真界側のテーゼであったとするなら、今井祝雄や野村仁、木下佳通代ら現代美術家が手掛ける写真は、「写真」というメカニズム・特性を手段、ツールとして用い、「写真」とは別のものを言及し表現しようとする行為。言わば「写真」をノミや彫刻刀して手に取り、時間や空間や存在・体験という直接見えず直接触れられないものを削り出して、何らかの形を切り出すために用いている。そう考えると話が分かりやすい。
2F「Ⅱ ときのまにまに:1980 ← 70年代」の大部分は写真作品で、今井祝雄の写真によるアプローチ、ならびに70年代現代美術における写真の用いられ方がよくわかる。
《時間の風景/阿部野橋》、《ウォーキング・イベント》シリーズが典型だが、行動ルール × 地理・空間 × 写真行為の掛け合わせによって、徹底的に自意識や私性、身体性など、作者個人に帰属する質を除外した透明な「写真」が撮られる。「作者が」写真を「撮る」、というより「作者の設定したルール・手続きで写真を撮ったらこういう光景が切り出された」が正しく、主語述語の関係が写真家のそれとは異なる。科学的な思考実験、実験映像に近い。
ルールも全く写真家的ではない。《時間の風景》では「赤信号に出会ったらシャッターを切る」、《ウォーキング・イベント》は「居住場所から歩きだし、曲がり角に出会う度にシャッターを切る」(+右折⇒左折を機械的に繰り返して移動する)と、非常に機械的なルールである。これによって、普段意識されていなかった場面を「風景」の像として獲得し提示している。
これが今見て面白いか、意味が分かるかどうかというと微妙なところで、一周回ってコンセプチュアルな作例として普通にありえるぐらいだが、1970年代当時の状況を考えてみよう。写真やビデオカメラといった映像記録媒体がコンパクトかつメジャーになり、カラー現像&サービス判のプリントも一般化し、「風景」の意味が急速に変化していく時代状況(学生運動の終焉、戦後復興から近代化を迎え画一的な都市化が進行、観光・広告による風景の商業化、等)していった時代。何気ない眼前のシーンを切り取って映像化し、改めて見ること自体に意味があったのだ。そもそもの現代美術の動向として、主観や身体性を脱した境地として、「時間」と意識・無意識の関連を測量的に切り出して見せる手法の流行、「もの派」以降の無作為な手法を選好する時代性とも関連があっただろう。
◆時間と存在
時間と存在は今井祝雄にとって、切っても切り離せないテーマだ。
さきに紹介した毎日ポラロイド自撮りの《デイリーポートレイト》、露光時間を1/1000秒~3600秒に伸ばしていくセルフポートレート作品の《時間のポートレート》、同じく1分間の露光で様々な時刻のテレビ画面を写した《タイムコレクション》といった作品では、「時間」の量と質について思考/試行している。
植松奎二や野村仁の作品を想起すると納得がいくが、目に見えないがそこに確かにある物理・科学的な領域へ関心が向かっていた。社会主義的革命を求める運動、サルトル的な実存主義の時代が終わって次へ向かっていたとも言えようか。科学技術の急速な進歩と科学的知識の普及も関係していよう。
ただのセルフィーではない。自撮りは自撮りだが、その手には前日に撮られたセルフポートレート写真が握られている。その写真の中には更に前日に撮られたセルフ写真が・・・と、「今日」には永遠に過去が連続して写り込む。その膨大な列を辿って任意のある地点における「私」(作者)を立ち返ることができ、作品の列はつまりそのまま「時間」の手触りと光景なのである。写真は未来を写すことができないが、「時」の系列・形態の一端を表すことが可能ということを示している。
意識と時間の関連を鋭く試し撮りしたのが《八分の六拍子》だろう。
「KBSレーザリアムセンター」でのパフォーマンス(1976.10/23「映像表現'76」)にて、今井は会場を真っ暗にし、心臓音を流し、同じ速度のメトロノーム音へスライドさせる。音響芸術で終わりかと思いきや、同心円状に座席の広がっているドーム中央から唐突にフラッシュを焚き、シートに座った観客らを激写した。
当時のパンフレットやメモの資料、音、そして写真が展示された。写真にはシートから動くに動けずされるがままに光に暴露された観客らが写っている。通常は球形ドーム内に映像が投影されるので、観客は映画館のようなシートに腰掛けて上を見上げている。それが正面からフラッシュを浴びせられ、まさか自分が「見られる」側になるとは思ってもいない。意識の時間の外側から無防備な姿を撮られた形だ。それがいち早くフラッシュ手法に反応して、防御したりポーズをとる者も写っていて面白い。
意識の内と外、時間の関係は、最初期の作品《白のイヴェント》《白のセレモニー》シリーズから既に触れられているようにも思われた。カンバスに色を塗るという絵画の形態から大きく引き算をし、スピーカーや釘を入れて上から白い布で覆った、膨らみのある白一色の平面/凸面である。絵画の土台を踏まえているので絵画と呼ばざるを得ないが、もはや絵画ではない。
更に、続編では電動モーターが仕込まれ、白いカンバスの凸は規則的な動きを見せるようになる。視覚的要素_内的な物語や視覚の構造を透明化され、代わりに物理的動作を付与された。反復する動き・・・つまり「時間」の原初的なメカニズムを絵画の内部に搭載したことになる。この構図は先述の写真作品と似ている。機械的に反復されるルールによって連続してゆく写真が「時間」を表出させ、そこに人間の意識の片鱗が現れる。
◆そして現在へ
「時」を扱う姿勢は現在も健在である。会場入ってすぐの吹き抜けロビーで、2階の手すりから黒光りするビデオテープの中身がナイアガラのように垂れ下がる《瀑布―ビデオの時代》が非常に印象的かつ象徴的だ。記録が、記憶が剥き出しで流れ出している。
これは今年2月の展示「ビデオテープガーデン」のテープを流用したものと思われる。
向かいの壁には、会話の録音カセットテープの中身を引き出して透明ケースに入れた《音声の庭で》も合わせ技で並んでいる。
磁気テープという記録メディアの物性を前景化させることで、目に見えない記録=過去の「時」を想起させる。黒いテープが「時」を刻んだものだと強く認識してしまうのは、それを傷つけたりするとせっかくのデータが不可逆のダメージを負うと知っているからだ。テープには記録の個人所有の側面が強く、それを記録した「誰か」を後ろ向きに振り返ることにもなる。
そう、近年の作品は個人としての「誰か」を想起させる。これが60~80年代頃の作品には無かったことだ。透明化された、物理法則の断面のような写真やメディア作品から移り変わって、具体的な(少し年老いて見える)「誰か」の個人的な、手元で行われた記録行為と、プライベートな記録内容を思わせる。ビデオテープの背表紙がそうさせたのかもしれない。
展示品の多くの部分を端折ったが、写真、ビデオ・音声テープ、そして絵画や映像を幅広く駆使しながら、時と存在について考察し試行してきたメディアアーティストとしての姿を知ることができた。もっと今井祝雄の写真について考えるべきことは多いように思うが、ひとまずはここまでとします。
あの写真らが指し示す方向には何があるだろうか。
( ´ - ` ) 完。