MoCAだー。世界各地にMoMA的な施設があるということか。台北駅から徒歩3分。ちょっと観ましょうね。
「環世界日誌」と「安全室」という2つの企画展と、「山/市—彼得・庫克(ピーター・クック)個展」の計3展示をやっていた。

- ◆美術館について
- ◆1F_展示「安全室 Safe Room」
- ◇王煜松+地震寫生團《沒有葉子的森林(葉のない森)》
- ◇藤井光《被紅線劃分的班級(あかい線に分けられたクラス)》
- ◇湯雅雯《補綴、夾層與覆蓋(パッチワーク、レイヤー、オーバーレイ)》
- ◇劉芳一《碉堡(バンカー)》
- ◇張宸瑋《Volkswagen Transporter T5.gltf》
- ◇張程鈞 feat. 台灣通勤第一品牌 張家倫、何勁旻《Nice to See You》
- ◆2F_展示「環世界日誌」
- ◇王懷遠《草履人生》
- ◇羅晟文《伸縮耳(引き込み式耳)》
- ◇羅伃君《三隻小豬》
- ◇王永安+膚感物種《皮膚考:P300膚感方舟》
- ◇詹宏祿《與內在異星相遇(内なる異星人との遭遇)》
- ◇詹宏祿《異星檔案室(エイリアン・アーカイブ)》
- ◇葉采薇《世界》、《關係群像》
- ◇提摩西.托瑪森《好手氣(幸運を)》
- ◇姚睿蘭《分子祖母》
- ◇李宸安《萋萋(豊かな)》
- ◇王懷遠《可愛動物主義(かわいい動物主義)》
- ◆山/市—彼得・庫克(ピーター・クック)個展
日本・大阪もたいがい暑いが台湾はやはり予想通り暑くて、旅行カバン背負って歩いてると死にそうになる。休憩もかねて美術館をしましょう。
◆美術館について
煉瓦作りの2階構造。
もっとデカくて現代的な新しい建物を想像していたが、それは中国の美術館だったかもしれない。今まで台湾、いや海外について注目したことがなかったので記憶が曖昧だ。

建物は1919年、日本統治時代に建成小学校として建てられた。戦後、台北市庁舎として使われ、庁舎移転後2001年に美術館へ。また建物は台北市立建成国民中学と共用している。
2つも展示やってて、閉館までに見終えられるか不安だったが、館の規模がそれほど大きくなかったのと、解説文が翻訳アプリを通さないと意味不明&漢字だらけの作家名を入力してられず、考察しながらX(Twitter)投稿する余裕がなく、かえって短時間で見終えることができた。
構造は日本と同じ。入ってすぐ受付カウンターに立ち寄り、チケ購入。
手荷物はカウンターで預かってくれた。日本語で「あっ、さっきの出して」て言うたらやってくれた。
カウンターと物販コーナーは同室で、鑑賞後に見て回った。図録や出展作家の関連資料が売っている。が、なんせ中国語で書かれていて全く手が出せない。
おしゃれグッズ、キーホルダー等の小物類もいいセンスしてて、それも日本の美術館と同じ。しかしどうも食指を動かされない。自分の求める方向性と微妙に違うんすかね。その点も日本と同じ。なんなら日本人作家の可愛いキャラグッズが売ってた。


◆1F_展示「安全室 Safe Room」
災害や戦争、個人的危機、社会関係が絡み合う中で、分断されてゆく私達を一時的に脅威から守ってくれる隠れ場所、「どこか別の場所」を考察する。それは同時に災害それ自体を想像することでもある。
といったことが日本語訳で出てきた。まじで何もわからず飛び込んでるので鑑賞もゆるゆるです。
◇王煜松+地震寫生團《沒有葉子的森林(葉のない森)》


まさに2024年4月3日発生の台湾花蓮地震が題材となっている。大量の流木が展示室の外の壁を埋めていて、下流・河口に流れ着いた流木の惨状を想起させる。展示室内は葉も枝もない樹の幹が立っていて、川の上流域で森林が失われたことを物語る。
映像では、作者と地震スケッチグループが現地で流木をイーゼルに加工し、状況をスケッチする様子が記録されている。

◇藤井光《被紅線劃分的班級(あかい線に分けられたクラス)》

この美術館で観た唯一の日本人作家。内容は非常に攻めていて、小学校のクラス内で授業の一環として、あくまで実験的にではあるが、教師の指示によって意図的に分断を作り出すというもの。生徒の住所が赤い線から内か、外かで、つまり生徒らにとっては不可避でどうにもならない次元で線引きが決定される。しかも差別的区別がセットになっていて、線の外か、内かで、えらい・えらくない、権利がある・ないが上から強制的に決められる。
本作は2011年の福島第一原子力発電所事故から10年目となる2021年、水戸芸術館現代美術ギャラリーでの展示『3.11とアーティスト:10年目の想像』に出品された。
赤い円形の線は、当時の避難指示区域の設定を模している。
福島県から遠く離れた所に住む身には、中心地からの距離によってなされる線引きと避難は安全確保の意味しか見えていなかった。だが実際には人権の制限が掛けられていたのだ。権利の多寡は相対的なものだ。線の内か、外か。遊び時間や遊具などの権利を明け渡すよう指示される時の生徒の顔がこちらの心をえぐる。些細な力の勾配だから余計にきつい。



映像は「この全てが演出であり、シナリオによって進行している」ことをメタに明らかにしながら進行する。戦略的である。最後まで徹底していて、「大事なことを学びましたか?」「楽しかったですか?」の教師の問い掛けへの回答を、やり直している。
ここの基本的なところは想像以上に揺さぶられやすく、感情的な要素を付け加えると、積極的な差別や人権制限を「すべき」という民意のクラスターが容易に生じる。そこを意図的に揺さぶるテクノロジーに歯止めが効いていないのが、現在進行形の社会状況でもある。気付きの多い、良い作品だった。
◇湯雅雯《補綴、夾層與覆蓋(パッチワーク、レイヤー、オーバーレイ)》


何もない部屋の床にひび割れ。溝。補修跡。これは路上観察、フィールドをそのまま展示空間で展開している。
オランダと台湾の都市観察を行う中で作られたという。
路上は幾重にも補修されて、ひび割れは埋められ、また劣化によってヒビが走り、また上から補修がなされる。建物の配管の具合かと思っていたが、水が流れる音も作品の一部で、この地面の下に水道管が走っていることを表していた。
この建物のマジな劣化・補修の歴史やサイクルともリンクして、「作品」として切り離して鑑賞し難くなる=インスタレーションという区別視がし難くなりどこをどう作品として見たらよいのか曖昧になる点が面白かった。

◇劉芳一《碉堡(バンカー)》



バンカー、防空壕や地下壕など、攻撃から身を守るための設備・空間だが、鑑賞時は全く分からなかった(翻訳アプリを通して概念的な言葉の羅列を読むのが限界になっていた)。部屋は白いパネルで覆われていて、中央に穴の開いた枕のようなものが積んである。正面のパネル1枚の中央にドアスコープが取り付けられ、外部との接点は僅か、その一点のみ。
殺伐とした都市生活者の心理の内側、生態の実情を体現したものと感じられた。誰とも繋がっていない、ただ生きているだけ、油断ならず、疲れていて、豊かさという概念もない・・・。
ステートメントは予想外にソリッドな現状認識と批判がなされている。本作は、メディアを通して災害を遠くから観察している私達の状況を示しているという。壁パネルの素材である発泡スチロールは外世界への接続として重要で、まず第二次大戦中の防空壕だった鼓山洞のトンネル壁を覆うために使われ、またウクライナの都市ドニプロではロシア侵攻に抗するため、発泡スチロールを粉砕してガソリンで固めて火炎瓶を作っていたという。
◇張宸瑋《Volkswagen Transporter T5.gltf》


gltfは3Dモデル・シーンを格納するフォーマットで、要はjpegの3D版だ。焼けただれたフォルクスワーゲンは、正面はふっくらとしているが、回り込んでみると極端に細くなっていて体半分で切れ落ちている。ボディが喪失している、現実のようにリアルな汚れや傷でありながらフカフカの素材からできていて現実感がない。
これはウクライナ戦争で損傷した車両の画像をオンライン上で得、3D化したもので、遥か遠くの戦場=他人事と、メディア、インターネットによってすぐ手元に無尽蔵に流れ込んでくる映像体験=私的な圏内という2つの距離感を表している。SNSで流れくる画像・映像、その受容体験は、どこまでいっても平面データであるから、物理的にも情報面でも360度を満たすものにはなり得ない。
そしてこの作品自体が写真映えするフォルムとサイズ感、質感をしていることも効果的に、作品テーマを自己反復させている。現実とデータ、情報と現地。追いかけても追いかけてもまるで自分を食うように同語反復が続く、フォルクスワーゲンの痩せた後方部はウロボロスの尾だ。これは優れた作品だった。
◇張程鈞 feat. 台灣通勤第一品牌 張家倫、何勁旻《Nice to See You》


なんのこっちゃ分からなかった。PC、ヘッドホン、収録マイク、そして机上で向かい合う人間のようにU字のホースがマイクに口を当てている、、、 音を聴いても分かるわけがないのであまり(ちゃんと観てない
ステートメントによると、ホースは使用済みの消防ホースで、それはかつて建物の中に埋め込まれつつ我々の生活を守ってくれていたが、使用済みになったことでU字に曲げてその両端に疑似的(擬人的)に会話をさせている、観客はその会話内容をヘッドホンから聴くことができ、プレッシャーや危機に満ちた生活の緊張感を解き放つのだという。
◆2F_展示「環世界日誌」
階段~2Fからはもう一つの展示「環世界日誌」となる。
「環世界」とは、全ての生物種が持っている、それぞれの種に特有の時間・空間の知覚によって構成された世界を指す。ミツバチ(紫外線)とコウモリ(超音波)とサメ(嗅覚、電気刺激)と人間の知覚方法、それによって把握される世界はそれぞれに異なる。この無数の世界の存在を認めることが多様性の共存可能性ではないか・・・と。
本展示は台北當代藝術館が2025年に開催する「ヤングアートプロジェクト」の一つとのこと。
もういよいよ翻訳して読解して作品と照らし合わせるのがキツすぎて、相当いいかげんになっていることをおゆるしください。海外のアートイベントに飛んで現地レポしてるライターや評論家ってほんとすごいな体力どうなってんの(泣いてる
◇王懷遠《草履人生》


階段の壁に投影された映像、何か小さいプランクトンが動いている。
科学者たちが顕微鏡下で撮影したゾウリムシは、アーティストによって再構成され、一連の誇張されたプロットを演じるように描き直され、不条理な状況における人間とゾウリムシの間の暗黙の理解のジレンマを反映しています。
わかるか(´・_・`)
ジレンマかよ・・・。ぴこぴこしてるのはわかった。
◇羅晟文《伸縮耳(引き込み式耳)》

部屋の四面に動画、手描きメモ、TVモニター、可視化された波長。「自分がうっかり他の種に影響を与える超音波ノイズを生み出しているのではないか?」という問い掛けから、超音波ノイズを可聴域へ変換するデバイスを制作し、1カ月間・24時間ずっと装着して「気が狂うかどうかを確認した」作品。
メモは実験中に見た奇妙な夢の記録日記となっている。
もはやアートというより科学実験だが、着想をストレートに実験に結び付け、夢という主観的な体験を一つの世界の可能性として(主体側にとっての意識変容としても、自分以外の生物種が蒙る影響の可能性としても)提示している点でアート的だ。
日記のどこからが事実の部分と夢の部分か分からなかったりするので不確かだが、「教室で父が亡くなってとても悲しかった」「友人は面白い人で、ゲイの人は背骨が独特だと聞いた時『その男は脊柱に骨が1つしかないのか?』『骨が1つしかないのに、どうやって回転したりできるの?』と私に訊くので、目が覚めるまで何度も笑った」等と書いている。ちゃんと読んだら面白かったかもしれない。

◇羅伃君《三隻小豬》
聖なる豚、食用豚、ペット豚の3種類の豚が並ぶ。スマホ撮りされた映像が進むにつれて早々に、明確に彼らの人生(豚生)は分岐する。同じ動物種でありながら、生前から与えられた役割に基づいて完璧に、交わることのない世界線を生きることになる。知覚的身体的「環世界」と別の次元でそれは刻み込まれている。
映像のダイナミクスさは食用豚のカットによって支えられている。工業的に彼は処理されて肉へ加工され、ヒトに食されて排泄されるところまできっちりと記録されている。物質レベルで幾度も境界を超えてゆくのは食用豚ならではだ。であれば宗教用の聖豚であれば信仰世界に供する神獣として祭壇に上がっている、ペット豚であればヒトとの関係性において生態が規定されていてそれ以外(=獣、肉)にはなりえずこれも豚からかけ離れている。人間の職業、階級を見ているのと同じではないか、これは。



◇王永安+膚感物種《皮膚考:P300膚感方舟》
∴ 見てない。
クッションに寝転がって何かデバイスの映像を見る?ようで、先客がまったりしていたし暗い場内に他の人もいたので、鑑賞できずにスルーしたのだった。
ステートメントによれば、SF物語として種の「死の過程」を探求する作品で、ドキュメンタリーとフィクションの両方の性質を持つ。
「物語構成は、アーティストが提唱する触覚的な記録・コミュニケーション手法『マインド・スキン・スペクトラム』を基盤としています。これは、生物生理学と心
理学の感覚的痕跡を捉え、集合的な経験を触覚的な風景へと変容させる手法です。」


◇詹宏祿《與內在異星相遇(内なる異星人との遭遇)》

異星人・異邦人(エイリアン)を我々は作り出してきたが、科学技術の進展によってもその創造力・想像力は衰えるどころか進化し続けている。
「ガイド付き瞑想、AIニューラルネットワーク、認知神経科学を通してこの現象を探求し、私たちが内省を通して『他者』をどのように視覚化し、異世界への想像力を広げていくのかを明らかにします。」
観客が参加できるのはタブレットでの画像生成AIへの入力だ。自分が「インナーエイリアン」と思うプロンプトを入力し、画像を上げる。観客がアップロードした画像は、他の参加者のものと続けて壁面に表示されるようになる。集合知化していくわけだ。さすがに来場者の想像をfMRIで撮るわけにはいかないが、今後、放射線系モダリティがより安価で小型化し、なおかつ脳機能・器質面と心理状況の紐づけが進むと、もはやプロンプト抜きに個々人のインナーエイリアンが推定され他者間で接続されるようになるかもしれない。



猫ですよ・・・エイリアンも隣人も家族も全て・・・猫なんですよ・・・。
エイリアンの話は、部屋を出た廊下の壁にも、次の展示として続いていく。
◇詹宏祿《異星檔案室(エイリアン・アーカイブ)》

やばい字がめちゃくちゃ多い。
さっきの作品と同じ作者。資料が全開で唸ってて楽しそうでまさに資料の祭典なのだがこれ全部中国語なんや。翻訳後の日本語は日本語じゃないのできつい。資料や蔵書は作家の個人的なコレクションですって。エイリアン漬物。
この壁面全体の資料が公開されているのでリンクを共有しましょうね。ただし文字と画像の大きさが大小差すごすぎてデスクトップPCでも読むのに難儀します。
基本的には《與內在異星相遇(内なる異星人との遭遇)》と同様に、科学、想像力、SFのような文化の交錯によってエイリアンの存在が育まれてきたことを語るものだ。
「あなたの内なる宇宙、エイリアンの乗り物、エイリアンの存在、エイリアンの風景をどのように表現しますか?」
ワークショップ参加者らは瞑想を通じて自己の内なるインナー・エイリアンの存在を追う。地球外生命体は心の中から来訪しているわけだ。


◇葉采薇《世界》、《關係群像》
柔らかい絵の作品が来てなごむ。水色の大きな絵画が《世界》、それ以外の小さな絵9点が《關係群像》だ。ふんわりしたタッチの動物の絵、それ以上のことは分からなかったが、《世界》はタロットカードの「世界」をモチーフにしており、ペットの扱い方に関するよくある誤解を示しているという。猫にミルク、ウサギに人参、小鳥の足に紐、こうした行為は典型的なペットの扱い方に見えるが、ペットと人の関係は相互依存的、つまり経緯や適切な距離が必要である、と。
犬にブドウあげたら死にますよ。これだけ異質やな。


《關係群像》では動物だけが登場していて寓話的だが、プロジェクトに関わった家族や友人、同僚、美術館職員へのインタビューに基づき、動物の比喩を用いて精神疾患を持つ人々との交流を物語化しているという。交流の中で経験する感情的な繋がり、試練、挫折、憧れなどが描かれていると。
だめだわからん。これはもう少し個別の絵に説明がほしい。犬と猫が身を寄せ合う、その後ろに二人を覆うように大きな猫の影が浮かんでいるのは、なんとなく不穏な感じがするから、そうかなと思うが、精神疾患… うーん難しい。


◇提摩西.托瑪森《好手氣(幸運を)》
広大な草原と岩、奥行きの深い空、深く感情を掻き立てる夜寸前の夕暮れの中で、唐突に/自然に人々が立っていて、カメラワークの中に照らし出されてゆく。だが足元の草原は不自然に全体が一つの装置のようにうねって揺れていて、植物とカーペットの間のような気持ち悪さがあり、人々はまさに写真に過ぎず直立して静止しており、BGMとともに鳥の鳴き声のようなシャッター音がずっと鳴っている。
ここが完全に作られた世界で、しかも物理ではなく純粋に写真から立ち上げられた非実在の世界だと分かる。
人々はGoogleストリートビューから収集された画像で、元のポーズのままこの3D世界に投じられている。ストビュ撮影車によって撮られていたことも、ストビュ内に掲示されていたことも、そしてこの作品世界に召喚されたことも、当の本人は知る由もない。リアルの本人とはかけ離れたところで、その個人を象るデータは収集先のサーバ内で 独り歩きしている。この世の歴史や文化とかけ離れた電子的空間にて虚ろに立ち尽くしている・・・本作はそうした状況をダイナミックに、かつエモーショナルに体現している。
さらに言えばこれは写真の行き着く先の世界でもある。写真は、3Dモデル化のための設計図となり資材となり肉となる。足らずは生成される。演算式によって接合された膨大な写真――生成画像も含めたそれらは、計算式の見る夢である真空の空間で生き続ける。写真は、自分が1枚の写真であったことを忘れ、捨て去り、継ぎ目すら失った集合対して連動し、混載され、新たな世界で生きていくのだろうか。



◇姚睿蘭《分子祖母》
水墨画と大型映像という、一件無関係に見える組み合わせで、ステートメントを確認する余裕もなかったのでほぼスルーしていた。改めて読むと遺伝子の記憶、実験動物の記憶を医療材料を通じてがん治療に利用できないか?という問いから作られていた。作者の母親が肺腺癌と診断されたのだ。
がんの多くは遺伝子変異によって引き起こされ、そしてがんの種類によっては環境要因よりも遺伝的要因が大きなウェイトを占める。
「腫瘍は時空の合流点のようなものです。環境カルマが臨界点まで蓄積され、遺伝子変異を引き起こすと、人間は臨床データベースの標本となり、実験用マウスのようにそれぞれに番号と使命が割り当てられます。彼らは人新世の地域的な兆候を肉体に宿し、輪廻転生の川の錨となります。」
水墨画が表すのは、母親の語る、化学療法中の夢の中での転生・流転的な物語なのだろうか。遺伝子に刻まれているであろう、自分よりずっと以前からの記憶の流れのことだろうか。



◇李宸安《萋萋(豊かな)》
メカニカルなオートメーション化された農場を思わせる。水と酸素と光があれば植物は成長する。だがこの機構は単純ではなく計器が何か細かな設定を示し、光はランダムに変動し、動的な相互作用をもたらしているという。動物に対して植物は静的な存在で、動きのない石のようなものと例えられるが、実際は複雑な環境の変化によって入出力を絶えず行っている。この機構は植物の外側に付随する装置ではなく、植物の生態・体の一部を可視化したものと言えよう。私達は植物の知覚と行動を想像できるか?



◇王懷遠《可愛動物主義(かわいい動物主義)》
最後の作品で、人間の知覚と認識に帰ってきた。動植物には様々な環世界がありました。では私達は動植物をどう認識しているのか。全ては幼少期のイメージが決定する。物語化、キャラ化、アイコン化…によってそれぞれの姿形と役回りが決められている。ゴキブリとクワガタにそれほど大きな違いがあるだろうか?
本作は動物らを全て「可愛い」へ強引なまでに転換する。対象は、レッドリスト(絶滅リスクの危惧される種)に掲載されている、あまり馴染みのない動物たちだ。コウモリだろうがナナフシだろうが全部可愛くなる。パーツ全てに丸みをつけて手足と頭をバランスよく配置して、目を黒丸で口を棒線にすれば、「可愛い」。
慣れ親しむという意味では効果的で、とうに成人した私ですら好ましく感じる。だが、逆に人間はどこまでも未成熟で幼稚な知覚を根強く引き摺っているということになるのか。対象を捕食したり忌避したりする絶対的必然性が欠けているからだ。生理的な快と不快だけが認識の決定打となっている。


◆山/市—彼得・庫克(ピーター・クック)個展
疲れすぎて展示の境目がよくわかっていなかったが、「環世界日誌」は2Fで終わり、1Fに下りてきてフロアぶち抜きで展開されていたデジタル南国の立体地図めいた展示は、別枠の個展だった。緑色で地形、自然が豊富に描かれていたので「環世界日誌」との連続性を感じていたのだ。
ピーター・クックは建築家である。本作は台湾の東西に対する考察を示している。東側は神秘的な山々と忘れ去られた沿岸地域、内陸部の湖と、地震によって生じた深い亀裂を有する。西側は台湾新幹線が貫いている通り都市が連鎖している。この対照的な相貌を空間の左右に展開し、観客は中央を通り抜けていく。緻密な作業の積み重ねで出来ているからこれは日本人が好きなやつだと思う、妙にデジタルみがあるのは何故だろうか?線描の黒とか色の塗分けが液晶画面越しに見る図形と似ているからか?まだ私が台湾に入り込めていないためか。



もうちょっと「台湾」を理解してから見たら面白かっただろうな。初日も初日で何もわかりませんねん。ええと。
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面白かったですね。いつものしっかり読解スタイルからすれば「ざっと下見」レベルの鑑賞だし、まあ現代アートってだいたいどこでも同じ視点で同じものの言い方するよねっていうことで、西欧世界、ドルや英語と同じものとしてアートがあるんだと理解しました。

2階の窓にフィルムでも貼ってあるのか、外の景色が異様な夕暮れのように変色していて、たいへんファンタスティックだった。超南国の光景に痺れた。
街歩きに戻りましょうか( ◜◡゜)っ
※茶を飲むなどの休憩をしていない ※疲れた