nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R5.9/16-11/26 百々俊二「よい旅を 1968-2023」@奈良市写真美術館

大阪ミナミの超がつく下町・新世界の色濃い表情を撮り、1972年には伝説の写真同人誌「地平」を黒沼康一らとともに発刊した、関西写真界の代表者の一人、百々俊二。55年に及ぶ写真家人生を振り返る展示である。

 

長く濃密な旅である。

どこへ向かう旅だったのか。思うに作者は、自己に閉じて何も考えずに安住できる場から逃れ出て、外の状況(情況)へと身を置き続ける旅をしてきた。向かう先は、その場・その土地に生きる人々の状況、生活の現場である。

政治や体制の強い力に護られた人々ではなく、自らの生活の力そのものによって生きる場を形成している人々の中へ、暮らしの場へと身を置いて写真活動を行ってきた。そのように感じた。

これまで百々俊二の作品は大きく3つに分かれているという印象があった。荒々しく写真の行為性が先行する初期作品。都市の下町のスナップと記録。都市から遠く距離のある地方・自然の中での暮らし。

特に90年代以降の8×10の大判カメラを用いた大阪、紀伊半島日本海での記録的な眼差しは、それぞれの土地を力強くどっしりと受け容れる姿勢であるがゆえに、それ以前の攻めの写真行為としてのスナップと結び付かず、自分の中で「百々俊二」という写真家が別に2人、3人いるようなイメージだった。90年代あたりで、特に紀伊半島のシリーズによって一定の評価が定まったことで、関西の土着的な写真家とレジェンド的な存在という分裂した印象が生じたのだと思う。

 

それがこの展示で、一人の人物として繋がった。

 

展示は最初期の作品:1968年1月、佐世保原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争に立ち会った19歳の地点から始まり、その後の写真家人生の「旅」を駆け抜けてゆく。序盤のモノクロ写真の荒々しさは終盤の紀伊半島のカラー作品とは似ても似つかない。1970年前後の、体制に抵抗する学生運動の状況、米軍基地を擁する街の表情。過剰なまでにモノクロの粒子を強調されたロンドンや妻の姿。そこには1972年に黒沼康一らとともに写真同人誌「地平」を発刊した、時代を挑発する姿勢がある。

 

それは、取り立てて何でもない無名の人やモノの姿・風景から、無名の、匿名の風景としての力を駆り立てて、政治化・経済化され統治されたイメージから脱した場を現わそう、ということではないだろうか。

 

1980年代の大阪の下町・新世界の人物スナップ、そして2000年代・大阪の各所での大判カメラによる記録は、これら初期作品から続けて観ていくことで、すんなりと繋がって見えた。基地に隣接する岩国、米国統治下の沖縄の街は、公と私、他者と私、道路と店と家とが混線した大阪の新世界と、同じ力量で釣り合い、繋がるのだった。地理的にも歴史的背景も全く異なる地だが、そこに生きている人の姿、生活の場が濃厚に写され、生活が息づいている点が共通していた。

最初期の作品は、学生運動・革命の当事者とその現場を暴動として、あるいは警察を暴力として明確に判定し非難・批判するような分かりやすい写真ではない。抗うものと、それらに更に抗するものとが混然一体となっている。

実はそうした「公」と「私」の領域が混ざり合った様相を見せるのが、大阪、新世界でありバンコクであった。現場に生きる生活者とその営みの存在が「写真」を刻む。スナップと風景の記録写真とが混ざり合ったような雑多さ、どちらとも分けられないようなミクスチャー的な写真である。「公」によって典型のもの、類型化された人や風景ではなく、また写真表現でもない。

 

「日本列島を<裏>返す」も、「公」によって扱われることから脱した、類型として扱われざる地域と人々を巡る写真群である。

8×10大判カメラ作品シリーズとして、「楽土紀伊半島(1991-1995)、「大阪」(2007-2010)、そしてラストが日本海(2011-2013)という3部作構想になっており、日本海沿岸の風土と人々を撮ることは以前から決めていたという。

日本地図をひっくり返すと日本海は大きな湖のようになる――日本海沿岸は、かつて大陸からの文化が入ってくる表玄関だった」と、対岸の中国大陸・朝鮮半島との地理関係と歴史から日本海を顧み、その風土と人々を巡る旅をする。

 

2011年、「3.11」・東日本大震災が起きた。が、その後も作者は被災地・東北、福島に行くのではなく、あくまで当初の構想通り逆側の日本海へ向かい、3年かけて北海道から山陰にかけて撮影を行った。

誰もがこぞって東北の被災地、福島の原発事故に向かう中、いわば被災地ラッシュが最も盛り上がったであろう3年間に逆側の日本海沿岸を撮り続けたのには、文化と歴史の探求と記録への使命感というだけでは足りない、もっと深く生理的ですらある動機を感じてしまう。初期作品から一貫して作者に流れているスタンス。それは、他の写真家やメジャーな勢力が目を向けない場と人にこそ状況を感じて向かっていく、見えざる現場を見い出すスタンスである。ずっと大阪、関西をベースとする写真家であり続けたこともそれを裏付けている。

 

そして展示は、「楽土紀伊半島」「千年楽土」の紀伊半島シリーズでクライマックスを迎える。以前は、単に自然と歴史の豊かな地方の集落を克明に記録した作品、という表層的な理解に留まっていた。

だがこれまでの作品を続けて見てきたことで、実は、大阪の下町・都市部の生活感溢れる白黒写真と、対極的に山深い紀伊半島の自然と現地の人々をしかと捉えた大判カメラ写真とは、生活の息吹、暮らしの現場としての強い力を放っている点で共通していた。それも、メジャーな目に晒されていない、大きな力で類型化されていない存在・場として。

 

紀伊半島はとても大きくて山深い。和歌山県だけでなく奈良県の深部も食い込んでいる。当然ながら吉野、大峰山系の修験道熊野古道という地理や歴史の文脈だけでは語れない。無名の場所、何の変哲もない土地にも集落があり、人々が住んでいて、自然と折り合ってきた歴史があり、祭りがある。そのタフな表情を、暮らしの場の力を写し込んだシリーズだ。そこには作者の私的な物語や、大文字の歴史、観光・広告的な賞賛はない。土地に生きる生活者と地元との関係が1枚1枚に凝縮されている。

大判カメラ写真ならではの独自性が活かされていて、スナップやロードムービー的な撮り手の動き・移動を現わすものではなく、風景写真でもなく、人物写真にしては風景もかなり写り込んでおり、しかし記録撮影というにはスナップ的な自由さと偶然性もある。新世界や大阪の写真と同様、ジャンル的に未分化というか、ジャンル分けのラベリングを拒むミクスチャー的な写真でもあったのだ。

 

ラベルによる統治、格付けや位置付けにまつろわぬ生活者らの存在感と、生活の場の状況を撮り続けた写真家。そのような理解をした。正しいかどうかは置いておいて、それまでのラベル貼りによって分断されていた「百々俊二」像が自分の中で解放され、一つになったのは確かだった。

 

撮影可だったので、各シリーズについてもメモを残そう。

 

 

◇「福岡 1969.10.27 九州大学教養部 バリケード・機動隊突入」「佐世保 1968.1.17-21 原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争」

最初期の作品。プリントを紙に貼り付けた状態で展示している。嫌な予感がしたが、やはりネガを全て焼いてしまっていて、アルバムに貼りつけたこれらの写真しか残されていないという。

なんでネガを・・・。。出版社にプリント納品してたとかならまだ分かるけど(昔のカメラマンの感覚としては、写真が印刷物に掲載されたらそれでフィニッシュだったらしい)、当時、「自分のやってる写真がだんだんいやになってきて」ネガを全部焼いたとか。

 

これら学生時代・学生運動を始めとして、生まれ生い立ちの話から70年代後半までの活動については写真集「遥かなる地平 1968-1977」(赤々舎)にインタビューで掲載されており必見。が、どのサイトも売り切れである。厳しい(><)

www.akaaka.com

 

妻を撮った「Silkness 節子 1970」シリーズは点数こそ少ないものの、初期・百々俊二の写真の行為性が力強く出ていて参考になる。粒子の粗さが凄い。これが妻・・・妻とは。。当時「PROVOKE」(1968)がもたらしたであろう衝動や空気への応答を感じる。

 

 

◇「沖縄 1969.7」「岩国 1969-1971」

1969年7月、1972年5月に日本に返還される前の沖縄と、1970年前後の岩国の街中スナップ。どちらも米軍基地を擁する街である。いや米軍基地に擁された街か。どちらも地理的には日本ではあるが、実体としてはアメリカだ。日本の街が内側からアメリカへと塗り替えられたというか。

これらも行為性が強く、アメリカ的な状況の内側に身体を沈め、溶け込ませるように速やかに撮られたスナップだ。非難や告発ではなく、写真というものを街と人々に擦り合わせて発火させるようなスナップ、まさに「擦過」的だ。

 

 

◇「新世界むかしも今も 1980-1985」「〃 1983-1985」

私は大阪府民なので実感するが、「新世界むかしも今も」は名作である。大阪の消えゆく姿=現実を、歴史的なものとして継承するにあたって参照されていくべきと思う。

新世界はぎりぎり西成あいりん地区などドヤ街の外に位置するが、極めて地元の生活の色濃い場所であったのは確かだ。子供の頃、昭和後期~平成初期あたりはまだ天王寺駅~動物園一帯には「路上が家」の状態で、写真どころではなく怖い場所であり、その先の新世界や釜ヶ崎は想像がつかなかった。

それが2000年代以降、強烈な浄化が押し寄せている。観光地化は止まるところを知らず、令和の今も更に観光地化が進んでいる。住民と街の高齢化=弱体化に伴って、民間的経営手法、維新的行政経営のメスが最大限に振るわれている現場である。過去の日常ほど脆く儚いものはない。歴史は勝者が自分のために書き換えて語るだろう。クレンジングされていく中で、この街が実際誰のものだったのか、本作は何よりも雄弁に物語る。

 

 

 

 

◇「大阪 2007-2010」

時代がぐっと下って2000年代の「大阪」の街、大判カメラで記録した写真だが、型にガチッと矩形に嵌めずにスナップの身体感覚も感じる。

このぐらいの時代差だと、今も変わらない光景が多いが、人間は確実に切り替わっている。風貌や服装、世代が現在と異なるのだ。コロナ禍で個人店舗も多く廃業し、街の光景はまた一段と変わってゆくだろう。

街から私生活が失われるのはいつか。では街とは誰に帰属するのか。大阪にいたのは実際誰だったのかを語っている。

 

 

 

◇「バンコク 空火照の街 1984-1992/2014-2019」

会場のステートメントでは、1983年・36歳の頃にバンコクを訪れた時の記憶と、30数年後の2016年・69歳に妻と二人で訪れた際のことを対比している。多くの人がスマホをいじり、高層ビルが乱立する街となって、地平線は消えたようだ。大阪と同様に生活感は失われてゆく。だがバンコクでは路上にまだ生活があり、作者はポートレイトを撮った・・・。

 

 

◇「菜園」

自家菜園で採った野菜などのシリーズ。「Polaroid T-55 4×5」というモノクロプリントとネガをどちらも作れるポラロイドで作成されている。野菜の既成品にはない自由で歪な形状や、畑で朽ちてゆく様、そしてポラロイドの不安定さに着目している。

モノの形状と配置のフレーミングに着目した作品は珍しい。生活のあらゆる場面で写真行為を行っていることが伺えた。

 

 

◇「日本海 2011-2014」

前述のとおり2011~2013年、北海道から山陰にかけての日本海沿岸を撮った作品である。8×10大判カメラでのシリーズと思えない軽やかな描写で。特に人物を写しているカットはスナップ的だ。日本海側の海の荒々しさ、風の冷たさと強さが伝わってくる。

日本海の風土の中で暮らす人々、スポットライトが当てられることのない、しかし広大なエリアに住む人々が主役として登場する。そして海を挟んで向こう側の岸には原子力発電所が佇んでいる。「3.11」の悲劇と脅威は東京、福島、三陸の裏側でも他人事ではなく、日本列島の何処もが現場・当事者でありうるということや、関西もまた東京と同じように列島の裏側にそれらのリスクを引き受けてもらっている事実を示唆する。

 

 

 

 

◇「楽土紀伊半島 1995-2023」

紀伊半島シリーズを単体で見ていた時には、地方の風土や暮らし、豊かな自然を記録した高尚な写真(文化的価値が高い、写真史上の位置づけ、etc)として、私の中で格調高く、変に敷居の高いものとなってしまっていた。

が、初期の学生運動や基地の街、新世界のおっちゃんなど「地の民の暮らし」、その生命力がベースにあると知ると、これらの写真の意味がまた変わった。

紀伊半島の奥地は年々道路の改良などでアクセスが良くなり便利になっているが、大雪、豪雨や地震での土砂崩れなどで容易にアクセスが断たれ、長期間に亘って孤立化しうる、厳しい土地である。登山のためにしばしば訪れるが、よくこんな離れたところに集落があるものだと驚かされることも多い。廃墟や廃村も散見される。その生活の実態、年間の暮らし、これまでの数十年の暮らしについてはよく分かっていなかった。だがそこには自然との長い駆け引きの中で根を張った「暮らし」があるのだと知った。

 

本作は、全ての「地方」の「暮らし」の現場にありうべき力を示すとともに、関西における巨大なローカル地域である紀伊半島、奈良・和歌山の山奥の存在感を示すものでもある。東京など中心地から、あるいは他の地方からは存在の見えづらいエリアにおいて、タフな人々の暮らしがあることを示すのだ。大阪や新世界などと共に。

 

 

 

( ´- `)完。