写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生・TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】R2.11/15(日)「妹尾豊孝写真展」@入江泰吉記念奈良市写真美術館

妹尾豊孝(せのお・ゆたか)、関西・大阪の写真(史)において欠かすことのできない写真家であるが、少し前の世代でもあり、今こうしてまとまった形で展示を観ることが出来たのはとても有難かった。

展示は「大阪環状線 海まわり」と「5,000,000歩の京都」の2つの写真集より構成され、80~90年代の大阪と京都、街の中に生きる人々の姿を再発見できる。

 

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【会期】2020.8/29(土)~11/15(日)

 

会場は撮影禁止のため、簡単に概要だけ。

 

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妹尾豊孝が写真家となったのは40歳を越えてからで、大阪写真専門学校(現・大阪ビジュアルアーツ専門学校)に入り、大阪に生きる人物たちをスナップで活写してきた。他の芸術・表現分野と異なり、写真作家を始めたり続けてゆくのに、年齢なんて関係ないのだということで、それだけでも勇気づけられる。

 

最初の写真集大阪環状線 海まわり』(1993年、マリア書房)が今回の展示の第一部である。

 

撮影の舞台は80~90年代の大阪で、大阪環状線の西側:大阪湾側に位置する福島区此花区、港区、大正区などと、淀川や安治川などが流れるエリアを歩いて撮り溜めている。東京の山手線と違って、大阪環状線の駅の多くは下町、庶民の生活の場を通っており、特に環の西側は降りる用事もないし、何があるかも知らないだろう。だから作中の景色も、同じ大阪なのに知っているようで知らない場所が多い。

作品はスナップなのだが、瞬間の構図の美というより、そこに居合わせた人々や町の表情に向き合うことに重点が置かれている。人物の顔、全身の表情が豊かだ、パンチパーマの男性、皆おなじような髪型の子供の姿は、古い漫画のキャラのように没個性的な個性があって滑稽さが滲み出ている。

 

展示を観て、この写真集が欲しいと思ったのだが、案の定Web上ではどこにも取り扱いがない。あったとしても相当値上がりしているだろう。何に惹かれたかというと、現在:平成末期~令和と、80年代~90年代初頭との、都市と人との関りにおける時代性の違いがはっきりと写し出されていたからだ。

それは都市空間が誰のものなのかという話題に繋がる。妹尾作品におけるスナップ、特に見ず知らずの人物らとの遭遇は当然、路上で撮られているため、人物スナップを撮り発表することの是非や困難さについての問題だけでなく、そもそも路上に人々が自由にまろび出て、たむろし、自由に振舞うこと自体が今、失われていることを強く伝えてくる。

 

写真には路上で遊ぶ子供や商売をする人たちの姿がこれでもかと写され、繰り返される。生活の場としての家・個人という領域が公共空間とが繋がっていて、個々人の生活同士、路上など屋外と不可分に混然一体となっているのだ。それは家の前の道にとどまらず、パチンコ店内や駅構内、電車内すらも自由に遊戯の場へと転換してしまう子供らの姿に象徴される。みんなのものは私のもの、という感性が写真には溢れている。

私にも覚えがある。家の前の道路を画用紙代わりにローセキで思う存分落書きした。人の家の庭や畑に入って虫を捕った。今では考えられない。子供だから許されるという問題ではなく、公共の場の定義と認識が確実に変質したのだ。

 

現在、公共の場は誰のものでもあってはならないのだろう。誰かの迷惑や不快になってはいけないことが暗黙の・強力なルールとしてある。「自由」の在り方が変わったということでもある。それは道や街のシステムの在り方にも強く反映されており、迷惑や不審に対する抑止が最優先され、自由=無防備・無監視であることは非難されうる。防犯カメラがないと何かあった時に誰が責任を取るのか?という呪いのような問い、防犯カメラの設置を求める語り口は、事件を報じる際にマスコミやコメンテーターの呈する苦言や、市議会議員の活動の一つとしてテンプレ化している。

公共の場は皆のものである、というテーゼが反転し、「誰かのものであってはならない」という状況が今ここにあるのは、世界各地で相次いぐ都市部でのテロ行為や、国内でもしばしば発生する突発的な死傷事件、ストーカーや盗撮などの事案と密接な問題でもある。だがそれだけではない。過敏なまでの通報や、保育所や病院など公的施設の建設計画に対して地元住民が揉めるのは、それらとはかなり異なるレベルでの「公共の場」を巡るもつれがある。子供らの声や救急車のサイレンを真に迷惑だと訴える感性は、自分(達)とは無関係な人の生活が、自分の領域に及ぶことに対する不快さ、生活感情からの反発に他ならない。

自他の境界、プライバシーの領界を巡る意識が一変した今、安心・安全を巡る境界線の書き換えが目に見えないところで一気に進んだことを日々感じる。妹尾作品は、そうした境界線が引き直される以前の状況を捉えている。同じ「平成」という時代でも、30年という長い時間の間に、都市空間と私たちとの関係性は大きく変化した。そのことを客観的に気付かせてくれる。

 

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もちろんドアノー的な素朴で素敵な、ユーモアのあるスナップとして楽しむのが一番の正解だと思うし、展示第2部:京都で90年代に撮り溜められた写真集『5,000,000歩の京都』(1997年、マリア書房)を元とした作品群を見ながら、大阪と京都という2つの都市の街並みや人の表情、装いの違いや、時代の表情の違い(京都のシリーズは90年代半ばの写真が多く、5~10年ぐらい時代の差がある)を比較するのも実に面白い。

 

どの写真にも、道に、街に溢れ出す私人の「生活」があり、その生命力に私は惹かれたのだと思う。恐らく90年代後半からは、10代の少年少女らが巻き込まれる犯罪の多発や、ネット社会化が進展していくことでのプライバシーの問題、地域コミュニティ・コミュニケーションの場所や方法の移り変わり、そして映像技術の高度化・コンパクト化に伴う効率的な防犯システムの普及、といった様々な要素が絡み合って、道や都市という場は大きく変質していった。その動きの中で写真という行為の意味もまた、変質した。

 

そのようなことを感じた。

 

( ´ - ` ) 完。