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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】「岩宮武二のまなざし」@enoco(江之子島文化芸術創造センター)、BLOOM GALLERY

岩宮武二の生誕100周年を記念した展示が大阪で2カ所同時に開催された。大阪府20世紀美術コレクション」の中から、enoco(江之子島文化芸術創造センター)では『佐渡』シリーズを中心に初期作品から写真以外の実験的な作品までを俯瞰的に揃え、BLOOM GALLERYでは『佐渡』と『京都』シリーズが展開された。 

 

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【会期】2020.11/7~11/27(BLOOM GALLERYは11/28まで)

 

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岩宮武二は1920年生まれ・鳥取の米子出身だが、1940年に「丹平写真倶楽部」に入会、1951年には画家の瑛九が創立した「デモクラート美術協会」に参加する。どちらも大阪を拠点とする団体で、前衛的な写真表現を追求する。戦後も大阪を拠点としながら国内外を舞台に活躍し、1966年には大阪芸術大学の教授に就任し、後進の育成に注力した。

 

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撮影中のご本人。大阪と関わりの深い人生であっただけでなく、作品でも京都の伝統的な建築、結界の様式美を力強く捉えた写真などが代表作として知られ、関西に縁の深い写真家であった。1989年、没。

これまで教科書的な存在だったが、生の作品をまとまった形で見る機会があったのは幸運だった。

 

 

 

 1.enoco(江之子島文化芸術創造センター)での展示

enocoでは岩宮武二の作家人生を一望するように4つのパート「1.初期」「2.佐渡」「3.同時代の人々」「4.余技」と、京都の動画作品とで構成されていた。

うち「3.同時代の人々」のみ撮影不可。岩宮が撮った著名人が登場するが、被写体となった人たちの許可が得られなかったのだろうか。

 

 

1-1.初期

戦後すぐ、写真家としてのキャリアの最初期の作品が特集された。太平洋戦争中も満州で写真記録係として記録写真を撮っており、時には風景や風俗を作品にして丹平写真倶楽部に郵送していたという。

戦後、大阪へ復員しても元の勤め先の日立造船が爆撃されていて仕事にならず、三宮のバラックの片隅で写真の現像・焼き付け・引き伸ばしをするDPE店を開業し、進駐軍を相手に繁盛する合間を縫って三宮の焼け跡を撮影した。この店は火災に見舞われ、当時の作品は消失して残っていない。火事以後は、大阪で極貧生活を強いられた。東京から来た林忠彦を自宅に招いた際には『気にもとめずに綿のはみ出した子供の小便臭い布団に林を寝かせた』とのことで、しかし林は岩宮武二のことを『長屋の押し入れを暗室にしているし、王将の坂田三吉みたいな貧乏暮らしをしているが、いまに写真界の大物になるだろう』と感じていたという。実力者同士だけが分かり合える何かがあったのだろうなあ。いい話だ。

 

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展示品で最古期のものは1947年『習作』、顔全体に包帯をぐるぐる巻きにして蝶の標本を散りばめたモデルの顔を撮っている。女性と包帯と蝶という、現在のサブカル的感性、綾波的なコスプレにも通じるような変装ポートレイトには意外性を感じた。やはり戦前にシュールレアリスムの洗礼を浴びていたのだろうか?

1948年『歯痛の子』にしても普通のポートレイトではなく、変な感じがする。はにかんだような、戸惑いとも半笑いとも付かない曖昧な表情とその顔を囲う布は被写体が何者であるかを謎にしている。隣に並ぶ故郷の鳥取砂丘の風景、猫の後ろ姿なども、モノとしての外形にフォーカスしていて情感は切り捨てているようで、戦後写真=リアリズム、という図式が当てはまらない。

 

だが1954年の富士フォトコンテスト・カラー部門で1位を獲得したマヌカンとモノクロ・プロ部門で銅賞を獲得した『炭鉱夫』を見ると、前者はシュールな配置とモノの奇妙さを捉えつつも、後者は働く者に宿る崇高さを引き出すヒューマニズムが旺盛であって、時代の要請に応えたという感がある。炭鉱夫の表情は光に満ちていて力強く、プリントも美しい。代表作を生で観られたのは大変有難かった。

 

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氏の経歴がパワフルすぎてつい忘れてしまっていたが、1953年には結核を患い、国立米子療養所に入院し、3年もの闘病生活を送っていたのだった。だが療養所で撮られた2枚の写真には、暗さや陰鬱さの主観的なところがなくて驚かされた。当時は外科手術が主流で、肋骨7本と肺の一部を切除している。その上、療養仲間も次々に去っていったのだが、私小説的な写真が広まるのがもっと時代が下ってからであるためなのか、岩宮自身が段違いにポジティヴで強い人間だったためなのか。

 

 

1-Ⅱ.佐渡

写真集『佐渡』の91作品より35点が展示された。1954年12月に訪れてから8年にわたって通い、35㎜カメラで撮られた写真は、スナップで撮られながら構図の厳密さが印象的で、そして冬の日本海側の険しい表情が切り立っている。

 

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基本的な作風は同時期・1954年のフォトコンテスト受賞の2作品と同じく、どこか非現実的なシュールな構図と、土地に生きる地元民の粘り強い力を認めるものとの二極があり、その間のグラデーションから諸作品が出てきている。昭和の日本の土着的な風土を色濃く刻みながらも、情緒的なところに留まらず、しかし佐渡島の資料的な写真ともならず、どこか未知の土地の曲がり角を歩き続けていくような不思議さがある。

私は佐渡に行ったことがないが、海からの厳しい風雪が吹き付け、それが削り上げた岩が織り成す荒々しい土地であることが伝わる。岩宮は冬の佐渡に強くこだわりを見せていたようで、佐渡シリーズの初の個展で岩宮は『私が思い浮かべる佐渡のイメージは、この離れ島の過去にまつわる、数々のエレジーに密着してあるようだ。だから、私の撮影したい”佐渡”は、その背景が春、夏、秋などの季節でもなく、万象枯れ果てた厳冬でなければならぬ』と語っている。

 

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だが『きびしい自然の中に展開される人間生活を通じ、これが佐渡だ、と思える風物に焦点を絞る』と言いつつ、写真の中にはこのように地元民の生活からすり抜けて、風景と人と動物らが全て等価になる迷路のような構図が現れたりする。荒涼とした日本海の冬の空気は写真と共に現実の時間を凍らせ、形態の配置に還元したのだろうか。

 

しかしシュールな構図の妙とせめぎ合いながら粘り強く立ち現れるのが、地元民の生活の力である。

 

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佐渡シリーズは、風景や不特定な人物をシルエットとして捉えた構図の写真群と、人物にぐっと寄って個を捉えた写真群とに大別できるが、この人々の写真も興味深い。

路上に雑誌など本を広げている露天商の老婆とそこに群がる客のカットは地味に衝撃的だ。大阪の天王寺新今宮あたりでは出所不明なバッタ物や拾い物を路上で売っていたりするが、それよりも老婆はずっとハードコアで、品物は並べられてさえいない。どさくさである。一応、ゴザのようなものは敷いているが、ほぼ路上に雑誌を積み散らかしている。そして本人は何かを食べている。なんだこの破壊力は。それを選んでいる客も凄い。しゃがみ読みして吟味している。表紙がヨレているが新品なのかどうかも分からない。逞しさが溢れている。高度成長期の過程では全国このような光景が珍しくなかったのだろうか。

 

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しかし普通のポートレイト調の写真も岩宮武二ならではの底力が光っていて、地元の老婆らがモデルばりに洗練された立ち姿で写っている。この首と身体のひねりの角度、傘、外套の流れるような立ち姿は、見事だ。時空を遠くへ飛ばすシュールな世界とともに、目の前の人物の生を最大限に受け止めて引き出すヒューマニズム的な力、その両輪を思い知らされる。

 

 

1-Ⅲ.同時代の人々

撮影禁止ゾーン。林忠彦、堀内初太郎、秋山庄太郎植田正治、緑川洋一といった同世代の写真家らとの知己に触れるほか、棋士加藤一二三、物理学者の湯川秀樹などの写真も紹介された。

またアンリ・カルティエ=ブレッソンとは、大阪芸術大学が1978年にブレッソンオリジナルプリントを収蔵したことをきっかけに付き合いがあったという。

  

 

1-Ⅳ.余技

最も興味深い展示コーナーである。写真家として名高い岩宮武二が、写真以外の分野での表現活動を行っていたことを作品や資料から明らかにするもので、初めて知ることばかりだった。

多岐にわたる挑戦を引き起こした要因として、画家の津高和一、元永定正や、版画家の泉茂、グラフィックデザイナーの早川良雄など、分野の異なる芸術家らとの交流が挙げられていた。

「余技」とは「専門以外に、身につけた技芸」のことをいうが、キャプションのとおり『岩宮は本業である写真に飽き足らず、余技の制作に対しても徹底してこだわり、本業をそっちのけで没頭した。むしろ執念と言えるかもしれない。』と、相当な熱量で打ち込んだことが分かる。

 

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まず目が行くのが、棒人間のシルエットだ。これは「アルフォト」と言い、印画紙をアルミ板に置き換えたもの、とのことだが、解説を読んでも全く分からない。元画像のポジフィルムを暗室でリスフィルムに転写・反転作業をかけ、白黒のシャープな写真へと補正したのち、アルミに焼き付けてプリントすると完成。コントラストが強烈に効いていて、写真とデザインの合いの子のようだ。

 

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一番驚いたのが陶板だ。完全に写真と分野が違う。『信楽で制作した陶板には、釉薬を垂らしたり飛ばしたりしたものや、穴を開けたりしたものなどいくつもの作品が存在する。』 写真家の域にとどまらない活躍ぶり。

下2枚の写真は、大阪駅の南側正面にあった駅ビル「アクティ大阪」(現、大阪ステーションシティサウスゲートビルディング)の正面入口に掲げられたモニュメントの記録・断片である。今では大阪駅のビルも新調されて10年近く経つ(2011年3月開業)ので、かつてそんなレリーフがあったのか、言われてみればあったようなというぐらいの記憶だが、何処かに残されていないものだろうか。80年代以降、昭和の終わりから平成にかけて、大阪キタの玄関口に岩宮武二の作品が掲げられていたというのは、氏が写真家の枠を超えて「芸術家」として評価・認知されていたことを象徴する実績だろう。

 

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他にも多岐にわたる写真以外の平面作品が並んでいたが、手法・分野がまたどれも異なる。風鈴とレースの生地を撮影したフィルムを合成してシルクスクリーンに仕上げた『夕風』(制作年不明)、モノクロ撮影した女性のヌードをPCに取り込んでドットで色や質感を変化させ、新たな表現に挑んだ『ソラリゼーション』(1984、白と青のアクリル絵具を厚く塗り重ねたキャンバスにマスキングテープを貼っては切り取り、高度1万2千フィートの飛行機の窓から見た北極海を表現した『氷海』(1985)、など、技法のバリエーション や表現ジャンルを軽々と乗り越えていく。

写真を撮り続けながらも、写真では表現しきれない領域を探求していたことが伺える。

 

 

1-Ⅴ.京都の映像

展示のナンバリングにはなかったが、部屋の中央あたりのモニタで京都の風景写真を繋げた動画映像が流れていた。それは不思議なもので、22分の「映画」ではあるが、1枚1枚の像としては止まっていることと、日本の美を知らない者にも一から伝える内容となっていた。元となる写真集『京・kyoto in KYOTO』は2千部の出版だったが、映画であればもっと広く人々に伝えられるのではとの思いから制作に踏み切ったという。

 

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通常の動画映像との最大の違いは、画の中身が動いているのではなく、1カットごとの画は静止画(写真そのもの)であって、フレームが移動したり寄ったり引いたり、スチルアニメーションの技法によって録られている点だ。写真に動きをつけて展開するのはもちろん手作業で、『アニメーション撮影は想像していたより、はるかに複雑微妙だった。なにしろ1コマ、1コマ、22コマ写して1秒間ぶん。それにパン、ズーミング、フェイド・アウト、フェイド・インなどの操作が加わるのだ。』と語られている。PCでの加工ではなくアナログの肉弾戦で挑んだことがひしひしと伝わり、スリリングだ。この映像はホールでの試写会の後、テレビ放映され、さらには日航のジャンボ機内でも放映されたという。

 

 

 2.BLOOM GALLERYでの展示

同企画は十三の「BLOOM GALLERY」でも同時展開されており、こちらでは岩宮作品を代表する佐渡「京都」シリーズを特殊していた。かつては同ギャラリーの真上の階に岩宮武二の事務所があったという、実に縁の深い場所である。

 

改めて「佐渡」を観る。

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enocoでは分かりやすく2つのコーナーに分類されていたが、ここでは分類がないため、「佐渡」が多面的な要素を持つことが分かる。例えば風景と人物や、硬質な幾何学性とスナップとしての偶然性などが強く共存している。荒れ果てたような近代化以前の村落の中で遊ぶ子供らの姿に、画面構成に強い幾何学性が効いていることが見出される。そのため村落の情緒よりも、画面を引き締める構図と子供らの動き、行商人の老婆らの立ち姿が映画のワンシーンのように効いてくる。 

樹木が老婆たちを覆い被さるように伸びていたり、冬の田んぼに水が張って向こうに木々の影が立ち並んだり、道端に樹の幹を山のように積み上げて老婆たちが腰を下ろしていたり、それらは佐渡というより東南アジアの異国の雰囲気さえある。

 

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対して「京都」シリーズは『京のいとろかたち』と題され、会場のギャラリースペースとショールームの両方で展開される。商品の置かれる棚あたりの壁にまで作品が並んでいる。

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京都の建築や装飾に内蔵された幾何学の力が抽出、再配置されることで際立ち、一目見ただけで、繰り返される円形と直線の交錯・配置に意識が吸い込まれる。

関西人なので京都にはそれなりに訪れている方だと思うが、京都を歩いたり寺社仏閣に立ち入っても、このような強烈な意識の引き込みに遇うことはあまりない。そのとき図形は風景の一部として埋め込まれているだけだが、こうして写真によって抽出されると、至る所に幾何学的な図形が呪術的なまでに埋め込まれていたことを実感する。これを仏教の強さの秘術と呼んでよいかは分からないが、京都とは、意識の奥に訴えかけてくる催眠装置で組み上げられた要塞だったのだろうか。

 

京都に宿る図形の呪力(効果は不明だが)を受け止めて肯定するのが岩宮武二の写真であるならば、逆に幾何学的な構造・意匠の美学を温度のない造形として、客観的に引き出したのが石元泰博なのではないか。

 

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岩宮武二というと京都の建築、庭の造形を撮ってきた印象が強いが、写真集『かたち 日本の伝承』(1962)では、柱や壁の形態のみならず古典的な日用品―能面や能装束、琴、鼓、三味線といった芸能関係から、おひつ・しゃもじや鉄瓶、茶釜、長火鉢など、数えきれないほどの物品の形状を撮っており、和の「かたち」に対する迫り方は他の追随を許さない。

 

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何度見ても岩宮武二の「京都」は私が触れてきた/触れている京都とは別物だ。また、石元泰博の「京都」(桂離宮)とも違ってどこか理性で割り切れない部分の、怖さもある。魔界というと安直すぎるかもしれないが、幾何学の向こうに続いてゆく見えない階段への入口が開いている感じがして、それを私は呪術的と直感的に言い表した。紋章や結界が繋ぐのは何処なのか。肉眼では見えない方程式は、厳密な写真技術によって魔法陣のように効力を発揮する。

 

 

百周年の展示は以上でした。

ちょうど『美とかたち 岩宮武二の仕事』(2018、光村推古書院株式会社)が発刊されていて、初期作品の「大阪」から「佐渡」、道具類の「かたち」、京都のかたちと御所、桂離宮日本海、そしてアジアの仏像まで、写真家人生を総括した書籍が出ている。A5判と写真集にしては小さいものの、非常に参考になる1冊で、本展示と相当リンクしていて役立った。とはいえ、やはり生のプリントで見ないと、この構図・模様の内側へと意識が引き込まれる体感は得難い。2カ所同時の展示でも、岩宮武二の全シリーズは網羅しきれないが、発見が多くてとてもありがたい内容だった。しかも無料ですよ凄い。もっと広く知られてもよい企画だった。

 

皆さんもぜひ岩宮催眠にかかりましょう。◎◎◎。

 

 

( ´ - ` ) 完。