nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】稲垣智子『Diary 2020』@The Third Gallery Aya

新型コロナ禍で外へ自由に出られなかった今年。外に出ること、人と会うことが困難になり、内面を見つめる時間が長くなった環境下で制作された作品群は「作家の日記」『Diary 2020』と名付けて展開された。

 

作品は動画映像が3本です。いずれも作者自身のパフォーマンス。とにかく、なんだか、DMに載った男女のビジュアルの割り切れなさが気になって訪れた。

 

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【会期】2020.11/14(土)~12/12(土)

 

 

 

◆『愛の無表情/Love Has No Face 』

DMに載った男女の写真は、デジタル蝋人形のように肌と表情が溶かされ固め直されていた。性別は「男・女」と容易に判別できるが、それはとてつもなく記号化された識別で、妙につやつやとした肉感はどちらともとれる中性的なイメージを抱かせた。画像処理の結果だとは判っている。男女に枝分かれするより遥かに手前で二人の共有しているものが何なのかが気になった。そもそも告知画面ではこれが写真作品なのか動画の一部なのかも謎だった。

 

会場ではギャラリーの壁3面に3つの映像作品が投影されている。うち一つ『愛の無表情/Love Has No Face 』がDMの画像と同じものだった。男女二人が左右に交互に現れ、それぞれに話し始める。身の上話のようなものだった。共に45歳だという二人は死のリアリティの無さと、死への恐れ、身の回りの人々の死について言葉を交わす。 

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「私」と「あなた」の呼称が交互に繰り返され、投げ掛けられる、二人は同語反復のように同じ内容のことを喋っている。この男性と女性の声は一応、高音と低音の使い分けはなされているものの、そこまで大きな声質の違いはなく、ほぼ同じだ。声は女性である作者が当てたもので、事前に入念に構築されたセリフを読み上げて演じている。

この顔の造形も、アプリ「Snapchat」(スナップチャット)の性別フィルター機能によって作者が変身した姿である。顔を横に向けた時などに首元の加工がバリバリと解けて、そこにいたのが半分架空の存在だったことを実感する。女性を女性に転換すると本人のままにならず過度に「盛った」ビジュアルになるのは、恐らくアプリ内に蓄積された学習結果から、よりユーザーに好まれる「女性像」が生成されるためなのだろう。実際の作者とはまた異なる「女性」がそこにいた。

 

二人は婚活パーティーマッチングアプリ内で運命的な出会いを果たしたかのように、物憂げな世間話、死生観の共鳴から、一気にテンションが上り詰めていく。 

 

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途中から男女二人は画面が結合し、出会いを果たしたような形になるが、その視線と会話は噛み合っているようでどこまでも噛み合わず、独白めいた言葉はキャッチボールというより二重奏の様相となる。僅かなやり取りの間に言葉はトレンディドラマ以上の加速を見せ、二人は言葉の上だけで関係性を一線も二線も踏み越えていき、気付けばもう運命の人だと、「人生であなただけ」「あなたしかいない」と言い合い続けている。 「愛してる」「永遠に愛してる」「心から愛してる」「生きてきてよかった」「生まれてきてよかった」、だがそれは誰のことだろう?

 

連発される「私」と「あなた」、「生きる」ことや人生がエモーショナルに増幅されて加速する。それは誰のことだろう?

本作は、外見と言葉における男女の役割分担について言及する映像作品として捉えられよう。がしかし、一人の女性の顔と声をベースに保ったまま掛け合うデュエットのような映像において、両者の差――すなわち性差は明確には分割できず、むしろ属性は重なり合ったり溶け合ったりしている

それは従前からあるジェンダーの議論というよりも、もう少し先にある「個」の境界の揺らぎについて、問いや議論を惹起する挑発的なものとして私の目に映った。まさにVTuberよろしくアプリや映像技術によって、いち個人が「男・女」の領域のみならず、「私」と「あなた」の区分をも越境し、「私」自身の有り様すらキャラクターの作出によって幾重にも分身させることができる、そのような「個」の現在形を語るものだ。「私」には実態があるのかないのか、個体なのか複数形なのか、それも定かではない。

男女の区分を表面的に使い分けて行き来することは、逆説的に、演技によって従前からある男女の役割の枠をなぞり直し、目指すべき理想的(古典的)モデルとして再強化させる恐れもあるだろう。だが、元の「私」がどちらの性においても宙に浮いた、掴み所のないものになる無重力感や、オリジナルとの差異の谷間を旅することを楽しむ意味合いの方が強いだろう。私がこれまで手に入れられなかった「私」、別になりたいなどと思ったためしはないけれども偶然に作出された「私」、それらは純粋に驚きであり可能性である。装いとしての性差は自分で選択する時代なのだ。

 

だがここで、男女二人が冒頭で明かす「45歳」という年齢は、実態の無いはずの人物像に強烈なリアリティを与え、相反した感情をこちらに抱かせた。年齢はあくまでキャラ設定上の話だと思っていた。あまりに二人の肌や髪が若々しくツヤツヤしていたからだ。実はそれが作者の実年齢であると、ご本人から教えてもらい、仰天し(失礼ながら、作者ご本人を前にした時、私は完全に年下だと思い込んだため、より驚きが倍増した。)、ツヤツヤな不老不死めいたヴァーチャル像と、人間臭い「老い」のリアルとが重なり合う事態になかなか困惑させられた。

 

男女のどちらでもあり、どちらかである。映像上の設定であるが年をとる人間でもある。その重ね合わせの混迷、困惑に拍車を掛けているのが、台詞の日本語だ。大仰で、端的で、ドラマティックで、ドラマや漫画などあらゆる創作物で使い古されていて、個人の私的な思いというよりは演出に近いような、そんな文体の告白が響く。作者曰く、様々な言語のバージョンで台詞を作ったところ、どの国よりも日本語が一番演技がかった言い回しだったという。

ドラマティックな台詞は主体を有耶無耶にする。何のためにそんな言葉を放つのか?身の丈を超えた強い台詞を発するのは、恋愛やより良い暮らしが至上命題となった現代に即した呪いなのだろうか?

「私」は、目の前の空間の制約を超えて、画面の向こうで「私」を観てくれている(であろう)「誰か」のために、分かりやすエモーショナルな言葉を投げることができる。真剣にシリアスに伝えようとすればするほど「一生」や「命」「運命」が矢継ぎ早に、湯水のように湧いて出てくるこの独特な「軽さ」は、我らが日本の文化的土壌=ヤンキー的な文化の側面としても、また別の観点から解き明かされる領域を孕みつつ、「私」が残像するデュオを味わうひと時となった。

 

 

◆プロジェクト『Doors』 

一人の女性(作者)の後ろ姿から始まる。扉に向かって歩いてゆき、ドアを開けて、その向こうへと消えてゆく。ドアの先は暗闇(暗幕)で、何処に繋がっているのか、女性が何処に消えたのかは分からない。それが次々に部屋を変えて繰り返される。

これは短編映画のような不思議さを秘めつつ、作者の実際の活動録ともなっている。扉を開けるのは年1回、作品制作のレジデント先など美術関連の場所で、2013年から続けられている。中には海外もあったが、今年2020年の舞台が「自宅」なのが、新型コロナ禍の世相を反映していて興味深い。

 

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動画では、女性がある空間に現れ、扉を開けて、その先の暗幕へと去る→また新たな空間が現れ、その扉に向かって進み、またその先の暗幕へと去る・・・という運動がミニマルに繰り返される。若い女性が延々と、黙々と、未来に向かって活動を続け、キャリアを積んでいく姿に見えたのは、前述のように作品について説明を受けたから、引き寄せで連想したためかも知れない。

 

こうして動画を写真で見ると、次の部屋(翌年)へのループが断ち切られ、それまで画面中央にいた人物が扉を開いた先の暗闇に消えたところでシークエンスが終了する。人物絵画やポートレイトならば主題を失い、構図を失うこととなり、「不在」「喪失」といったことが主題となるだろう。

だが動画としての本作では、ある時点に生じた不在は、次の時間帯(翌年の)においての実在へと転換され、すなわち大きな意味での「移動」の連鎖を物語る。主体の存在は関数の波のように、ある場で現れてはまた消えるということを各地で繰り返す。たとえ外出自粛や渡航制限で移動が妨げられたとしても、主体...作者、もしくは私達は、近所や自宅内や職場でも無数の移動を繰り返すだろう。

今後の新型コロナを巡る情勢によっては、更に「移動」を制約され、恐怖することになるかも知れない。「移動」の概念、空間認識そのものが、私達の身体上で書き換えられてゆくかもしれない。その時、本作は見え方がまた変わり、より真価を発揮するだろうと思った。扉を開けた先に、未知の海外が続くことを特に期待しない(=自宅や近所でいいじゃないかという)世代も現れるだろうし、逆にだからこそ海外や宇宙をより強く渇望する世代も現れるかも知れない。その時本作は何を想起させるだろうか。

 

 

◆プロジェクト『Partitions』

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解説文からすると、最も今の世相に即した内容のものだったと思うが、冒頭で取り上げた『愛の無表情』が面白過ぎたのでそちらに鑑賞の時間と力をつぎ込み、こちらはほとんど注視していなかった。他2作品に比べるとかなりシンプルな映像で、一人の女性(作者)が二分割された画面内に現れる。

 

解説はこのようなもの。

パンデミック後の社会に必須となってしまったパーテーションを画面の中央に置き、祈る行為を行う映像です。

このプロジェクトは、現在参加者を募っています。内容は、身近にあるパーテーションを使用して、それぞれの方法で祈る行為を撮影し、映像に繋げていきます。

 

画面の分割がパーテーションの意とは気付いていなかった。新型コロナ禍の社会(ウィズコロナと呼称するのは抵抗がある、なんせ今のところ全く人智と政策は裏目に出てばかりなのだから)においては、パーテーションは日常的には正面から見るものとなっていた。つまり「私」と「あなた」たちとを分かち、多くの場合、「私」から皆さんが自分の身を守るための「防護壁」の「面」としてあって、真横から、線として見るものではなかったからだ。

真横から見たとき、パーテーションは防護や自衛の意味をひそめ、個人対個人の関係に分け入る壁としての純度が高まる。が、それを個人間の分離「壁」と見なさず、祈りの中心線、祈りの力の生じる面と捉え直したところに本作の意義がある。宗教には詳しくないが、両手の平をただ合わせるという祈りの所作は、西洋や中東の人達にはない、私達ならではの所作であり、サバイバル術なのではないだろうか。

 

色々な移動や行動を封じられた私達にも十分に可能な、大胆な意味の転回。このパフォーマンスの心は見習いたいと思った。

 

 

( ´ - ` ) 完。