nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展/KG+】(52) 外山亮介「トンネル」 @三条両替町ビル

今年度の【KG+】のなかで、いや、KYOTOGRAPHIE本体を含めた中でも異彩を放ち、重みがあったのがこの展示だ。

他の会場では断られたため、KG主催者の配慮により「KG+SELECT」会場での展示となった本作は、巨大な開発計画に当事者として直面した作者が抱いた不安と疑問の諸々を、写真とともに赤裸々なまでに書き連ねている。鑑賞後も何かがずっと胸に残る。

 

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型破りな展示である。北陸新幹線の延伸ルート建設計画とその影響について、そして作者自身の思いについて、「写真」展の主客を転倒させてまでも、何としても広く知ってほしいとの切迫した思いが溢れている。

 

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展示室へ続く廊下には、北陸新幹線のトンネル建設計画についての資料が並び、計画に疑義を唱え、考え得る様々な悪影響について警鐘を鳴らしていた。写真家の作品展示というよりも市民センターの一角のようでさえある。

 

心に残ったのは、直筆の心情吐露の切実さのためだけではない。「これは果たして写真作品の展示なのか?」と躊躇わざるを得ないほど、開発問題についてダイレクトに、なりふり構わず訴える展示形態に少なからぬ衝撃を受けたのだ。

ぶっちゃけ「作品」の評価・審美という観点では、他の展示と同列には並べられず、評価の対象外とされてしまう恐れも大いにあったのではないか。そして作者は恐らくそれを百も承知の上で、この形態を優先したのではないか。

その証左に、『反対運動の活動家になりたいわけではない。』や『反対運動みたいだと鼻で笑わないでほしい。ただ不安になって声をあげているだけなんだから。』と断りつつも、はっきりと展示の主旨として冒頭から『今回の「トンネル」展では、北陸新幹線の小浜—京都延伸計画の問題を、一人でも多くの人に知ってもらう事を目的としている』と言い切っている。

 

そのことが何か胸にずしりと来たのだった。

 

勿論その感想は相対的なものではある。同じ形態の展示がありふれていたらそうは感じなかったはずだ。アーティストとしての評価軸に乗らない、他の人が選ばない形態だったからこそ、格別に心に残った。それもまた「表現」の宿命だろう。だがこちらを選ぶのは困難な道だ。直截な反対の声は、多くの「地元」や「関係者」にとって、冷や水をさすものとなり、ともすれば村の中に分断をもたらしうる。伏せておきたい話でもあろう。つまり「表現」としての評価と異なるところで火種となってしまう。

実際、作者は『こういう計画があることを皆に知ってもらいたかったが、この問題に関する展示には貸し出せないと、いくつかの会場に断られた』と語っていて、企画自体が困難含みであったことが明かされている。そのため、本展示は「KG+」の枠組みだが、KYOTOGRAPHIE主催者の尽力により、「KG+SELECT」会場(三条両替町ビル)に組み込まれる形で実現されている。

 

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外山亮介は本来、持ち前の職人的ルーツと情熱によって、古典技法・アンブロタイプ(湿板写真)を手掛け、自作の巨大カメラによって光そのものをガラスに封じ込めたような美しい湿板写真を作り出す。昨年の「KYOTOGRAPHIE 2020」の展示『導光』ではその成果が遺憾なく発揮されていた。

 

本展示でも同様に、アンブロタイプの写真が提示される。

被写体は、作者の住まいとその周辺である京都市の北部、京北(けいほく)、上桂川の風景だ。

写真は実に美しい。実に恵まれた風土が生きていることが、写真の光から伝わってくる。空気や水が生きている。その光の質感が写真から分かる。これが京都市北部の豊かさであり、アンブロタイプの光の豊かさなのか。

 

しかし作者は、写真に写し取ったものは記録としてその瞬間から過去になることを自覚したうえで、「これから起こるかもしれない」大規模なトンネル工事に伴う様々な自然・風土・暮らしの破壊の「恐れ」、予兆をどうすれば写真で表せるかを思案した。

 

結果、丁寧に作り上げたアンブロタイプのガラスを自らの手で割るという決断をした。

割れた、壊れた風景は元に戻せない。それでも「美しく直していくことは出来る」「割れ目さえも美に変えていく」と作者は綴る。

 

されど巨大な開発計画とそれに伴う破壊に対する懸念と不安は、前向きな言葉で威勢よく振り払えるものではなく、現実味を帯びて作者を強く捕らえて離さない。作者を暗闇に留めるのは、一つはトンネル工事の開発計画をどうすれば止められるか全く分からないこと、もう一つは、メディアをはじめとする都市社会がそもそも都市間の発展、経済発展のために地方や自然を代償とすることに疑いを持たず、疑いの視野を人々に持たせないように狭めていることだ。この二つの「暗さ」が、北陸新幹線延伸計画とともに、本作タイトル「トンネル」へと係っている。だから会場は漆黒である。

 

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昭和40年代に発案された北陸新幹線計画が、今になって具体的に、個々人の生活や野山や川を直撃しようとしている。このことは都市生活を営んでいると――都市生活のルーティンの内側に組み込まれ、順応を高めていると、ほぼ気付かない。むしろ「はやく大阪・京都から電車一本で金沢、富山まで行けるようにならへんかな」としか思わないのだ。きっと原発も何もかもそうやって生まれては稼働してきた。

 

作者は綴る。綴りに綴る。

『上桂川の下にトンネルを通して、水量が減らないだろうか。』

『大型の工事車両が走り回るのかもしれない』

『山が削られ、土砂が川に流れ込む。護岸工事も必要になるのかもしれない。トンネル掘削で出てきた大量の土砂は谷を埋めて処理される事もあるという。』

『もしトンネル工事で出てきた残土から、ヒ素なんかの有害物質が出てきたら。それが雨で溶けて川に流れ込んでしまったら。』

大深度地下法を使用すると、地上に住む人に許可を取る事なく掘り進められる。』

 

今まさに当事者である作者が、こうしたリアルの声を『ただ不安になって声をあげているだけなんだから』と、会場を断られながら、自己配慮のうえで、言葉を選びに選びつつ、切々と綴っている現状もまた、辛いトンネルである。

 

つくづく、心に苦みの残る展示だ。

 

 

( ´ - ` ) 完 (※問題は未完)

 

(参考)作者が会場で配布していたチラシ:「北陸新幹線延伸を考える市民の会」

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