若手写真家3名を取り上げた「新鋭展」。統一したテーマではなく三者三様の作品だ。
何が「新鋭」なのか?
実は特別な「新しさ」はない。むしろこれまで地道に続けてきた表現が評価され、開示されている。鑑賞者がそこに「今」の眼で解釈を行うのだ。
【会期】R4.7/2~8/21
「入江泰吉記念奈良市写真美術館」といえば、「入江泰吉作品の保存と公開」などを主たる使命としているが、「将来性のある若手写真家の作品」を扱うという設立趣旨がある。なんとこれは入江泰吉の意向を汲んだ方針だそうだ。
「若手写真家」というのは、著名なレジェンドや物故作家ではなく「現役世代の作家」、「現在活動中で評価されつつある作家」といった幅広い意味で捉えるのが適切だろう。20代とか30代前半までという年齢的な区切りではない。鵜川の生まれ年は不明だがプロフィールでは2010年から写真展を開催、野口は1973年生まれ、石井は1962年生まれと幅があり多彩である。
なお、今回は展示の撮影が禁止だったので、作品のビジュアルについてはホームページをご覧ください、
と思ったら作家(石井陽子)氏経由で、美術館側で撮影した会場写真をいただけたので、それを掲載していきます。ご協力ありがとうございました💦
では3名の展示内容をそれぞれレポ。
◆鵜川真由子「WONDERLAUND」
《WONDERLAUND》と《Laundromat》の2シリーズで展開される。そんな言葉は知らなかったが、前者は「ワンダーランド」と「ランドリー(洗濯屋)」の掛け言葉だろう。後者はそのまま「コインランドリー」の意味だった。どちらも舞台はニューヨークである。
《WONDERLAUND》は、10代最後の夏に初めてニューヨークを訪れた時に、美術館で絵画を見て純粋な感動の体験をしてから「私の特別な場所」となったことを踏まえ、その後フォトグラファーとして再来してから5年に亘って通う中で撮り溜められた作品だという。
ニューヨークへの愛の写真と言っても過言ではない。建物や空などの風景、ストリート、街や夜の中で出くわした人々、どのカットも抱擁するように輝きに満ちている。陰影と光、色が高まり、良きエモーショナルの増幅が写っている。「良き」というのは言うまでもなく不快さや汚濁、負の感情がない写真――負の曖昧さがないということで、作者が商業写真の分野で活躍していることと無関係ではないだろう。
そのエモーショナルは、ニューヨークという「特別な場」へ注がれている。ひいては過去、初めてのニューヨークで自己の生存を救われたように感じた、その瞬間の高揚へ向けられているのだろう。
《Laundromat》の方はドラマティックからややコンセプト寄りの作風へと移行している。ニューヨークの街中のコインランドリーと、そこに来る人達の表情が撮られている。
ニューヨークの都市部は戸建てが少なく、かなり古い集合住宅が多い。それらのほとんどは水回りの配管を備えていないため、生活に不可欠なサービスとしてコインランドリー(これは和製英語。英語では「laundromat」という)が多数あるのだという。
このシリーズはカットの多角的さが顕著で、コインランドリー内部の様子も写し取られており、《WONDERLAUND》と比較するとドキュメンタリー作品とも言えるかもしれない。
だが所謂コンセプチュアルさ、ドキュメンタリー写真と一線を画しているのが人物写真である。
中には一定の距離を置いて、コインランドリーの空間と合わせてフラットに撮られているカットもあるが、それでも家族写真のように陽気である。距離感、角度は多彩で、上から横から斜めから、至近距離で声掛けしたものから、離れて店の外観の一部として捉えたものから、様々である。《WONDERLAUND》路線のカットもあり、やはり愛すべきニューヨーカー、愛すべきニューヨークという眼差しがある。
◆野口靖子「赤光の庭 Garden of Red Light」
経歴に「1999年 ビジュアルアーツ専門学校大阪 写真学科 夜間部卒業」とあって大いに納得した。それ以上の説明が要らないぐらいに本作はモノクロ・ストリート・スナップ写真の王道をゆく。枚数もスナップ写真ならではで、3人の中では最大となる合計170枚弱はあった。
ストリートスナップながら全て6×6の正方形で、各シーンの構図がしっかり構成されているところが不思議な個性を帯びている。絶妙に人々の油断・隙を突いた瞬間芸であることに間違いはないが、正方形の力でストリートと時間の肖像という感が強い。
出展作は《青空の月》《桜狩り》《赤光の庭》の3タイトルで構成される。
いずれも珍妙さと懐かしさがある。
懐かしさというのは、撮られた年代がやや昔であることと、主役の多くが子供であることに起因すると思う。路上、祭り、公園、下町めいた場所など「都市」の隙間や外れで撮られていることも、同時代性からずれた雰囲気を醸す要素となっている。とはいえ、並みならぬ枚数で撮り溜められているのだから、その時点での「都市」の表情は遺憾なく記録されている。
これら3シリーズは、作者が2022年に立ち上げた個人レーベル「Fields」から発売されている。本展示と同タイミングで写真集がリリースされたようだ。
写真集販売ページの解説を読むと、各シリーズの大まかな撮影時期やテーマが把握できる。
《桜狩り》はビジュアルアーツ専門学校大阪・夜間部に通っていた学生時代から卒後の約6年間(1997~2003頃?)の作品で、最もコミカルさが強く、シークエンスを狙い澄ましている。坊さんの行列、特急列車の窓に積まれたみかん、神妙な顔をしたハリポタ風の眼鏡男児、それと向かい合わせに置かれてうなだれるビクター犬、登場人物3人がトライアングル状に対峙する緊張感あふれる似顔絵デスク・・・。味わいが半端ない。
《青空の月》は、2013年12月に写真集刊行と展示が行われたシリーズである。写真集の副題に「神戸・阪神間 2010-2013」とある通り、撮影地と時期が絞り込まれたスナップとなっていて、阪神間でお馴染みの空気感、見覚えのある場所が多数登場する。どうということのない駅構内や駅周辺の施設や道路、商業施設、商店街は、レトロでもないし新しくもない、東京に比べれば密度も知れているが、地方にしては栄えている、というものすごく曖昧な都市景である。
この感覚は通常の都市スナップ写真(=東京)と逆である。名の知れた写真家による都市スナップ写真は多くの場合「東京」写真であり、関西を含む地方在住者にとっては、写真(メディア)体験が現実の土地に先行する(多くの場合、写真で見たことのある光景を後に旅行などで実体験する)。
だが関西人にとって関西都市スナップ写真は、言うまでもなく「行き慣れた場所を写真群の中に再発見する」という逆プロセスを辿る。それが面白かった。
《赤光の庭》は、壁面一つを縦7枚×横13枚でぎっしり埋め尽くし、全ての細部を見きれないボリューム感である。スナップ写真はボリューム、数でこそ語れるものがある。ともすればノスタルジックにすら見えなくもない子供らのスナップも、混然となって都市のストリートの活力として現れてくる。
《桜狩り》で見せたような、どことなく珍妙さを含んだシーンも多いが、もっと自然に通り過ぎる中でのカットへ移行している。また《青空の月》と同様、京阪神の都市のここ、そこ、あれ、それが写り込んでいるのを再発見することになった。
路上の子供らの活き活きした様を撮り、路上での人々の自由な振る舞いを肯定的に掬い上げる姿勢は、百々俊二ら関西スナップの名手のDNAかも知れない。むしろ妹尾豊孝のDNAかもしれない。
街中のスナップ、特に人を入れたスナップは社会情勢の変化から、年々撮るのが難しいと言われてきたが、体感的には一時期よりも、作品として展示・発表することへの過剰な配慮は薄れてきたように思う。ぜひ作品制作を続けてほしい。
◆石井陽子「鹿の惑星 Deer Planet」
最後のコーナーで観客を迎えるのは、大伸ばしの「鹿」写真である。
本展示の3者の中で最もコンセプチュアル寄りの活動・作品である。作者の肩書き:「鹿写真家」からして非常に特化していることが分かる。
会場に、鹿が群れている。
それはちょうど美術館からの帰路、奈良公園を始めとしてその周辺でほぼ確実に出くわす鹿たちが、何となく腰の位置あたりにわらわらと寄ってくる感じを髣髴とさせる。鹿たちが「とりあえず鹿せんべいをくれそうかどうか」の確認をしにうろうろと寄って来る、くれないなら去るというあの感じである。
ある面で、本作はリアルの奈良市街地よりもリアルだ。
街中を鹿が闊歩していて、人が全くいない。代わりに鹿がいる。関係は逆転している。奈良県庁の建物敷地内、公衆トイレ、車道、バス停など人が人のために作った街のど真ん中に、鹿ばかりが闊歩し、鹿が人に代わって占拠する。まさに「鹿の惑星」だ。
本作は観る時期に応じて、タイムリーな意味を催させる。
今は、新型コロナ禍・緊急事態宣言下での外出自粛の状況そのものを見ることになる。未知のウイルスという自然の猛威によって無人化した都市・人間社会で、人と自然(=鹿)との棲み分けの境界が薄れ、ついに自然側=鹿の生息域が溢れ出してきたという状況である。2020年の新型コロナ流行当初に、Twitterや報道でも報じられてきた通りの有様がここにある。
鹿せんべいすら食べる必要のなくなった鹿は、都市の主人として活き活きとそこいらじゅうに顔を見せている。鹿の生息域と県庁所在地の都市部がここまで密接なのは、歴史的な経緯から鹿が神獣として、国の天然記念物に指定されているがゆえの、特異な光景であろう。
作者がこのシリーズを思い付いたのは、2011年3月に出張で奈良を訪れた時、誰もいない街、ホテルの目の前で牡鹿が頭を突き合わせていたのを目の当たりにした時だったという。東日本大震災後の福島第一原子力発電所事故から2週間後のことで、街の中を歩く鹿の姿は、原発被災地で放置され彷徨い歩いていた姿と重なったのだ。
すなわち新型コロナ禍以前にこの作品を目にした時には、観客も当然のように福島第一原子力発電所事故で何が起きたのかをまざまざと想起しただろう。それ以前なら例えば、全国の里山や農家で直面している鹿の食害、猪や猿による農作物の被害などが焦点化されたかもしれない。
だが結局のところ、人間側の開発によって自然の野山が縮小し、野生動物の生息域や食料が賄えなくなっている反面、逆に人間の集落は高齢化や過疎化によって縮小し続けており、開発によって自然を圧して食ってきたパワーバランスが事実上崩れてきていることを、本作は象徴的に表しているのだと思う。
ただし作者の着眼点と活動の射程は、上記のような社会問題、縮小する地方都市や自然と人間の共生についての問題提起というよりも、「鹿」という生き物のパワーとポテンシャルの方に向けられているように感じる。本作の終盤に北海道のエゾジカが含まれていたためだ。
無人の都市部を徘徊し占拠する鹿に加えて、海をバックに並び立つ鹿、降り積もる極寒の雪の中で暮らす鹿の姿。そこには日本列島・東西南北のあらゆる場所に適応した鹿(日本にはニホンジカの亜種7種が生息し、そのうちツシマジカ、マゲジカ、ヤクシカ、ケラマジカの4種は離島に生息する。)という動物種の、深い関わりとポテンシャルが表されているように思う。
害獣と神獣という二極の呼び名を持つ「鹿」。まだ私達はその真価を知らないのかも知れない。
------------------------
はい。面白かったですね。
同じ「写真」でも撮り手が違うと全く違う。
私の文章で読むのがだるい人は、会期中に開催されたトークショーを聴くと良いですよ。記事冒頭にあげとけやっていう話ですが。
トーク聞き手は前・美術館館長にして現・アドバイザーの百々俊二氏です。
「エゾジカの肉がめちゃめちゃ美味い」という羨ましい名言いただきました。いいなあ。そういうわけで、私達は鹿の真価をまだ知らない。はい。
( ´ - ` ) 完。