丹念なリサーチと無数のコラージュを組み合わせ、「過去」や「記憶」の関係性を扱う大坪晶。今回の新作では「風景」と認識を問う試みがなされた。
展示は3種類の作品から構成される。空港に飛来する飛行機の写真群、スプリンクラーの動画と静止画、桜の樹に膨大なコラージュの貼られた写真。これらを用いて「風景」を風景として私達が認識するための条件を考察する。そして、そこには記憶や意識が関わっていることを問うている。
風景は物理的に風景であって、人の記憶や気持ちと別物では、と思われるかもしれないが、私達がそれをそれとして認識し、フレーミングし、情感や物語を付加しない限り、それらは特に切り出されることがない。或いは、何ということもない場所・場面でも、美のパターンに当てはまるとか、エピソード、伝説があるとか、事件があったとか、作品の舞台になったとか、誰かがその場について何か感情を抱いたとか、何かしら継承された情報や情感が乗せられることでそれらは「風景」となる。経験則でも何となく分かるところだろう。本作はそういったことを写真により問いかける。
まず分かりやすいところで、スプリンクラーの動画と静止画の作品『スプリンクラーをとめる』を見てみよう。本当に文字通り、回転しながら散水するスプリンクラーの映像を止めたりコマ送りにし、飛び散る水滴をクローズアップしている。
ここではスプリンクラーの動作、水滴の動きが極端なまでにクローズアップされ、逆回しや停止、拡大されている。見慣れた、静的な平面から取り出される「動き」、動きから生じるその場の変化によって、「スプリンクラーの回っている光景」=背景の建物、緑色の芝生とともに一枚の平面に収まった「風景」が解体される。
ここに本作の1つ目のポイントがある。平面的な「風景」は、無数の「動き」、時間の移り変わりや様々な変化が捨象され折り畳まれたものではないか、という仮説を立てることが出来るだろう。平穏な一枚の光景に、獰猛なまでの動きと表情がある。
冒頭の飛行機の写真群『空を撃つ』も、動きに関する考察と見ることができよう。
モノクロの小さな正方形の写真が多数並べられている。最初は単に「風景」のお試し分解や、飛行機という印象的なモチーフの反復による何らかの効果を示唆しているのかと思ったが、スプリンクラー動画作品を見て、こちらも同様に一枚の「風景」に閉じ込められた動き・移動の、多彩な瞬間を開示して見せるものではないかと考えた。
ただ、この作品のステートメントには「ふれられぬものへの憧れは写真を撮影する人間の本質的な部分でもある。」とあり、風景の構成・生成要素として心理的な要件=憧憬、手の届かないものを仰ぎ見る思いを現わす試みと考える方が妥当だろう。地に足を付けて生きることを宿命付けられた人間にとって、空と飛行機は永遠に近くて遠いモチーフである。そうして夥しい詩情が紡がれてきた対象・場である。
手前に写される金網も、手の届かないものへの憧れを駆り立てる、制限・見えないものの向こう側を思い描く動機を催させるものへの言及に繋がっているだろう。
写真に関わっている人間なら、空、飛行機、とくればスティーグリッツやら、ティルマンスのコンコルドやらが想起されよう。翻ってそうした営みの積み重ねと相互引用符が「風景」には満ちているとも言える。目に見えないところに様々な機能の埋め込まれたWebページのように。
メイン作品『風景一桜』は部屋の一番奥に掛けられた、3枚組の大作品だ。実はまだ制作中で、完成形は更に下段に3枚を加えた計6枚組となる構想だという。
遠目には満開の桜の樹を写したモノクロ写真で、岡山県の井原市にある桜並木だ。特別な景勝地ではないが、地元で親しまれている花見のスポットである。
至近距離に寄って注視すると、それが膨大な数の写真コラージュであることが見えてくる。それらは集合写真の人物、夥しい人の顔の集まりである。言わば「風景」が不特定多数の人の顔から出来ている。
かなり近づかないと個々の集合写真を判別できない、そのぐらい小さい人物・人の顔の集まりだ。これらは作者が収集した写真で、撮影された時代、人々の所属先、属性など細かなことは不明である。
ここで表されているのは、「風景」が不特定多数の人々の記憶、歴史から構築されてきたのではないかという考察だろう。思いの連鎖、眼差しの積み重ねと言っても良い。確かに私達は一人では「風景」を創出できない。ある場所・場面を特別なものとして切り出して見る見方、美しいもの、思い入れのある場所として眼差すためには、眼を受け容れてきた場であることと、この場所はどういった場所かという意味・歴史を継承していることが必要なのだろう。
同時に、見られることを逆算して場所自体が「風景」であるよう作られていく、人と場所の相互の関係性が何気ない「風景」を作り上げているとも言える。歴史的な景観、よい景観を守るために制定される条例などはその典型例だ。ただし本作では、制度や技術よりも人々の情念、個々人が抱く記憶の集合に焦点が当てられている。
同時期に開催された東京都写真美術館「風景論以後」(R5.8/11-11/5)と簡単に比較してみると、そちらは1960~70年代学生運動の最も熱かった季節に、非常に政治的な/政治に抗うための運動として見出された「風景」を扱っていたのに対し、本作は時代や思想を限定しない。もっと普遍的で日常的な感性に宿る「風景」の在り様を見ている。
もし仮に、その日常の感性や、何を風景として特に見い出すか、逆に何が見出されることなく埋設/隠蔽されているかを批判的に掘り返した時には、展示「風景論以後」の冒頭で扱われた作家陣の作品に接続されうるかも知れない。『風景一桜(井原堤)』で重ね合わされた無数の集合写真と集合的意識に、もし仮に、そこに無辜の民としての政治性、庇護された大衆の権力性などを指摘しようとした場合は、本作の見え方は一変するだろう。
だが作者の言葉と本作のニュアンスを読む限り、そうした権力・体制批判とは別の観点で作られていると見るべきだ。また、本作が無数の集合写真のコラージュであることからも分かるように、ここでの「風景」は作者を含む特定の個人の視座や姿勢を扱うものではなく、あくまで不特定多数の意識や視線を扱っている。
といった対比ができたりもして面白かった。
ギャラリースペース外、オープンストアー側にも過去作品の一部が置かれていて、過去作との関連性も振り返ることができた。2018年に「Shadow in the House」シリーズを発表して以来ご無沙汰だったので、よい復習になった。。
大坪晶は写真を扱い、撮影も行っているので当然ながら「写真家」ということになるのだが、カメラを身体性そのものとして専ら「撮る」作家というよりも、リサーチとコラージュをその手で編み上げる造形的な探求者の印象が強い。というより、切り抜き、切り貼りの作業量に度肝をぬかれる。手先が不器用で面倒くさがりの私には信じがたい作業なので、図鑑の固有名詞を切り抜いて貼り合わせたシリーズなどはもう驚異でしかない・・・。
( ´ - ` ) 完。