nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真展/KG】KYOTOGRAPHIE 2021(5)_⑨ンガディ・スマート  a)「多様な世界」、b)「ごはんの時間ですよ」

南アフリカシエラレオネ出身のンガディ・スマートは、フライングタイガー河原町店の3階と、出町桝形商店街(アーケード、「DELTA」)の2カ所でそれぞれ展示を行った。

前者は更に3つの小テーマから構成され、ドキュメンタリーからコラージュまで幅広く手掛けていた。後者ではコラージュ作品。実に多彩な才のある作家である。好きだ。

 

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◆【⑨-a】「多様な世界――アビッサの顔」@フライングタイガー コペンハーゲン

「⑨-a」展示では、3層の円状に組まれた木の壁面にて3つのシリーズが展開され、内側へと入りながら鑑賞を進めていく。

 

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無性に勇気付けられた写真である。

人々が好きなように装いをしている。身近な日用品や植物、木の実などを器用かつ大胆に使って手作りした衣装・装飾物をまとう姿、自由に思うまま顔や身体にメイクを施している姿、男性・女性が逆の性の衣装を身に着けている姿、それを楽しんでいて満足気な人々の姿に、シンプルに感銘を受けた。

 

これらは、コートジボワールの都市バッサムで14日間にわたって催される祭「アビッサ」の様子で、寛容と再生がテーマらしい。この語はンズマ族の文化的伝統を指す語でもある。確かに寛容だ。ハロウィンの仮装も悪くないが、頭や胸に作物や殻を持ってきて装いとするアビッサの様子はもっと根本的にクリエイティヴであり、正解をなぞっていない自由さが際立っている。

 

もっとも、「伝統的な衣装」と書かれているので、実はセオリーやパターンがしっかりあるのかもしれないが、手作りで日常的な価値体系を反転させている(日用品を祝祭の装いに、男女の役割を混線に)ところに痺れたのだ。特に「性」の役割・記号の交換における自由、寛容さに。見慣れない顔立ちの人種だからというのもあるが、実際、写っている人物が「男女」のどちらなのか、あまり判別できないという面白さがあった。

 

言うまでもなく我が国では、ジェンダーレスな顔立ちやメイクが近年、K-POPなどの影響もあって若い世代で広がりを見せている。が、全世代の「男性」全般からすれば縁遠いものだ。端的に美醜や違和感など外見上の価値評価が絡んでくる。超大雑把に言えば、多くの男性は、従来の家父長的制の内に安住することを批判されつつも、既存の価値体系の中で粛々と役割を果たせ、と暗に強いられている。判定のコードは厳しい。外すとえらいことになる。何なら警察や人事課に通報されうる。

 

その見えない拘束に対し、天晴な「自由」の姿を突き付けられ、揺さぶられた形だったのだ。この「一般の男性が女性の装いをする」ことを描く路線は、同じKYOTOGRAPHIE展示:シャネル×白井カイウ出水ぽすか「MIRRORS」でも見られた点だ。この路線は今後もっと現れてくるだろう。

 

 

勿論、この装いは「アビッサ」という祭りの中のもので、コートジボワール、ひいてはアフリカ社会の人たちが日常的に自由で寛容だという意味ではない。むしろマイノリティに対して厳しい面もあり、それは次の『バビのクイーンたち』のコーナーで取り上げられている。

 

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◆【⑨-b】「多様な世界――バビのクイーンたち」(@同会場)

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コートジボワールの最大都市・アビジャンドラァグクイーンのコミュニティをテーマとした作品で、二人のドラァグクイーンの姿を屋外で撮影している。

 

衝撃的な装いだった。性別すら超越していて、神の使いか星の精霊でも体現しているようだ。解説文を読んでドラァグクイーンと認識できたが、「ショーの要素も含んだ、過剰な女装をしたゲイの男性」の範疇に留まらない凄みと迫力がある。

これだけの世界観を体現するパフォーマーだから、さぞ名のある、支持されたアーティストだろうと思いきや、秘密のバーで催されていたドラァグクイーンのコミュニティは『様々な問題に直面したために現在はすでに解散してしまっている』し、二人は『人々の反発への恐れから会場を確保しづらいことなどにより、コートジボワールではこうした表現活動が困難であるということを認識している』とあり、社会から理解を得られず、受け容れられていない現状が大いにあることが書かれていた。

 

先ほどの「アビッサの顔」の寛容さとは真逆である。

私の目からは神秘的かつ崇高なものに見えたが、二人は一般の人々からどのように見えているのだろうか。秩序を揺るがす不穏な存在? 犯罪者? この表現や精神が社会から排除され、攻撃されているのだとすればあまりにも悲しい。そう感じてしまうのはポストモダン以降の先進国に生きる側の驕慢だろうか???

 

二つのシリーズを通じて実感したのは、ストレートな写真の説得力の高さである。社会がまだ多様な価値観を帯びていない状態では、状況をストレートに写すこと・その写真からストレートに情報を受け取ること自体が、大きな意味と説得力を持つことが分かった。昭和の日本で写真が辿ってきた経路と重なるところがあるかも知れない。

 

 

◆【⑨-c】「多様な世界――メタモルフォーシス=変身」(@同会場)

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一番内側の円では、セルフポートレイトを元に、20世紀初頭の黒人女性の写真などとを合わせたコラージュ作品が提示される。作者の内面であり、その身の置かれた状況であり、西欧から見たアフリカ人女性に対するレッテル=外部の内面であり、複層的だ。

 

特に取り上げられているのは、20世紀初頭に支配的だった原始的セクシュアリティ、すなわち欧州中心主義、男性目線のファンタジーの目線だ。象徴物として、アフリカの工芸品を想起させるシルエット、金星や豊穣のイメージが配される。これに、花や蝶などのイメージが組み合わされるのは、がんサバイバー(乳房切除)としての作者の困難な体験・状況と再生のニュアンスだという。

 

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かつての(今も?)アフリカの黒人女性を賞美し消費する視覚的イメージ、豊穣で原始的な肉感の「性」のイメージは一目で伝わる。実に肉感的な身体が重なる。作者はそれを身に受ける当事者であり告発する側だが、卓越した大胆なセンスと編集力によって、被害者目線は感じない。ともすれば「クール」と評したくなる見事さすらある。この肯定的な自己の眼差しもまた、私達に内蔵された黒人女性に対するレッテルがなせる視座だろうか? それだけではないと信じたい。

 

対して、がんサバイバーとしての私的な訴えは、テキストを読まないと写真からは分からなかった。作者のセルフポートレイトがどの部分だったのかも定かではない。私的な訴えを制御する力が極めて高い。ただ本作は自己肯定、「変身」が主題となっているから、全体として前向きなニュアンスへ仕上げられているのは間違いない。

要は、こうした図像を用いたコラージュを、アフリカ黒人女性である当事者の側から批評と自己肯定とを交えて提示していることが、最も注目すべきことだろう。

 

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フライングタイガーの品ぞろえも含めてなんかめっちゃ面白かったです。キャッキャッ。

 

 

◆【⑨-b】「ごはんの時間ですよ」@出町桝形商店街・アーケード

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「メタモルフォーゼ」で、ンガディ・スマートのコラージュセンスとパワーを思い知ったわけだが、それが遺憾なく発揮されているのが出町桝形商店街のアーケードだ。

昨年の「KYOTOGRAPHIE 2020」でも、アフリカ・セネガル出身のオマー・ヴィクター・ディオプがアーケードから巨大な作品を吊るし、商店街の店主らをコラージュで明るく元気よく提示しており、路線が継承された形となっているが、本作はダークさとカオス味が色濃く、作風としては対照的だ。

 

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昨年のオマー・ヴィクター・ディオプの健康的なコミュ力の高さに対し、ンガディ・スマートの映像の混迷、混沌の内へ誘う作風、まるで実験映画の一コマのようだが、一体これのどこが「ごはんの時間」なのか全く分からない。

ステートメントによれば、出町桝形商店街と西アフリカの食文化とをコラージュしているという。商店街の過去資料と、現在の店舗や店主の写真(新型コロナの影響により制作はリモートで行われ、現地撮影は依頼した)、商店街で売られている食品や衣料など商品の写真に、アフリカの80~90年代の雑誌、そしてキャッサバやフライドプランテン(バナナ)といった現地の食事が合わされている。

 

コラージュが大胆であるがゆえに、表現技法と非現実的さが前に出るのだが、掛け合わせのイメージ要素の引用元がとにかく多いことが、現実との太い関連性の根拠となっている。本作はイメージの遊戯にとどまらない。だが西アフリカの文化的背景や土地の風土が分からないので、このイメージの出どころは掴めていない。

 

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色の使い方が秀逸で、バイオな色調が強い。一体この感性がどこから来たのか気になる。しかも地元民の台所となる商店街でこの作風、色調をぶつけてくるのは凄い。食事、食欲と真逆の感性に思える。ステートメントでは日本とアフリカの共通点として、アニミズム、社会的ヒエラルキーへの意識、食の重要性を挙げているが、それだけにとどまらない何か深遠なセンスがある。

 

 

◆【⑨-b】「ごはんの時間ですよ」@出町桝形商店街・DELTA

KYOTOGRAPHIE・パーマネントスペース「DELTA」内も同作品の展示会場となっていた。展示というより空間が作品である。

 

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DELTA・1階はカフェスペース兼・展示スペースなのだが、写真だらけで耳なし芳一状態である。大きい作品はアーケードの天井から吊り下がっていたものと同じで、その下に敷かれた膨大な小さい写真群は、過去の商店街の資料的な写真、イベントの記念写真が主だ。これを1枚ずつ追っていくだけでも相当面白い。

メインのコラージュ作品も、アーケードの大型作品より明るく、色調が違うため印象がかなり違う。広告と食品、商店街の人物らが組み合わさって、特異ではあるけれど祝祭的なニュアンスがちゃんと確認できた。

 

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アートに慣れ親しんだ人間としてではなく、地元住民、商店街の常連さんの側に立ってみると、本作が物語っているのは、異国人は、我々日本人が想定している形態やニュアンスとは全く異なる形でこちらへの「理解」や「共感」を示し得るということで、こちらとしては戸惑いながらもそれを受け止めることで「交流」が成り立っていく、その意思疎通のプロセスを示していることが、本作の意義なのだと思う。昨年のオマー・ヴィクター・ディオプは例外的にコミュ力が桁違いに高く、こちらの想定の範囲内で応えるものだったということだろう。

 

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( ´ - ` ) 完。