nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真展】R2.12/4_古賀絵里子「BELL」@ニコンプラザ大阪 THE GALLERY

本作『BELL』は、古典安珍清姫物語』(あんちんきよひめものがたり)を写真で表現した創作的な作品だ。現在の現実に、物語の世界観が乗り移るようにして展開される。プリントがそれぞれ多種多様な額装で提示されているのは、それぞれのシーンが同じ時系列や視座の下にはなく、また現実と物語の間を行き来しているということを表しているのだろう。

安珍」と「清姫」とは一体何者なのだろうか。

 

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【会期】2020.11/26(木)~12/9(水)

 

本展示は、10月下旬から11月中旬にかけて「ニコンプラザ東京」と京都・出町桝形商店街のKYOTOGRAPHIE常設スペース「DELTA」での同時展開を経てからの大阪展開となる。

また、10月末に「ニコンプラザ大阪」が西梅田から本町と心斎橋の間へと移転したが、その3つめの展示でもある。

 

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安珍清姫物語』は様々なバージョンがあり、時代とともに語り継がれてきた名作である。人形浄瑠璃も歌舞伎もあり、時代の近いところでは「まんが日本昔ばなし」(1977)、映画(『安珍清姫』1960、市川雷蔵若尾文子)でも取り上げられている。原典に当たるのは平安時代末期の『今昔物語集』で、この時点では「安珍」「清姫」の名はなかったという。

 

あらすじはこうだ。

熊野詣に行く道中の修行僧安珍に、一夜の宿を貸した女性清姫とが親密になり、二人は下山したら再び自分のもとに立ち寄る(=夫になる)ことを約束した。しかし当然ながら修行の身なので安珍はそのような思いを断ち切り、心変わりの結果、下山するとルートを変え、清姫のもとを避けて帰ろうとする。

待てども安珍は来てくれない、旅人に聞いて真相を知る、翻意・裏切りから悲しみや怒りなどの情念の暴走から、清姫は蛇へと変身し、安珍を追う。安珍は川を渡り、寺(道成寺)に逃げ込む。これはやばいと釣り鐘の中に匿われたが、蛇となった清姫は血の涙を流しながら炎を吐いて、鐘ごと安珍を焼き殺す。骨と化した安珍

少し調べただけでも、話の細部の設定や描写は語られる度に何かしら変更されており、例えば結末も「安珍は焼け死にました、終わり。」という簡素なものから、その後、道成寺の僧の夢に蛇となった安珍清姫の2人が現れ、僧が法華経を唱えると人間の姿に戻ったという版もあるし、僧の夢には安珍のみが蛇となって現れる版もあった。

 


まんが日本昔ばなし 安珍清姫

まんが日本昔ばなし」は性描写、男女の仲の話を巧みに回避・薄めていて実にうまい。発狂後の清姫が、自制心ある人間と、情念の化け物となった蛇との重ね合わせで描かれているのも絶妙です。

 

清姫の設定も、初めは若後家という生々しい身の上だったのが、後にただの若い女性に変更されたり、安珍を追う際の設定も、自死してから蛇に変身したバージョンや、追いかけるうちに蛇になり、安珍を焼いた後に自死したバージョンなど色々あるようだ。 

いやすごい。誰が考えたか分からんけど迫力に唸らされる。「成人男性を鐘ごと焼き尽くして骨にする」というリアリティのある火力の設定が本当に素晴らしい。その鐘の行方を巡ってもまた後世の歴史でリアルの物語が続いてゆき、創造とリアルとが蛇のように絡み合って追い合う。

話の主眼としては法華経の効能を伝えることに力点があり、人でなくなってしまった者をも救うんですよ的な説話になっているが、後世の我々としては、蛇と化して男を追い続ける清姫の印象深さから「清姫やばい」と個人の話に還元するか、「女性の執念、情念は怖い」と教訓譚めいて主語を広げるのが常だ。狂気のストーリーが立っている分、エンタメ的に消費しやすい。

 

本作『BELL』はそうした既成概念から踏み込み、『誰もが安珍であり、誰もが清姫である』という視点を持って、現在の日常の中、実際の生活の中で皆が抱え、皆が見舞われる情動などに目を向けて作られたという。 伝説的な古典を現実へと染み入らせてゆく観点を宿したのは、古賀氏が妙満寺の住職と結婚し娘をもうけたことと無縁ではないだろう。京都の妙満寺には、清姫安珍もろとも焼いた釣り鐘の二代目が収められている。

 

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作品には男女の仲、追う・終われるの関係、情念の昂ぶりや染みつきが表されている。卒塔婆に文字を入れる男性、男女の白黒の証明写真、暗く真っ赤な写真の奥で佇む男女・・・これらの人物らはこの世ともあの世とも付かないところに、夢の中に居るようにも見える。燃え上がる炎や炸裂する花火のイメージは現実の感情、生命の昂ぶりに見えるし、現実感が揺らいで別の世界へ繋がるものにも見える。

同時に「鬼」も現れる。黒い服の上から鬼の面を被った女性で、巨大な目が睨みを効かし、その思考や感情を知ることはできない。一体何のために顕現したのか。伝説上の存在だが、その姿は紛いもなく日常生活の中にはっきりと写っている。買い物の最中なのか、財布を開けてお金を扱っている姿には、鬼が現実に紛れ込んでいるというより、現実を生きる人間が本性として、自然に「鬼」を宿しているのだと実感する。

ここでは、一般人も強く深い情念の赤い滾りや揺らぎによって、「鬼」へと変貌する可能性を過分に秘めているとも取れるし、逆に、人は普段は鬼のように不安定で荒ぶる存在であるが、本当の強い情や思慕に目覚めた時、美しいヒトの姿を取り戻すのだとも見ることも出来るだろう。桜の咲き乱れる中で誰かと抱き合う女性の後ろ姿、その頭部は人間のそれで、しなやかに通る背から脚にかけての曲線にそう感じた。だが上着の背には、鐘に向かって業火を吐きつける龍か蛇の姿が刺繍されている・・・清姫は、鬼は、私達とは切り離すことの出来ない存在であるようだ。

 

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だが、『安珍清姫物語』と異なり、『BELL』では「鬼」と対になる存在がある。子供(作者の娘)の存在だ。

子供も鬼と同じで、喜怒哀楽がはっきり表れていない状態では感情や思考を読むことが出来ない。神妙にしていても、今その状態が何秒先まで持続するかは神のみぞ知るところだ。幼く無垢なため、高度にこじれた情や絆からは無縁で、それゆえ「鬼」へと転じることはなさそうだが、逆に子供は子供であるというだけで鬼と変わらぬ脅威、こちら側(大人)の秩序を揺るがす存在を秘めている。

 

そんな小さな、予期できない暴威の存在を、作者は全身で、愛をもって受け容れている。女性の背中に描かれた謎の線描は恐らくこの娘が描いた、理性でも激情でもない、名の付けられないところから来た線だ。

ここで唐突に、写真は物語を超えて、現実のシーンと一気にリンクした。子育てと、いつも通りの日常生活、そして作家活動との兼ね合いには凄まじい困難があったことを察し、その騒乱と混沌が作品世界に逆流入した。色々と大変な中でこの物語を編み上げたことを想像すると、本作『BELL』は男女の情の物語の先にある、母になること、子を育てることの内側を描いた作品にも見えた。鬼の面を着けながら、桜の咲く川沿いの道に立つ女性のカットは、裸で子供を抱く後ろ姿のカットと並ぶことで、厳しい育児と日常の雑事の日々の中で、泣きそうになる「自分」の素顔を隠しながら、つかの間の独りの時間に佇んでいる姿ではないか、と錯覚した。『MOTHER』というタイトルすら脳裏に浮かんだ。単体で見た時には全く感じていなかったことが沸き上がった。

 

それは、『安珍清姫物語』が千年かけてバージョンを重ねても描かれ得ることのない、遥か彼岸の話であり、古賀氏の前作『Tryadhvan』(2016)で授かった新たな命の、まさしく正当な続編として拓かれた現在地であると思った。

 

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 ( ´ - ` ) 完。