( ´ ¬` )人類史の終わり=未来から始まる、「逆側から来た神話」という感の映画。延々と建造物がクローズアップされ、女性の声で20億年未来からのナレーションが語られる。なんだこれは。私は何を見てるんだ。そうか神話を聴いてたんだ。
( ´ ¬ ` ) 「観る」というより「聴く」ような鑑賞体験となった。
チラシ裏面の文面から察するに、理解不能なスケールでのSF的叙事詩なのだろうと想像したが、観てみると「映画」というより「万博パビリオンで流れる未来の太陽系メッセージ映像」という趣だった。星と人類の歴史を見渡す映像だ。だんだん創作物という気がしなくなる。
解説文の大半がアーティスト「ヨハン・ヨハンソン」と、旧ユーゴスラビア共和国の共産主義時代に遺された巨大建築物・戦争記念碑「スポメニック」である。なんちゅう映画や。実際そのとおりで、スポメニックを白黒でひたすら映し出しながら、ヨハンソンのずーーん、ドゥーーーンとした音楽が続き、そこに、行くところまで行ってしまって、行き詰った未来人類からのメッセージが半ば機械的に読み上げられる。
建築と音楽と言葉。登場人物もなく、情緒や物語もない音楽、人智を超えたところに建つ建築物、そして直接的に届く言葉だけが「物語」を牽引し、時間間隔をもたらす。立体性や奥行きを失った建築物は、真空の宇宙に走る重力を見ているかのようだ。
ずぅーん。
この予告編のような展開が、そのまま約70分間続く。未来の果てから照り返してやってきた言葉を、超時空の中で受け続ける体験である。神という分かりやすい設定すらない。今の私たちとかけ離れた別の身体を持った「人類」が直面していったその先の歴史を、ただただ聴くしかない。未来だけから構成された言葉。だから「逆側から来た神話」なのだ。
ヨハン・ヨハンソンって誰? 坂本龍一が賛辞のコメント寄せてるから凄い人に違いない。
( ´ - ` ) 2018年にお亡くなりです。著名な方のようで。『最後にして最初の人類』は、2017年にイギリスのマンチェスターでライブパフォーマンスとして上演された後、ヨハンソンの逝去によって音楽が50%ほど未完成となっていたが、引き継がれてこのように映画として完成された。
他の音楽どないよ。
( ´ - ` ) ジャンル分からん。けどきれいね。YouTubeで出てくるのはどれもエレクトロやポストロックというよりクラシック寄りだった。本作の音楽はもう何て呼んだらいいか分からない。なに?エレクトロ黙示録?
超未来と現在とが混線させるスポメニック建築物の映像に乗って、本作の物語として作中で語られるナレーションは、1930年に発表されたオラフ・ステープルドンのSF小説『最後にして最初の人類』の引用である。その凄まじく壮大な規模の、未来人類史(※現代から20億年後まで、第18期の人類までの変遷が、全16章立てで描かれている)のうち、映画では最後の14~16章が引用されている。
登場する「人類」は、もう我々の知っている人間の姿形や生態とは大きく異なっており、寿命も胎児期25年、幼児期100年、青年期1000年とか、意味不明なスケールになっている。何度か絶滅に近い状態に陥り、また一から進化し直したりしている上に、進化の過程で別種となった新旧の人類同士が滅ぼし合ったりもしている。テレパシー能力、集合意識、過去の人類の意識へと遡り憑依する能力。それ人間ちゃうやん。共産主義時代の建築物を映されながら、異形に次ぐ異形となった人類の報告を受ける私達。もう誰の話ですかそれ。
そして年月がすごいスケールで経過しているので、太陽がだんだん膨張しており、地球に居られなくなった人類は生存の可能性を求め、海王星に移住する話をしていた。しかし複数の人類種がいたうち、知性のない種族しか海王星には適応できなかったため、またすごい年月をかけて進化することになったと・・・
その人類が知性を手に入れた頃には、あと3万年で太陽が爆発するところにまで迫っていた。太陽系そのものが消滅する運命から逃れられない。人類は紫色の太陽を見ながら、その壮大さに恥辱と畏怖を感じたという…。
漠然とした鑑賞の印象論と、掴みどころのない粗筋だけでは、本作タイトルの意味が理解しかねるだろう。ここでパンフレットに掲載されていた、明治大学教授・浜口稔『ステープルドンの円環宇宙と音楽』から引用する。
最後の人類は、朗読からも察せられるように、同じ種とは思われないほど著しい個体差があるが、強力なテレパシーで一人類種としてまとまっている。しかもテレパシーを介して長大な人類の興亡を一種の「時間遠近法」的眺望のもとで観察することができる。最後の人類として地球の歴史に幕を引く前に、大勢の同胞で分担して過去二十億年の多くの時間点で進化し興隆した各人類の選り抜かれた個人にテレパシー憑依し、その個人を介してそれぞれの文明をくまなく「経験」したあと、その経験を集団的精神のなかでテレパシー共有する計画を実行している。その共有された人類史的経験を私たち<最初の人類>に語り聞かせているのだ。
未来の「最後の人類」は、テレパシーを使えること、個人の意識と集合的な意識とを行き来できること、そして過去の人類(最初期の人類は私達)の精神へと憑依し記憶などを経験できる。そうして知覚され、先へと刻んでゆくこのナレーションこそが、未来から届いた――憑依によってもたらされたものなのだ。
原作のあらすじについてはこのサイト『ポップの世紀 ー20世紀ポップカルチャー史とその後ー』に端的にまとめられており、大いに参考になる。読みたくなくなるほど壮大な話だ。
http://zip2000.server-shared.com/last-firstman.htm
脱線するがこのサイト、今では貴重な2000年代初頭のテキストサイト作りながら、今も継続的に更新されているようで、BLM(ブラック・ライブズ・マター)の話題などもある。そのうえ記事のジャンルも時代も網羅的で、古き良き博覧強記の怪物的情熱を見せつけてくれる。天然記念物だ。
このようにして、こんな感じで、映画「最後にして最初の人類」でした。
( ´ ¬ ` ) わけがわからんかったよ。
何を観たのか自分でも判然としない、超時空に叩き込まれた気分になったが、抑揚がなさすぎて途中でけっこう寝落ちしていた。体調がハイなときに観ましょう。言葉が凄まじく壮大なようで、どこか現実感に立ち返らされるのは、建築物の映像がどこまでも現世代の「現実」そのものだからでしょう。
そう、映像にはドキュメンタリー性もあった。旧ユーゴの、旧共産圏の建築物の「今」について、飛躍を押しとどめるものがあった。映像は神話を語れない、現実を呼び込むのだと感じた。