nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】R5.8/5-12/25「万博と仏教」@高島屋史料館

キャッチコピーオリエンタリズムか、それとも祈りか?」が秀逸で、まんまその通りの企画である。万博(万国博覧会)と「仏教」の関係について、1970年大阪万博がそれ以前の万博と何が画期的に異なっていたのかを明らかにする。

 

 

万博と聞くとじんましんがでそうな関西人の私である。

 

2025年開催予定の「大阪・関西万博」が予算増に次ぐ予算増、いかに物価高や人件費の高騰やむなしとはいえ、利権か意地か維新流の行政経営術かそれともパァか、まさに「万博」という催しそのものの意義が見失われている真っ只中にある。しかも入場料高いし。広報に駆り出されるミャクミャク様の微笑みが気の毒極まりない。

 

では「万博」とはそもそも何だったのか? 本展示は1970年大阪万博の果たした意義を「仏教」という観点から、それ以前の西欧主体の万博と比較して提示してみせる。

 

■展示の概要

展示物は、19世紀~20世紀前半の万博、大阪万博に関する写真や冊子、パンフレットなどの紙資料、それらをまとめた説明パネル、大阪万博の映像、仏像の模造品などだ。仏像や「月の石」などのオブジェのみ撮影可だ。写真の代わりにチラシで紹介するが、チラシ裏面のとおり仏教的なイラストや写真が主である。

 

展示が語ることは二つある。一つは1970年大阪万博以前、欧米列強が主体となっていた時代の「万博」における「仏教」の意味だ

 

■万博における「仏教」

簡潔に言うと、日本が西欧列強に向けて自国をアピールするために用いたのが「仏教」であった。急ピッチで西欧に追い付こうと近代化を急ぐ明治政府が、しかしパリやロンドンという西欧列強のど真ん中で分かりやすく「日本」という国家を伝えるために活用したアイデンティティーこそ、近代以前から抱えてきた大仏の顔や姿形であり、日本家屋や平等院鳳凰堂などの建築様式であった。パビリオンとして堂々と目立つように打ち立てられる大仏。

 

西欧のオリエンタリズムの期待に応えるために「仏教」が動員されたと言えよう。

その構造は日本国内で催された「内国勧業博覧会」においても活かされ、やはり分かりやすい「仏教」イメージが反復されてゆく。つまり明治以降の近代化する日本は、西欧から向けられるオリエンタリズムの眼差しを内面化していたことを物語っている。

 

もちろん近代化の成果として得られた最新技術を国内各地、大衆に披露する場であったことは間違いなく、例えば第五回・内国勧業博覧会では水族館やエレベーター付の塔、夜間ライトアップなど、まるで現代のような最新鋭の技術の祭典となっていた。

www.ndl.go.jp

 

 

さてそのような構造が、1970年大阪万博では一変する。これが本展示で語られる二つ目のポイントだ。

1851年にロンドンで万国博覧会が開催されてからというもの、長らく欧米=キリスト教圏が主体となって開催してきた万博だが、大阪万博では初めて仏教国が主催となったのである。

www.mofa.go.jp

 

大阪万博こそ戦後日本の近代化、いや、文字通り万国の右肩上がりの成長・発展を祝う超祭典ではないのか? 大阪万博は私が生まれるよりずっと前の催しで、伝え聞いてきたのは現在とはかけ離れた、伝説のような熱狂であり、その多くは諸国の科学技術と人類の発展、高度成長期真っ盛りの祭りとしての像である。が、それだけではない宗教的側面が資料によって示されていた。

 

それはその通りだ。しかし「仏教」の扱われ方と立ち位置がそれまでの万博とは全く異なる。仏教をモチーフとした像や建築は随所に織り込まれ、同じく仏教を信仰する諸外国らとの交流の場となっていた。

例えば「古河パビリオン」はかつて存在したという東大寺七重塔を模した建築物で、中身はコンピューター類をテーマとした近未来的な内容だが、アテンダントらは実際に東大寺で研修を受けて 。地方自治体館」には興福寺金剛力士像が置かれ、「富士グループパビリオン」では巨大スクリーンに曼荼羅を映し出した。

www.expo70-park.jp

www.expo70-park.jp

www.expo70-park.jp

 

これらは国家の宣伝、オリエンタリズムへの期待に応えるものというより、仏教文化の発信と受容、それらが交流する場として機能していたと言えるのではないか。

 

展示では「仏教表彰が初めて祈りの対象になった」と言い表されている。

 

紹介されていた仏教系の参加国を列挙すると、大韓民国中華民国、香港、カンボジア、タイ、ネパール、インド、セイロン、アフガニスタン、RCD館(地域開発共同体:トルコ、イラン、パキスタンが参加)、ビルマなどだ。

日本の海外渡航が自由化されたのは1964年、1970年はジャンボジェット機が初めて就航し、海外旅行者数が年々急増していく過渡期に当たる。それでも年間66.3万人ほどで、現在の日本(コロナ禍前の2019年)だと単月で140~210万人に達するのだから、海外、しかも西欧以外のアジア諸国を知る日本人というのはごく少数というべきだろう。大阪万博は各国の文化・風土をダイレクトに伝える一大交流の場として機能したことが想像できる。

www.asahi.co.jp

 

■閉幕後も受け継がれたもの

また興味深いのが、一部の仏教施設やオブジェは移設され、今も現存していることだ。万博では、最新技術の粋を集めた個性的なパビリオンの数々がほぼ全て、会期終了後には夢幻のように取り壊される。半ば恒久的な保存を展示物が継承されてゆくのは例外的だ。

そのような扱いになっているのが、「全日本仏教会」出展の「法輪閣」という無料休憩所で、今では大阪・四天王寺の「庚申堂」として現存している。

www.shitennoji.or.jp

 

ラオス館」はなんと長野県諏訪市霧ヶ峰「国際霊廟中観山同願院 昭和寺」として移設された。掲示されていた写真ではどうも建物がボロボロのようで嫌な予感がしたのだが、残念ながら公式サイトも見つからない。Web情報はどれも朽ちるに任せているようなレポばかりで、使われているのか怪しくなってきた。

tanoshii-daisuki.com

washimo-web.jp

 

他にも映像では、「韓国館」で展示された石窟庵の仏像レプリカは、大阪の在日韓国人学校に移設されていることが紹介された。多方面で残されているものがあると知って驚きである。2025年大阪・関西万博にこのように残せるものが果たしてあるのかどうか・・・(カジノ事業?笑)

 

 

■オブジェ:仏像レプリカ、

展示の目玉は、極めて精巧に作られた仏像レプリカだ。これらは万博「日本館」の「奈良の文化」コーナーで展示されていたものだ。

見た目には木造だがFRP製(樹脂で繊維を強化したプラスチック)だという。意識して疑って見ないと木造にしか見えない。今も変わらず生き生きとした姿で、健在である。普段どこに眠っているのだろうか。大阪府所蔵となっているが。棄てられたりしませんように。

 

カラフルな石は常滑造形集団の「月の椅子」で、座って映像を観ることができる。大阪万博でも実際に展示されていたという。これらは本会場と、高島屋史料館TOKYOの展示「陶の仏」(R5.9/16~R6.2/25)とを結びつける試みでもある。「陶の仏」では常滑の陶彫をテーマとし、近代の仏像・仏教の魅力を再発見しようとするものだ。

やや低いが意外と座っていられた。

 

展示の最後の方に出てきたデカブツは「ラオス館の木鐘」で、万博当時は来場者が自由につくことができたという。ここでも優しくついてOK。良い音がした。

これも所有者が「昭和寺」となっており、「ラオス館」とともに霧ヶ峰の山の中に眠っているものと思われる。

 

 

 

■おまけ:正面エレベーター・ホール

実はこの史料館の建物、「国指定 重要文化財である(2021年指定)。どのぐらい貴重かよく分からないが貴重である。

 

1923年に松坂屋大阪店として建てられ、4期にわたる増築工事を重ねたうえ、松坂屋の移転に伴い1968年に高島屋東別館」となった。

史料館のフロアから奥に行くと正面エレベーターホールがそのままの姿で保存されている。これが見事な威容を誇っていて、モダニズム建築とおして大変貴重なものだと分かる(さっき分からんと言ったのに秒で意見翻すやつ)

古き良きデパートの記憶を髣髴とさせる、素晴らしい意匠だ。現代の建築物の多くはWebページのようにシンプルで平面的だが、20世紀初頭~中頃のデザインは立体的かつ職人的に凝った造形美がある。

 

ハリボテ的に、エレベーターの表側しか見ることが出来ないが、

エレベーターは客用に8台設置、すべて地下2階から屋上まで通じていました。

(中略)東洋オーチス会社のギヤレスマイクロドライブ式エレベーターは31人乗り、毎分350フィート(毎分約107m)のスピードで当時の最新式でした。

現在、当時のかごは撤去されていますが、屋上には機械一式を投じのまま保存しています。

ううむ・・・ 機械一式も見たい、

 

高島屋東別館」は「シタディーンなんば大阪」というホテルが入っており、1階部分は「コミュニティーフードコート大阪・難波」である。思った以上に観光的な施設だ。というのもすぐそこがクールジャパン(死語)でお馴染みの「日本橋」である。

communityfoodhall.jp

 

 

■おまけ(チカラめし)

もっとも、同行者に気を遣うことなくメシを食うなら、高島屋東別館すぐ手前(端)に隣接する、ここ一択だろう。

今や絶滅危惧種、今となってはここ大阪・難波の1店舗しか現存していない東京チカラめしだ! まさかの!東京関係ないやんもう!(2023.11/14、千葉県新鎌ヶ谷店が閉店・・・まさかのラス1になってしまった汗汗汗)

 

チー牛をしました。

店内は肉を焼く煙で服に匂いが付きそうだったけど、まあ全然いい。

美味かった。ジャンクフードは正義である。うまうまヽ(^。^)ノ

満員でした。みんなよくわかっておる。

 

( ´ - ` )完。