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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】R5.12/23-R6.1/28「Study:大阪関西国際芸術祭Vol.3」船場エクセルビル(5~6F)

「Study:大阪関西国際芸術祭 Vol.3」、本町の船場エクセルビル会場にて沓名美和・緑川雄太郎キュレーション『STREEET3.0:ストリートはどこにあるのか』展。

残りの5・6Fをレポ。カオスがやってくる。それは果たして無秩序なカオスか?

(会期がR5年12/28からR6年1/28まで、土日限定で延長されました)

 

前半:1~4Fレポはこちら。

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「Study:大阪関西国際芸術祭 vol.3」他会場

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◇5F_石谷岳寛 + Chim↑Pom from Smappa!Group《Archive of Street》

カオスだよ( ´ ¬`)

能登半島地震の被災地ではない。展示である。

様々なアート展示を見慣れている自分でもこの会場は面食らった。ゴミだ。広い部屋がゴミだらけ。ゴミしかない。

 

念のため一周回って何が落ちているか見てみたが、特別なもの、作家手製のオブジェやメッセージに繋がる紙などは無く、全て「ゴミ」、ないしは一般的な備品である。徹底してどれも個別には商品価値のないもの、美術品とも見なせないものしか無かったのである。なので積極的に「ゴミ」と呼ぶことにした。

 

ゴミの散らかりと堆積の中に「道」が出来ている。

「道」は、Chim↑Pom(現、Chim↑Pom from Smappa!Group)が2022年2~5月の森美術館での回顧展Chim↑Pom展:ハッピースプリング」で展開したプロジェクト名である。今回は2017年以降に展開されてきた「道」プロジェクトのアーカイブとして、ゴミと道のインスタレーション、前方中央のスクリーンに森美術館のプロジェクトをまとめた映像が流される。

 

つまり映像を見ればこの本気で積み上げたゴミの「道」の意図が分かる。下記の対談リンクを読むことでも伝わるだろう。

artovilla.jp

artovilla.jp

 

展示を鑑賞していないので映像とWeb情報から考えてみる。森美術館での《道》は美術館という場/制度に対して、何らかの表現をしたい個々人に「居場所」を開く試みだったようだ。

 

森美術館は民間運営とはいえ、美術館という施設である以上、超高額な貴重品・美術品を保護しながら広く一般に公開する役目を負うために、展示に対しても鑑賞者に対しても制度と制約でガチガチに縛られた場となっている。ペン1本自由に取り出し使うこともできない。それゆえに/そうだからこそ、権威的な場でもある。

一方で美術館は、入場料を払えば誰に対しても開かれた「公共の場」である。なおかつ、現代アートというものの傾向/内在する使命の一部として、マイノリティ、社会的弱者、声を上げられない存在や地域などへのアプローチを行い、その存在を支持したりすることが期待されている。もっと直接的な指向としては反権力、富めるものがより富む資本主義社会に対する異議申し立てを行い、社会システムの改善を提案する側面がある。当然ながら展示の大前提としても、多様性、持続可能性、脱・反権力的な価値観を肯定し、帝国主義や資本主義、支配や暴力に抗することが求められている。

 

自由や多様性を謳いながらも、現実的にそうした表現・活動を導入しようとすれば、厳密な制約にことごとく引っ掛かる。譲歩はあれど基本的には美術館ルールに合わせた形で展開することになる。ここにある制度の矛盾、抑圧の力学を一つずつ解き明かし、「決まり」の解釈や運用を拡げ、時に制度の運用の中に孕まれた慣習や欺瞞を排しながら、表現者にとって自由であるような「道」を美術館内に導入する。

それがChim↑Pomの《道》であるように思われた。

 

《道》映像では企画・構想から準備、開催まで、日数の表示と共にどのようにプロジェクトが展開していったかが示された。美術館という、何なら寺社仏閣や病院よりも決まりにうるさい、制度と制約の結晶体のような場で、何が出来るのか、どこまでなら線引きを拡げられるのかを試していく。これはChim↑Pomによる社会的な闘争であろう。刺激的な取組みである。

同時に、美術館側には同情というか、調整の負荷と苦労が凄かったであろうことを想像させられ、泣いた。これは私のような凡百な勤め人にとっては「Chim↑Pomの要求にどこまで向き合い、なおかつ制度やルールの最終ラインを意識しつつ、双方をどこまで”立てる”ことができるか調整シミュレーションゲーム」としても作用するのだ。地獄である。そら、思考停止して「道はだめです」「床に座り込まないでください」と言い続ける方が、圧倒的に楽だ。それを許さないのがこの作品で、プロジェクトの力の対象はむしろ美術館側なのかもしれない。

 

ただし反権威・反体制を徹すことが目的ではない。このプロジェクトの展示終了後、皆で掃除・後片付けを行っているところが映されている。ここが重要で、制度の領域内に確保した「自由」の後に、再び制度の復元を行っている。つまり原状復帰の責任を果たしている。ここを見逃してはならない。公道でのデモ行進を想像すると分かりやすい。デモを行うなら示威行動や暴動などと見なされぬよう警察に届けを出したり、どういう行為までなら許されるのかを確認し、事後に散らかさないのも当然で、次のアクションに繋げていくことが肝要である。印象に残るシーンだった。

 

対して今回の「Study」会場があまりにゴミでしかないのが残念だ。本当に比喩ではなく完全にゴミなので何とも言えない。特に見い出される意味や意義がない。実施済みのプロジェクトのアーカイブ、残滓ということなのか。それにしても、ゴミであり、ゴミしかない。

ゴミが指し示す道とは? ゴミに通された道は部屋を一周してまた部屋を出るだけで、新しい展開はなく、あるとすれば森美術館での映像だけだ。

 

「今・ここ」から始まった「道」の先にあるものを、未来と喩えるならどうだろうか。

「今・ここ」=まさに地理的・時間的にいうと「大阪」である。そうすると、近い将来にあるのは言うまでもなく2025年大阪・関西万博。

 

この会場が示すのは「万博とそれに連なる全てが夥しいゴミでしかなく、ゴミに尽きる。」ということの喩えと揶揄であろうか。

 

だとすれば「ゴミしかない」という評は、展示の程度が低いと辛辣に指摘していたはずが、すり抜けて「今の大阪、この先に来る大阪(万博)はひどい」という批判へジャンプすることになる。正鵠を射すぎていて、素晴らしい作品ということになる。

どうしようか。

「※この関連展は2025年日本国際博覧会の後援はお願いしておりません。」

 

大阪・関西万博に接続されるアートイベントには参加し、アート展示という場には協働するが、万博という本丸の興行にはボイコットを突き付ける。相手の土俵に上がりながらもそこでは相撲はとらない。いや、、相撲の土俵には上がるが、女性の姿で上がるとか、車椅子で上がるとか、そういう、土俵の上でルールそのものを問うような。

この解釈が正しいかどうかは分からないが、ステートメントの終わりに書かれたこの小さな注釈が、広い部屋の多量のゴミの意味を転じさせた。盛り上がってまいりました。おほほ。まあ万博行くけど私。(※前売り券を一人で2枚も買った。狂っている) おほほ。   ああ、

 

 

 

◇6F_釜ヶ崎芸術大学釜ヶ崎アーツセンターあかんかな構想》

毎度お馴染み、最上階は釜ヶ崎芸術大学の出張場となる。5Fの階段からそれは始まっている。入る前から釜芸は香ってくる。周囲に楽し気な気配を撒いて引き付けてくる。祭りのようなものだ。

まだ階段の踊り場を見上げているところなのに、完璧に「釜ヶ崎芸術大学」。書道だけで世界観を十分に醸し出すことができるのだ。一見カオスだが、見慣れてくると味わい、情緒、人生の機微を感じることができる。この豊かさは人類が文字を手で書いていた時代ならではのものだろう。今から4~50年後の総合的困窮者がどうなっているかは分からない。

上田假奈代代表の詩が立てかけられている。NPO法人「ココルーム」代表だが、肩書には「詩人、詩業家」とあるように、詩が本来の作品なのだった。今では西成の無数の人々から詩を引き出すことに才を発揮しているわけだ。

 

入口はカオスながらまだかなり整然としていて、西成やココルーム関連の資料を配布している。カオスな祭りに見えるがサブカル的なものではなく、元・日雇い労働者など西成の人達の生活・人生を支援する取組みが本来の使命なのだ。

 

>西成エリア「釜ヶ崎芸術大学」もとい「ココルーム」見学レポはこちら。

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会場には靴を脱いで上がる。カウンターからそこまでの壁も大量に書道やら絵やらが貼り出されてひしめいている。コラージュではなく一つ一つが別の人の手によるもので、個々に独立した作品である。が、そのなんとなくの集合が「釜芸」という表現を成立させている。それは場所であり、アーカイブであり、インスタレーションであり、生活なのだ。天使になる。はい。

何かしらそれぞれに秀でた芸とこだわりがあり、人は皆それぞれに表現者なのだと気付かされる。詩人なのか俳人なのか、絵描きなのかマンガ家なのか。カワセミ

 

会場内はちょうど上田假奈代代表がトークを行っているところだった。撮影に忙しいため聴講はパスして見回らせていただく。

 

「ココルーム」、「釜ヶ崎芸術大学」の成り立ちの話。

元・日雇い労働者のおっちゃんらの居場所作りとして「ココルーム」を立ち上げるが、自ら稼がないといけないのでカフェ(のふり)をして運営することで収益化を行っていたが、10年前あたりから中国系のガールズバーなど女の子のいる飲み屋が増え、西成のおじさんたちがそちらに行ってしまい、「ココルーム」利用者が減ってしまったという。そこでゲストハウス機能も追加し、今の運営形態になったとのこと。

 

おっちゃんたちは日本人女性に優しく接客されるより、自分より日本語の拙い中国人女性に接客される方が、癒される?のだという。

想像を絶する孤独というか、どうしようもない切なさを感じた。言葉。ただ接されているだけで何か、傷つくとまでは言わないにせよ、自信をなくしたり気が安らげられない。劣等感か、主導権か。家庭やパートナー、職場でもそれは大いにある。言葉が通じるがゆえに些細な違いが負荷になり引け目を感じてしまうということ。

 

部分的に聞こえてきたがめっちゃ面白い話だった。ぐう。

張り紙に「ジェンダー問題」とある。これまでガテンな日雇い肉体労働世界にいたおっちゃんらは、「女性」の尊厳や権利、ジェンダーやマイノリテイと差別といった意識の社会と異なる社会で働いて生きてきたので、普通に昭和のままの感覚で悪気なく女性らに接してしまうため、基本的なところをレクチャーする機会を設けた…といった話もなされていた。

ジェンダーに限らず「釜ヶ崎芸術大学」では多数の学びと表現の機会が催されている。大阪大学も「大阪大学×SDGs」として関与したり、知れば知るほど多彩で深い取組みが芋づる式に出てくるのだ。

cocoroom.org

学ぶ機会と発表・表現する場があると、人間は幸福度が上がる。これは間違いない。別人になると言って良い。近代から現代に移行できたのはそこが大きいと個人的に思っている。勉強します。はい。はい。

 

安保。釜芸。闘争である。わああ。

 

下剋上」という言葉を釜芸ではよく目にする。闘いなのだ。生きることはたたかうこと。権力を見よ。奴らは見ようとせねば見えぬ。見れば、姿を見れば、闘えるのだ。オオオ。

「文蝶飛」とは何だろうか? 詩的な言葉だ。

おひげ。真。愛犬。

 

骸が。上田代表の即身仏姿(分身)だろうか。拝んでおこう。

誰でも書道ウェルカムなのが特徴。去年は3枚ぐらい書いた。

 

禁酒はだいじですね。なぜか朝から牛乳みたいに飲むからなあ西成おっちゃん。

 

空間の一部として書いたものが天井と壁を埋め、天井から垂れ下がり、空間そのものとなっている。今回はタテ・高さの埋まり方が前より強いような気がした。書道の量がすごいんや。

「美しく 啼け」。これはもう優勝です。熟練のコピーライターの仕事である。すごい。

「夢」「無」に両脇を挟まれた「うさぎ」も最高です。すごい。

こういう、人生の疲れと悲哀の中から発せられた音のように、自然とこぼれだした言葉というのは、別格の緩さと強さがある。イキッたラーメン屋のポエムやタワマン広告ポエムなどと対置されるべきだろう。脱力・悲哀と、イキり。どちらも正反対の方向で「粋」ではない。面白い。くっくく。

 

 

そんな詩あふれる習字の壁の端に、会田誠の絵画があった。

 

◇6F《釜ヶ崎芸術大学 会田誠の部屋構想 ―だから、わたしは愛したい―》

梅干しの絵画と無地の段ボールを貼り合わせた壁。釜ヶ崎芸術大学スペースの一番奥の壁、ここだけが奇妙な空白地帯となっている。段ボールにはラフな下書きが描かれている。うわっしまった。開催初日に来たので、これから筆が入って完成されるのだった。

(本人のX投稿で、この日の夕方に現地を訪れ、両脇の絵を完成させたことを知った。自身のおにぎり仮面と、大阪・関西万博のミャクミャク様が並んだ。)

 

掲げられた小さな絵は見た目の通り《梅干し》シリーズといい、2021年ミヅマアートギャラリーでの展示「愛国が止まらない」で発表されたものだ。

展示タイトルとこの表象から、素直に「ああ、梅干しのスケッチだ」と思う純朴な人はいるまい。親しみ深い食文化の一粒も会田の手にかかれば、象徴としての「日の丸」をどうしても連想してしまう厄介な爆弾と化す。

会場では旧日本兵のねぶた式亡霊めいた巨大オブジェ《MONUMENT FOR NOTHING V〜にほんのまつり〜》と共に展示されていたようだ。尚更、日の丸の連想は避けられない。強烈な展示である。

mizuma-art.co.jp

2021年はまだ安倍晋三殺害事件が起きる前で、会期はちょうど東京2020オリンピックに重なっていた。つまり一定の自民党安倍晋三寄りの「愛国」が効いていた時期でもある。そんな時にたいへんな挑発的な作品を出したものだと思う。尤も、彼ら自民党フォロワー、安倍晋三フォロワーのリテラシーと習性では、天皇の写真を燃やす(と誰かが分かりやすく指摘して火をつける)ぐらいの分かりやすさがない限り、これらの意味を解しようと試みることすらないだろうが。

 

本会場キュレーターの沓名美和によると、会田誠という一筋縄ではいかない、「ちょっとやばい面倒くさい人」で、「やばく、面倒くさく、ときに馬鹿々々しく、そしていじらしく愛おしいアーティスト」と表している。

そして、わざわざ会田誠釜ヶ崎芸術大学のスペース内にぶつけて混ぜたのは、「スマートでルールにのっとった物事が評価されるこの時代は、こうした”ちょっとやばい面倒くさい人”たちを隅に追いやってしまう厳しい風が吹いている」、つまり多様性の時代ゆえに声高な主張によって排除されてしまう人々がいることと、同じくスマートさからは排除されてしまいかねない釜ヶ崎の人達とその表現を重ね、接続する。そういった狙いがある。

 

会田誠のことを正直に「やばく、面倒くさい人」と評しているのがわろた。その通りだ。そして、高度で絶妙なセンスだと改めて痛感した。会田誠は、洗練された高度なセンスと技術、計算力を備えていることが分かった。美術界の超エリートだ。

この梅干しを何時間何日間見つめても、「日の丸に似ている」とうっすら思えど、不快にはならず拳を振り上げることがない。だが確実に私達の心象、愛国というコードに触れるもののど真ん中を描き出している。それが梅干しの、妙に質感や形の誇張された描画によって、そっちの記号的重要と解釈に眼が行って、自分の内面=日本人としてのプライドを小突かれていたことをすっかり忘れてしまう。

なおかつ、展示空間で他の作品や展示タイトルと総合的に鑑賞した際には、その暗喩は更に奥深く大きな「日本国」や「愛国」をこちらに描き出させてくる。茶化されているのか、リスペクトなのか?自分に湧いた朧げな感情の解釈すらこちらに委ねられている。

 

そんな美術エリートの「表現」と、完全無欠の非エリートである釜ヶ崎の元・労働者たちの「表現」とが、「やばく、面倒くさい」というところで繋がり合い、同じ場に混ざり合う。痛快である。アートによる意識改革や社会改革と叫ぶよりも、こうした地道な接続と再解釈を試みていくことの方が、効き目があるような気がする。といった解釈もまた、「面倒くさい人」ならではの偏った愉しみに過ぎないのかも知れないが。

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あーたのしかったですね。

カオスなのか。それとも理か。

 

( ´ ¬`) 完。