写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生・TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】R2.2/8_麥生田兵吾「ココロヲウツス」@江之子島文化芸術創造センター

【写真展】R2.2/8_麥生田兵吾「ココロヲウツス」@江之子島文化芸術創造センター 

 

美術品を観るときの「ココロ」とは何だったのか? 

 

【会期】2020.1/17(金)~2/8(土)

 

 

作者自身の作品と、大阪府の美術品コレクションとが混成された展示だが、様子がかなり変わっている。それは不完全な展示、まるで展示の準備段階か、あるいは展示を中断した状況を見ているかのように、綻びに満ちている。

 

タイトルに準じた解釈を行うなら、本展示は観る側の主観、心境によって見え方を変え、むしろこちらの見え方自体を反映するように立ち現れる作品である、と言えるだろう。象徴的なのは、立て置かれた鏡である。展示を観ているつもりが、鑑賞者自身を観る事態に陥ってしまう。まさしく展示されているのは、こちらの内面なのである。

 

以上。

 

――と、これで話を終えると惜しい、というか説明が付かない点が多々ある展示なので、以下に私見を続ける。

 

まず第一に、個々の作品の名称や作者名を記したラベルがない。これでは麥生田作品と大阪府の収蔵品とが切り分けられない。徒らに美術の審美眼を試すような意図はないことは確かだ。しかし事実上、判別が困難となる上に、コーナーごとの展示意図、キュレーションの説明がないため、どこからどこまでが作者の意図、つまり一つの「作品」としての単位であるか、分節は謎となる。ともすれば、壁面に掛かっているもの全て、部屋にあるもの全てをひっくるめてインスタレーション的な一つの作品として見なす必要すら生じてくる。

 

第二に、展示物の一部が「展示」の要件を満たす手前で横滑りしている。会場は一見、展示の体を成しているが、中にはかなり奇妙な状態の作品が紛れており、作品が額の裏側や、額を包装する厚紙ケースに貼られていたり、額装のガラス面に補修テープが大きく貼られていたり、額が壁にきちんと掛けられずに床などに据え置かれたりしている。まるで展示の準備中か、準備の様子自体を展示しているような状況なのだ。展示の約束事、美術館機能のプロトコルにバグが走ったまま展示が稼働している。

 

第三に、各種のセンサーの存在である。展示は大きな部屋の幾つかのコーナーに分かれて展開されるが、それぞれに温度や気圧、放射能、果ては音量、電圧、日付など、目には見えないあらゆるパラメータを計測するものが設置されている。過度な定量化は、生の展示・作品がこうした目に見えない自然の要素と常に密接にリンクしていることを示している、というメタのインスタレーションとしても解釈できる、がしかし、それら不可視の物理環境に対して神経を尖らせる美術館の厳重な管理システムを誇し前傾化させているようでもある。「展示」システム、「美術」制度の構成要素として、厳重なセンシングは不可欠だ。

 

こうした、普段の美術館展示においてはフラットに埋め込まれている展示システム、その様々な要素が前傾化している点、観客のもとへ滑り出してきていることが、本作の重要な見どころになっている。第三の要素の通り、幾つかの壁面に掛けられていないため、「作品」の一部は床に漏出する。そのため、「作品」と観客の立ち位置はアイレベルが融解し、フロアを歩き回る観客と展示とが緩やかに繋がって見えることがしばしばある。

更に自覚的なのが、それぞれの展示コーナーはその綻んだ展示状況を写真に撮られ、そしてその写真もが壁に展示物として貼り出されていることだ。これまで述べてきたような展示の綻びは「展示」として固定され、展示空間への再取り込みが図られているのだ。固定・記録された以上、この状態が展示として「正解」なのである。

このような状況下では、個々の美術作品の意図や価値を読み取る行為は、事実上失効する。府の収蔵品であるから、無価値な作品であるはずもないのだが、この場ではせいぜい「この絵は観たことがある」とか「この写真は好きかも」程度の催しに留まり、それ以上の個別具体な読解を試みるのは難しいだろう。

 

一見、ランダムに満ちた・予期せぬ作品の配列を以って「それぞれのイメージが共鳴・反響する様子を自由に楽しんでください」と言われているように見える(恐らく正規ルートでの読解はそのような趣旨で正解だろう)のだが、個々の額装、あるいは横滑りした額装未満の装丁(亜額装)が生み出す音は、通常の「鑑賞」において機能するべき美術館のメディア性を全く呼び起こさない。作品群は、その内部の文体や意図、作家の内面を語るものでは全くなくなり、鑑賞者の着眼点は、これらの平面作品の群れが「作品」としてこの場に繋ぎ留められていることの理由や原理を確認する方向へとスライドしてゆくだろう。

 

それは「美術作品とは何か」「美術館とは何か」という問いに直結している。 

来場者のうちどれだけの人が何を感じたかはリサーチのしようもないが、「なぜこんな置き方をしたのか」「どう観たら良いのか分からない」といった感想や体験は、少なからずありえるだろう。この疑問符から問いを少し先に進めると、「展示を成立させているのは何か」というメタな文体への言及に至る。

すると先に述べたように、この場で試行されているのは、美術館という施設が本来的に、システムとして保証し提供しているクオリティや仕組みについての話だったのではないか、という気付きにも繋がってゆく。

  

毎度毎度のことだが、やはり展示会場を撮った写真が語ることと、展示を回りながら得た実感とは、大きな齟齬がある。前者は、作品のイメージ同士が枠組みを超えて立体的に共鳴し、個々の写真のフレームを超えて、新たな物語へと飛び出してゆく躍動の可能性を物語っている。

だが後者の、会場での実感としては、美術館という制度・システムをマッサージして解し、撹乱して綻ばせ、その仕組みの一部を見せるものだったように感じる。その営みは、制度の外側へ行く、外側から見る、という点で、鑑賞者「自身」を見る行為へと繋がっていくものであるから、結果論としては前者と同じ営みに至ってゆく。ただし経路が大分異なっている。即・私的な感性と美術品、公的美術館の収蔵品とを結び付けることは、実は無理なのではないか。なぜならそれは明治以来の強力な制度であるからだ。麥生田作品は、その権力性を相当に曖昧にする。コンテンポラリーな新進作家である、しかも写真という曖昧模糊とした美術品(?)である。この点において、鑑賞者と対等な生の感性によって通じ合えるというところで、遊戯的な関係を取り結ぶことが約束されているため、解釈の経路を大幅にカットできる余地が与えられているのだ。しかし結論が同じであれば、より面白い経路、すなわち権力を虚仮にできるチャンスを経ながら、景色の移り変わりを楽しんで歩むのが個人的にはスリリングであると思うが、皆さんはどうでしたでしょうか。

 

「ココロ」とは、私たちの心身及び美術空間が約束事としてセットしている展示のシステム、美術館制度のことではなかったかと思いました。

 

 

( ´ - ` ) 完。