写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】「生誕120年 山沢栄子 私の現代」@西宮市大谷記念美術館

【写真展】「生誕120年 山沢栄子 私の現代」@西宮市大谷記念美術館

女性。アメリカ帰り。関西在住。創作・抽象表現。後期高齢者。etc。生粋の写真表現者でありながら、日本写真界の周縁であり続けた彼女の存在は「知る人ぞ知る」ものだったが、今ようやく光が当たろうとしている。 

【会期】2019.5/25(土)~7/28(日)

 

山沢栄子は私にとって「熱い」存在である。もしも存命していれば(ありえないが)年齢差はゆうに82歳差、なのに同世代よりも、下の世代よりも、その作品は新しくて鮮烈で、深い。私の通う写真・映像系スクール(大阪国際メディア図書館)での学びを通じて、彼女の存在は3年ほど前から知るところであったが、今回の企画展で更に謎が深まった感があった。

 

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1.展示構成と作家

本展示は美術館の構造上、1階と2階に分けて展開されている。エントランスからの主動線で結ばれている1階の展示室・1部屋は表舞台として主力作品《What I Am Doing》シリーズを扱っている。

続く2階の展示室・3部屋は舞台を支える裏側として、山沢作品および彼女の人生のルーツを考証する。1962年のファースト写真集《遠近》(1943年~62年にかけて、再渡米の時期の作品)の提示、アメリカでの知己として1920年代・初回の留学時に出会った師:コンソエロ・カナガや、当時アメリカを席巻していた近代写真(A・スティーグリッツ、P・ストランド、I・カニンガム等)の紹介、戦中戦後の大阪及び疎開地における商業写真家としての記録、そしてインタビュー映像《High Heels and Ground Glass》(1993) から構成されている。

主力作品の美的な魅力を伝えつつ、資料によって作者の人生や交遊関係などを踏まえ、学術的な検証を行うという基本的な構造は、2018年に東京都庭園美術館で展開された岡上淑子の回顧展と同様だ。体系的な理解を得られる。

  

山沢栄子は二重の意味での驚きの作家だ。

1889年生まれ、1995年没。享年96才。年表に載せれば「古典」と呼ぶに差し支えのない存在である。しかし作品の力は古典などではない。今まさに新しく、常に現在形であり続ける。そのポテンシャルと衝撃力は凄まじいものがある。1、2点の単体展示ですら没入してしまうのに、今回の規模(資料合わせて約140点)では、その威力を改めて思い知った次第である。

代表作と言うべき、色と光と形状を人為的に構成された抽象作品《What I Am Doing》シリーズが生み出されたのは1980年代であるが、その世界観は30~40年経った2019年現在もなお「斬新」や「驚嘆」以外の感想、形容が出てこない。最も驚くべきは、これらの実験的精神溢れる作品群は人生最晩年の80~90歳代にかけて制作されたことだ。

限界を更新し続けた作家、「今」が常にピークであった作家。こうしたことが第1の驚きだ。

  

2.知られざる存在

にも関わらず、彼女の写真家あるいは芸術家としての知名度は全くもって高いとは言えない。むしろ全くと言っていいほど知られていない。そのことが第2の驚きだ。 

私は自身の通う写真・映像系スクール(大阪国際メディア図書館)にて、これまで山沢栄子に関するレクを複数回受けていたので、いつの間にか「関西が誇る超実力派の作家」として認識していた。が、学校の外に一歩出れば写真を学んでいる人でさえ山沢栄子という名を知らないし、様々な写真雑誌や評論に目を通してみても彼女の名を見かける機会はなかった。

もっとも、本展示は西宮での会期後、11月には東京都写真美術館への巡回を控えているので、この2019年を起点として山沢栄子の認知は相当に進むことだろう。それでも、今に至るまで長い間、評価の光の当たらない存在であったことは確かである。このことは実に奇妙だ。なぜならシンプルに、圧倒的な強度と新しさに満ちた作品群だからだ。

この感想は断じて関西人の贔屓目から称揚しているのではないし、かといって、いちスクール内での講義に留まる存在などでもない。ではなぜ、山沢栄子の名は写真の界隈からこぼれ落ちていたのだろうか。本展示を通じて、改めて素朴なこの問いに立ち返り、「作家」山沢栄子の扱いについて考えをまとめてみる。

 

 

3.理由(1)資料の不在

「なぜ」の第一の理由は、研究の根拠となる資料が不在であることだ。

このことは本展示の図録《山沢栄子 私の現代》(2019.5/赤々舎)において言及されている。なぜ彼女の功績が語られておらず、学術的検証がなされてこなかったのか、図録巻末のエッセイ欄に西宮市大谷美術館学芸員・池上司が寄稿する『山沢栄子の「ひとつの道」―新資料を中心に』では、『その最大の要因は、一次資料が失われていることだ』と指摘する。池上氏らはこの度、事実関係の確認と新資料の発掘のためにアメリカへ調査渡航し、1920年代後半と1955年に渡米した山沢の足跡を辿っている。1994年1月の伊丹市立美術館《山沢栄子展》が催された時点で既に、フィルムや書簡などの一次資料が失わていたというから、いかに山沢栄子の足跡を辿ることが困難かが想像できる。(これは本人がぼんぼん棄てたり燃やしてしまったものも多かったのではないかと想像する…)

資料がなく、作家本人が亡くなっている以上、存命中の本人の発言や寄稿、写真集や、当時の写真界の動向などから可能な限り読み解く他はない。作家による直接の言及がなく、資料も乏しい中で、作家のルーツを考察するのは大変なことだ。会場のおよそ1/3を割いて、スティーグリッツや雑誌『カメラ・ワーク』などアメリカ近代写真の展示コーナーを設置したのはそうした理由からだろう。

  

3.理由(2)アメリカというルーツ

山沢栄子が積極的に語られてこなかった第2の理由は、まさにこれらのアメリカ近・現代写真との距離感ゆえではないだろうか。

その人生からして、1926年に渡米・留学し、写真家コンスエロ・カナガに師事、一度は帰国するも1955年にカナガの招待を受けて渡米し半年間の滞在、そして1980年には写真作家バーバラ・キャスティンが同じコンストラクティッドフォトの作家・同じ女性作家として山沢を訪ねて来るなど、アメリカとの繋がりは深いものがある。

 

会場ではアメリカ写真史、A・スティーグリッツ以降のモダニズム写真が提示される。ピクトリアリズムとの決別後のストレートフォト、そして風景や自然物や人体などのフォルムを科学的・幾何学的に描写したグループ「f/64」の活動などは、1920年代、留学生であった山沢に、他の日本人に先駆けて衝撃をもたらしたであろう。これらの写真の大きな動向は、まさにその後に発表される写真集《遠近》へと繋がってゆくものとして理解できる。

 こうしたアメリカというルーツの考察については、本図録の巻末にて、東京都写真美術館学芸員・鈴木佳子『山沢栄子とアメリカ近代写真』が分かりやすくまとめている。山沢作品における抽象性と、アメリカ写真界における抽象表現との関連を語る事例として、1910~1920年代の近代写真の映像表現に加え、1940年代以降のアーロン・シスキンド、ハリー・キャラハン、1950~60年代のMOMAでの抽象表現に関する企画展(1951年《Abstraction in Photography》展、1960年《The Sense of Abstraction》展)そして1980年代のジャン・グルーヴァ、マリー・コシンダスとの関連について列挙されている。

 

逆に、同じ関西写真界の先達(戦前の前衛写真家・集団)や、戦後の日本写真界を牽引した日本人写真家らと比そうとすると、途端に紐付けが難しくなる。それらとは特段、イズムやスタイルや風土を共有していないようなのだ。女性だからか?  とは言え、射程を「平成」にまで伸ばしたところで、日本写真界の文脈やムーブメントにはやはりうまく適合せず、却って孤立した存在として宙に浮いてしまう。もし繋げて語ろうとすれば、アメリカ体験者というところで中山岩太にせよ石元泰博にせよ、或いは構成的写真という点で今道子にせよ、紐付け出来るのかもしれないが、ともかく語られはしなかったし、やはり彼ら彼女らとも根本が異なる感が否めない。

山沢は長きにわたって、日本の写真界がその時々で求め、また、評価しなければならなかったもの――「日本の写真」というアイデンティティーの方法論や世界観とは異なるところに居た、ということだろうか。

 

だが更なる疑問も浮上する。

アメリカ写真界のスタイルや思想に、もし山沢が完全に傾倒したり、惚れ込んでいたならば、彼女の気質と生き方からすれば、日本を離れて向こうで生活を続けていてもおかしくはない。その作風も、もっとアメリカ寄りのものになってはいなかったか。

山沢は自身の生き方を曖昧にしない。自分が決めたら動く、必要だと感じたら動く、そのように生きる。徹底して「道」の人物である。対話講座の記録書籍『私は女流写真家 ― 山沢栄子の芸術と自立』(1983/なにわ塾叢書)の頁を何かしらめくってみれば、そのような感想を抱かざるを得ない。そんな彼女の人物像を想像すると、生活・人生の拠点が最期まで関西であったことには、意味があるように思う。

 

アメリカ近代写真の系譜に多大な影響を受けつつも、芯・根っことするものは、「アメリカ」ともまた別の世界、少し異なるところにあるのではないか。

会場2階の展示/写真集《遠近》では、まさにアメリカ近代写真、師のコンスエロ・カナガとの関連性が確かに認められるものの、それ以降に発表されるアブストラクトな作品群の持つ世界観は、アメリカとの関連だけでは説明が付け難い。手法やモチーフのレベルでは近似する作家名が上がるだろう。しかし、何かが根本的に違うのだ。

先述のアメリカの優れた作家らの作品は、強度あるコンセプト、「知」の構築によって生み出されている。対して、山沢作品はコンセプトを語らない(本人もまた、全く語らない)。が、例えば《What I Am Doing》シリーズは、言葉やコンセプトが乏しいのではなく、1枚の画の中に幾重にも奥行きを内包しているがゆえに、音や言葉が容易には表出されないのだ。禅の宇宙空間のように、星や隕石と空間とが一体化したものとなって、鑑賞者の言葉や足元を呑み込んでゆく。

 

結局は山沢作品の「力」の根源がどこに由来するのか、その独特な世界観の系譜をどう考えればよいのか、本展示ではアメリカとの関連が示されたことでより一層、謎が深まった。この謎、引っ掛かりこそが、「山沢作品の評価の難しさ」、翻って「魅力」の深さに直結するものであるように思う。

 

 

4.理由(3)写真の外側に生きた人

山沢栄子がこれまで写真界で語られてこなかった第3の理由は、それは狭義の「写真」ではない――「写真」の領域を越境した表現だからかもしれない。

鑑賞中に突き当たったのは、「これを"写真"作品として見たり語ったりすると、話が終わってしまうのでは?」ということだった。「写真」の枠に嵌めた途端、うまく中に入っていけなくなる。禅と抽象絵画と彫刻と隕石とが混ざったような宇宙空間として対峙し続けるには、どうすれば良いのか。

戦中戦後のブランクはあれど、山沢は1931~1960年にかけて自身のフォトスタジオを開設・運営してきた。正真正銘の商業カメラマンである。しかし作品と対峙していると、これが「写真」なのかどうか正直分からなくなってくる。個人的な体感の種類で言えば、それは中川幸夫の「生け花」写真における力学と無関係ではない(回路としては逆だろうか)。

 

山沢栄子の世界観へ更に一歩踏み込むためには、「写真」という領域から逆に一歩離れて、絵画や彫刻などの抽象表現、前衛表現の全般を広く視野に入れる必要があるのではないか。そのことを示唆しているのが、まさに今回の西宮市大谷記念美術館である。

美術館の1階・常設展示室では津高和一展》が同時開催されており、収蔵作品14点展示されているが、それらは津高和一の生涯を追うとともに、山沢栄子との親交、雑誌の対談記録などからその作家像を描き出す企画となっている。

 

 (参考link:西宮市大谷記念美術館_津高和一の収蔵作品) https://jmapps.ne.jp/otanimuseum/sakka_det.html?list_count=10&person_id=193

 

美術史には疎いので詳細は割愛するが、戦後の関西においては「具体」以外にも独自の前衛や抽象表現の集団、実践者らがいた。京阪神の地それぞれに、時代に呼応した新たな芸術を育む土壌があったことは、山沢作品の独特の抽象性と果たして無関係だろうか。山沢栄子の活動と生活の場が関西に留まっていたことに加え、関西の財界人や文化人らと広い親交があったこと(写真集《遠近》表紙裏の寄稿者らの面々や、《津高和一展》の展示資料などからも伺える)は、アメリカ写真に次ぐ、重要なバックグラウンドのような気がする。

暮らしの中で、津高和一のごとき関西芸術界の実力者らの思想、世界観に触れ、共鳴する機会に恵まれていたとすれば、山沢作品の意味合いはまた大きく変わってくる。「日本最初期の女性写真家」や「抽象的なコンストラクティッドフォトの先駆者」から、「写真という技法を用いた抽象空間表現者」といった解釈へと広がってゆくだろう。(ただ逆説的に、写真界隈の側からもそのように見なされ、日本写真史において取り扱いが留保されてきた恐れもあるか?)

 

重要なのは、山沢栄子自らが、自身の生き方や活動を「写真家」にとどまらず、もっと射程の異なる、あるいは広い分野において捉えていた可能性も否めない点だ。

池上司 氏は図録《山沢栄子 私の現代》内の、先述の寄稿において重要な指摘を行っている。インタビュー映像作品《High Heals and Ground Glass》制作の元となった取材テープを確認したところ、山沢は「picture」「photograph」と言うべきところを、「painting」と一度ならず二度も言い間違えているというのだ。言葉に慎重な山沢(これは動画を見れば本当によく分かる。自身に関することについては絶対に不用意あるいは無駄な発言をしない。)が、あえて「写真」を「painting」と言い表したことは重要な意味を持つと記している。

それは山沢が、十代の頃から日光写真やボックスカメラに親しみながらも、元々は絵画の進路を歩んでいたことと無縁ではない。1916年(17歳)には私立女子美術学校・日本画科専科に入学し、1926年のアメリカ留学もまた絵画の勉強のためであった。写真家になるという発想は無かったらしいく、現地で生計を得なければならない状況で師・カナガに出会ったことで、商業写真を本格的に学び始めたという。

 

山沢栄子の中にある「表現」の有り様とは如何なるものだったのだろうか。

《私は女流写真家》の談話の中では、自身の被写体との向き合い方、「いいもの」とそうでないもの、心構えのような話が多い。絵画を学んでいたことの影響や、写真と絵画との関連については、あまりこれといった口調では語られていない。むしろルーツを同定されるような語り方は避けているようにも見える。

それでも以下のような受け答えから、自身の「写真」のルーツについてはやや広い射程を持っていることが分かる。

 

(聴講者)先生のアブストラクトは絵画的なところがありますね。それはやはり絵との結びつきのようなものがあるのですか。

(山沢)絵を好きだったということは、ものの見方においてそういうふうにみる何かがあるのでしょう。

(聴講者)だけど絵をやられたのは日本画でしょ。

(山沢)日本画に籍をおきながら、油絵をかいたり、むちゃくちゃしているんですわ。

    (《私は女流写真家》P144-145)

 

「写真」という枠に収まらない地点から、真っ直ぐに写真によって表現を挑んできた作家。その「力」の鍵を握るのはアメリカ近現代の写真のみならず、戦後の抽象表現全般にも及ぶのではないか。更には、関西の芸術シーンとの関わりが実際どうであったのか。そうした視野の広がりを得られた気がするし、全ては根拠に乏しく、錯覚なのかも知れない。

 

写真は時間を止めて、事物を記録する機能に優れる。そのはずが、山沢作品の中では、時間の止まっている部分と流体のように動いている部分とがある。 

山沢作品、そして本展示は、見え方がその都度変化する。その日の体調や考えによっても見え方が変わるし、展示作品と写真集の間でも見え方が全く異なる。 

 

タイトルの「私の現代」とは、果たして山沢栄子の生きた時代を現在形で現わすだけの意味合いなのだろうか。作品が「在る」ということの永続的なコンテンポラリー性、絶えず現在形であり続け、何者にも同定され得ない有り様を表しているように思う。

 

アブストラクトの闇と光が現す地点は近くて、遠い。

 

( ´ - ` ) (未) 完。。。