写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】加川京「風と土と」@大阪ニコンサロン

【写真展】加川京「風と土と」@大阪ニコンサロン

奄美諸島・徳之島の風土と死生観を穏やかに表した作品群。南の離島の空気を感じる。

【会期】2019.6/20(木)~7/3(水)

 

作者は7年前の母親の逝去を契機として、出身地である徳之島で写真を撮ってきた。昨年からは住まいを東京から島へ移している。7年間にわたって日々を「確認」するように撮ってきたのが、本展示の作品である。

 

見始めてすぐに、現地の土に足を着けて歩いているような感触があった。徳之島に行ったことはないのだが、以前からその光景を見たことがあるかのように伝わるのは、作者が「日々」に足を着けて暮らしており、島の風土を受け止めて表していること、そして写真の幅が広くて豊かであることの賜物である。

もっとも、私が個人的に南方の離島に対して謎の愛着というか生来的な相性?を有している(離島出身者でもなくただの関西人なのだが…)ことと、本展示に夢中になったこととは全く無縁ではない。逆の意味でアンフェアな鑑賞者であることを許していただきたい。そんなわけで写真の中の島時間が妙に体に染み入る。観ていると、時の流れを忘れて島内を歩いて回っているような、立ち止まりながら視界の隅々まで歩いては、また振り返って立ち止まる、そんな目的のない散策の一時を味わった。とにかく楽しかった。他の鑑賞者がそういう気分で観られるかどうかは分からないが、私の肌に来る世界観だった。

 

飽きない。特別なものは特にないのに飽きない。初夏の風に吹かれながら地元の飯や泡盛を堪能しているような風味が広がる。

島には様々な地形がある。様々な風の形がある。観光パンフレットで描かれるような「沖縄・奄美」めいたブルーとは程遠い。「地元」の風と湿度が写っている。ある面では岩山が主で起伏に富んだ島のようでもあるし、またある面では平らで海にずっと続いている島のようでもある。表情が多彩だ。

 

こうした身の回りの地元感から自然と接続されているのが、徳之島の独特な風習や光景である。風葬墓、闘牛、イッサンボー(かかし)などの写真だ。これらは島に息づく伝統的な死生観として立ち現れる。緑、田畑、島民、黒牛、そして闘牛場のカットは、島の濃厚な「生」の力、高揚に繋がっている。逆に草葉の陰、墓地、洞窟の中らしき暗がり、風葬墓の頭蓋骨などでは、島の「死」と「弔い」が濃厚に滲んでいる。それらはフラットに繋ぎ合わされ、淡々と島の日常、風土のひとつとして語られる。

そして最終コーナーで、かかしとそれを手に支える地元の子供らのカットが登場する。へのへのもへじの顔をした立派なかかしだ。後に調べたところ、これは「イッサンボー」という名で呼ばれている。「アキムチ」という豊年祭において、イッサンボーは列の先頭で掲げられ、揺らされながら、島民は松明の明かりと太鼓と歌と踊りで祝い、夜を過ごす。月並みな言い方をすれば、イッサンボーは平時はケとハレ、生と死、ヒトと精霊などに区分された世界を越境するモチーフ、依り代のようなものと考えることが出来そうだ。

 

島での1年を通じた暮らしには、生と死と精霊の儀式が織りなす循環が密接に息づいている。その中で過ごす個々人もまた、これまで歩んできた人生における出会いと別れ、彼・彼女らの死生観を思い浮かべ、そうした形のものが写真には投影されていく。本作は島自体のドキュメンタリーと、個人の人生のドキュメンタリーとが二重の円環となっている。個人の死は島の風と土に還って、また個人の生の誕生へと回ってくる。展示スタート地点の、生まれたばかりの赤ちゃんの写真は、円環の終点と起点となる。

大伸ばしにされたイッサンボーの写真の隣には、同様に大きく伸ばされたピンクの花、恐らくブーゲンビリア、の写真が並ぶ。他の植物らを背景に、力強く宙に向かって手を伸ばすような姿には、私は逝去した作者の母の気配を重ね合わせてしまった。徳之島の風土と祭礼の循環の中で、死後もなお何処かに息づく気配として在ることを、本作は語っているように思った。

  

 

ちなみに会場には興味深い1冊の写真集が置いてある。『徳之島写真集 島史(しまふみ)』(加川徹夫/2006年3月・南方新社 発行)である。

時代はひと昔前、昭和を中心として徳之島の暮らし、風土、伝統、闘牛などを盛り沢山で特集している。まさに本展示の原本となる写真集だ。特に昭和40~50年代の記録が豊富で、情報の濃さが半端ではない。本展示のカットを一つ一つ理解するのに最適なガイドとなっている。時間があればぜひ読んだ方が良い。

写真と言葉の情報、記録の力がとても優れている。

こういう書籍を読むと、ガチンコの記録、ドキュメンタリー写真の重要性が分かる。一方で、被写体と作者、環境や社会と個人の主観とが行きつ戻りつで共鳴しあう表現の文体というのもまた、現在のベーシックなドキュメンタリーの味わいで、だからこそ伝わるものがあるとも実感する。カメラ・写真を以って表現する主体が女性へと大きく開かれている点がまた現代的だ。そんな時代性の比較も出来た。

 

なお、両作の写真に登場する祭礼は、かつて盛んであった稲作とともに古くから親しまれてきたものだったらしい。しかし戦後、60年代~70年代にかけて減反政策などの効果もあって、稲作はサトウキビ農業への転換が図られた。水田はほぼ無くなり、産業としてではなく自家米の生産に留まっているという。

しかし祭礼は残り、今も各集落で営まれているというのだから、それは非常に幸運なことだと思う。ああ。徳之島にいきたい。

 

(  ー_ー) 完。