【写真展/ワークショップ】R1.6/30(日)小谷泰子「心の内面を見つめるセルフ・ポートレイト」@西宮市大谷記念美術館
西宮市大谷記念美術館では「山沢栄子 私の現代」展が催されているが、関連イベントとして、写真家・小谷泰子の作品展示、ならびに参加者自身でセルフポートレイトを撮るワークショップが開催された。
山沢栄子展はこちら。
山沢作品のみならず、スティーグリッツ「3等船室」とかポール・ストランド、アンセル・アダムスなど、ド直球の古典作品も観られて眼福なわけです。幸せになれます。
(b゚v`*) 幸せになろうよ。
1.ワークショップ(セルフポートレイト)
( ´ - ` ) セルフ~。
いやあ久々にセルフしました。
整理券をもらい、小谷さん作品や撮影の説明を聞きます。
連絡先や、撮った写真を作家が作品に使って良いか等のチェックを記入します。今日は雨がひどいですな等の湿っぽい雑談と共に、順番が来るのを座して待ちます。雨天です。梅雨やあああ。遅いぞ梅雨。小谷さんの作品を鑑賞したりポートフォリオを観ます。経歴がぎっしりしててすごい。ぎっしりですよ。作家生活すごい。羨まs(略)
あっ順番きた。
内面と向き合おうと思います。内面、
(b゚v`*) 内面…
( ´ - ` ) あるんかな(動揺)、
蔵に招き入れられます。お蔵。ここの蔵は入れるんですね。何の蔵かと。思ってましたが。貴重な機会。拝んでおきましょう。蔵にも作品があります。小谷さんの旧作です。青に囲まれる。拝んでおきましょう。
(b゚v`*) 拝。
まめ知識ですが、小谷さんは私が通っている写真スクール(大阪国際メディア図書館・写真表現大学)の生徒仲間です。仲間…? 先輩…? 姉…さん?? 定義が難しい。姉ではないな。血縁がない、というか国語力が足りません。先輩。先輩でいいかな。
( ˆᴗˆ )ノ パイセン。
キャリア的には大先輩です。えらいことです。拝みます。
(b゚v`*) いよいよセルフ。
蔵の二階に上がると、部屋の奥に一眼レフが三脚にオンでスタンバイされています。係の人から、セルフタイマーの遠隔スイッチを渡され、撮り直しなし一発勝負、蔵の2階なので危険なのでジャンプはだめです等の注意事項の後、本番です。本番行為。興奮しますね。
【イメージ図】
( ´ - ` ) ダダダ
ダダダ。
(b゚v`*) 汗汗汗
内面きた内面。
ぜーぜー。
シャッター速度は2.5秒、セルフ待機時間がたぶん2秒。ネタ的には、じっとせずにしっかり動かないと勿体ない、しかし最小限の動き、一動作分ぐらいしか隙がないという、絶妙な短さです。2秒半はけっこう刹那。
スイッチ押してからは実は待機時間なので、「これでええかな?」と動きを止めた頃、ちょうどシャッターが始まるというひっかけ問題です。
結果こうなります。
( ´ - ` )
落ち着きがない。
左右にジグザグ動いていたのですが、ジグる際の切り返し時に動きの止まった部分が像になっています。落ち着きがない。タランティーノ映画などでは割とすぐ銃殺される小物の動きと言えましょう。そんなシーンあったかな。わからん。
ともかく、露光時間の長いセルフポートレイトではその人の「性質」が割とはっきり出る、ということが分かりました。動物としての回路ですね。人を動物レベルに還元できるのは良いことですね。革命を起こそう。
参加者各位が楽しみを見出だすのはまさにこのあたりで、自分が思い描いた動きが、どのような映像のタッチを生んだか、意図したところと意図せざる効果の兼ね合いがどのようであったか、そうしたことを面白がっていました。います。写真は正解、お手本からの「ズレ」や「予想外」を楽しむことが出来る、むしろそれが本懐であるということも見えてきます。きませんかね。こない。そうですか。はい。すんません。こいよ。
(b゚v`*) 以上、ワークショップと内面の報告でした(粗い。
2.作品《青い闇》
先述の通り、待合の和室と、蔵の1階の壁面には小谷さんの作品が掲示されていました。えっ。作品展示してたんですか。先輩まじすか。パン買ってきましょうか(いらん
普通に山沢栄子展を見に来ると、気付かない(※筆者は3回目ですが知りませんでした)、というか普段って鑑賞させてもらえるのだろうか? わかりません。 この1日だけの限定展示? どうなんでしょうね。
小谷さんの作品は、写真ですが、幽玄のデジタル日本画というか、不思議な印象です。青いし。あの世っぽいし。彼岸写真ですね。行ったことないけど。青いし。彼岸ですなあ。行ったことないんだけど。まあ青いし、
じゃぁいつもの調子で。
作品の中に浮かび上がる光、青い闇を宿しながら、白い光を照り返すものは、作者自身の体である。闇の中でのセルフポートレイトを多重露光によって重ねている。
最新作の《青い闇》(2017-2018)は、実に長い沈黙を破って登場した。ポートフォリオでの活動年表では、1987年の「オランダ・ジャパンウィーク芸術写真展」から2000年の「震災と表現 青い破壊」(芦屋市立美術博物館)までの経歴が細かく記されているが、それ以降の活動は書かれておらず、休眠状態だったようだ。
1995年1月17日、関西に壊滅的打撃を与えた阪神・淡路大震災を転機として、単に「女流写真家」としてではなく、「震災」にちなんだ企画への参加が目立つようになる。それとともに作者のコンセプトには、地震の恐怖や被災により奪われたものへの喪失感、死への意識などが明確に語られるようになる。当時の作品は、地層や繭のような強いテクスチャーが写真の表面全体を覆っていて、作者の裸像を化石のように閉じ込めていた。
それから20年近くが経った今、作者はデジタルカメラで再度、作品制作に挑んだ。本作では、これまで像を覆っていた強いテクスチャーは取り払われ、体の像は透き通った光の気配そのものとして写されている。像は重なり合い、透過し合い、躍動する。それは美術史や写真史の系譜への言及よりも、ダイレクトに霊的な印象をもたらす。絵画で言うならば幽霊画、率直には、あの世の光景に近い印象を受けた。
これは寓話なのだろうか。心象なのか。神話なのか。
暗く黒く、縦に長く伸ばされた3枚の写真は、夜よりも暗く危うい世界、死の国を思わせる。画面の下部に白く光る裸体の群れ、画面の上部には、木々の葉か崖のような背景が不確かに浮かび上がっている。裸像の向きや動きは異なり、3枚の写真は全体で1枚の物語のようでもあるし、別々のシーンのようでもある。
表現手法の分類だけなら「ヌード」と「セルフポートレイト」、属性の分類なら「女性写真家」となるが、これらのカテゴリーに位置付けて語られるべき代表的な作家とその作品と、小谷作品とは大きく異なる。作者が透明化・匿名化している点だ。透過により生活感や肉感がギリギリまで消えていて、霊体と呼ぶにふさわしい。
セルフと言いながらも、そこに現れているのは、個人(私人)ではない。生と死の境、私と他の境を区分できない場所で漂い、揺蕩う、集合体である。全裸であること、複数形であること、像が重なり合い不可算化していること等の要因が、作品を「個」や「私」の「セルフ」ポートレイトから遠ざけていて、ヒト全般を指し示す。
作者のステートメントでは、自己の内面、心情の表現としての表現であると一貫して語られているのだが、鑑賞者の立場から受けるのはもっと広い射程、「ヒト」という種族の振る舞い、生の顛末の物語であった。体の部位をクローズアップした小さな作品の方は、作者の私的な体としての文体を帯びつつも、「青」と闇に満ち溢れたこの世界観は、作家の属人的な語りではなく、生者の領域をも通り過ぎた話となっている。
だが裸像は抽象化されてはいない。写真を覗き込むと、体の各部、姿勢、顔は、崩れたり流れたりすることなく、明らかに写っている。気配や心境といった曖昧なものではなく、輪郭線を持った像が確かにあり、それらが重なりつつ暗闇の中で発光している。
あくまで具体的な像でありながら、そこには「私」としての人物はいない。光を照り返す媒体、方向を見失いながら何処かへさすらうヒト科の生き物が写っている。動物的な所作は、即興での自撮り、途中でモニターを確認せずに露光を重ねてゆく際の予測不能さが生み出したものだろうか。
逆説的にジャコメッティの細く絞り上げられた彫刻を思い浮かべた。ジャコメッティが、「人間」が極限状況にあってなおも人間として踏み留まっている様子を表したのに対し、小谷作品では個人が人間としてのある極限から、ひとつ向こう側へ至った後の姿を描いているように見えた。個人の意志の及ばない領域である。単に死のイメージというだけではない。先述の通り、震災を体験した作者の様々な思いが込められていることに加えて、本作では、迫りくる老いへの心境も込められている。個人的な動機と心情から生まれたものだが、しかし私性を通り越した向こうの世界のビジョンが、確かに拓かれている。
震災、死生や私性の尽きるところ、霊的なものたち、物語。こうした要素から参照されるべきは志賀理江子《ヒューマン・スプリング》であろう。小谷は90年代の状況とスタンス(=阪神・淡路大震災、作家による一人称での独白と独演)によって、そして志賀は2010年代の状況とスタンス(=東日本大震災、不特定多数の参加者や地域住民との共働によるパフォーマンス)から、作品を展開する。それらはこの世が「この世」として揺るぎなく連続していくことが期待できなくなった、「こちら」と「あちら」とが、日常が引き裂かれた後の間隙を舞台とする。
現世に生き残った者は、自身の容量をはるかに超えたもの――生と死の話、を、間接的にでも当事者として受け継ぎつつ、その先を生きていくことを強いられている。その時、作家らによる文字通り体を張った試みは、参考にすべき物語となるかも知れない。
新旧作品を繋げて見ることが出来て、非常に良い機会となった。ただ、青色と闇がベースの作品なだけに、一見、強い作品に見えて、空間に対しては繊細であると感じた。展示の環境、照明を万全とした状態で、本当の闇に浮かび上がる像を体感してみたい。
なお、2019年冬には赤々舎から写真集が発刊されること、それに合わせた時期に「The Third Gallery Aya」で個展が開催されることがアナウンスされていた。今後の展開が楽しみです。
( ´ - ` )ノ (未)完。