nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真展】R4.10/15~11/3 「大阪芸術大学写真学科選抜展 NEXT 2022」@SONY αプラザ大阪

美大・芸大、専門学校の卒展といえば通例、毎年2~3月に催されるものだが、大阪芸術大学(略称「大阪芸大」)・写真学科の選抜展は秋にも開催されている。今回も、生徒各人の個性的なテーマや手法に基づいた作品が展開された。個人的に興味を抱いた作品・作家をレポしておく。

【会期】R4.10/15~11/3

 

 

全ての展示を毎回観に行けているわけではないが、2016年頃から都合がつく限りは、大阪芸大ビジュアルアーツ専門学校・大阪の卒業制作展や選抜展を観に行くようにしている。

個人的な感想として、大阪芸大の作品・展示の傾向はこの3~4年で大きく変化したように感じる。クラシカルな額装とテーマ性で堅実に作り込むスタイルから自由度が上がり、遊びのあるテーマや彫刻的・インスタレーション風の作品も見られるようになった。2021年秋の選抜展(@リコーイメージングスクエア大阪ギャラリー)はまさにその路線が強く、今回の選抜展も様々な系統の作品が登場した。手が回っていなくてレポがないのはご容赦。。

 

会場に貼り出された教授のステートメントを見たら飯沢耕太郎大阪芸術大学写真学科 教授 / 写真評論家)」とあり、いつの間に教授になっていたのかと調べてみたら、なんと2016年度から就任していた。展示ではいつも織作峰子学科長の名前しか表に出ていなかったので知らなかった。。

 

インスタレーションにまでいかないぐらいの、立体的な彫刻作品もあれば、シルバーの額と白マットできっちり額装した作品もある。個人的に気になった作品を挙げてみると、内容は大きく4種類ほどに分類できた。

 

1.造形、オブジェ的な作品

まず、物語性や歴史性などよりも、造形そのものをテーマとした作品、オブジェ的な形態を伴う作品が抽出された。意外と多く、中には作者自身を造形的に扱う作品もあり、それらはまた区別して次項に送った。

 

◆中澤伶宇子「Body Monolith」

会場の床に立つ、柱型の作品である。

しゃがんで下からあおって撮ったので実物とは見え方が異なる。実物はもっと細くて背が低く、側面の写真はこうはっきりとは見えてはいなかった。そのため花の模様に見え、「ああ花か、」とスルーしそうになったが、ポートフォリオを読んで「これは人体だ」と気付き、慌てて近接して撮影した次第だ。

 

花の写真は面白くない、というわけではないが、「花っぽく見える花の写真」と「花のように見えて実は全く違うモノから作られた抽象的コラージュ」とは、全く意義が違う。後者は予想や固定概念を完全に裏切ってくる作品である。本作のディテールをちゃんと見るとよく分かるが、展示品のサイズだと厳しかった。私の身長のせいもあります。すいません(´・_・`) 柱型でなくても壁に大きく張り出したり、個々の写真を額装でしっかり見せたりするとポテンシャルが伝わるのではないかと思う。

 

というのもこの作品が一番、ビジュアルとしての面白さと、展開方法による伸びしろに優れていたためだ。制作技法としてはphotoshopの一般的なツールを用いたと思われるが、パーツの切り出し方と掛け合わせ方に作者独自の造形センスや世界観がある。これぞコラージュ技法の醍醐味だ。

そして変形・歪みの素材となっているのが人体である。作者自身かは不明だが、セルフポートレイトの断片と再結合・再構成と捉えるのが自然だろう。ポートフォリオでは無駄な背景が無く一つ一つの造形がシンプルに提示されているため、コラージュされて混ざり合った人体の各部の生々しさがよく見える。切り取られた上に歪みの変形効果が掛かっているのでそれがどの部位か判別できないものも多く、それゆえに生々しい。

 

球体に近い輪郭と波打つパーツの不規則さが、花や心臓や生肉の刺身や眠り顔、羽を畳んだ鳥、卵、プラズマの嵐など様々なイメージを喚起する。複雑さとシンプルさが同居している不定形の像であるため、受け手の解釈の余地が広いのだ。これは展示形態において発展性がかなりあると思った。

 

 

◆小野摩利子「Lander」

同じく床にオブジェ的に置かれた、箱状にした写真作品である。1箱につき6面が違う外観を持ち、箱は手に取って自由に置き直すことができる。つまり観客が鑑賞によって関与することで、毎回異なる風景が生じる仕組みだ。

が、1枚の写真を二面にまたがって載せていたり、風景写真が本当に風景だったり、それぞれ全く別の光景だったりで、これらのキューブを手に取ったり置き直して組み替えることで、何か新しいものが見えたり生じるわけではなかった。写真をモノとして扱うこと自体の意味、モノとした時にどう感じるかを確かめる作品だったようだ。確かに写真は本来、真っすぐな平面で扱われるので、角で折り曲げて曲面を生じたり箱としての厚みを持ったりすることはイレギュラーなので、それを確認するのは良い試みである。

 

問題は、そこに実際に何が見えるか。箱に貼り合わせる写真によっては、置き方ごとに新しい意味や風景が生じるだろうので、そこで解体や生成を繰り返す風景あるいはオブジェクトにこそ期待するところがある。

この作品こそ発展性が無限にあるように感じた。やはり床置き作品は側面など全体を観るのがつらい。立体感やスケール感がかなり減じてしまうのが惜しい。

 

 

◆村田凱「prism」

3×3=9枚で展開するのは金属とプラスチックの破片の散乱で、コンデジや携帯電話、時計、CDらしき円盤、電子辞書のようなものなど、手の平サイズの(少し古い)デバイスが主なようだ。

地面に投げ付けて壊したのか、ハンマーで叩き割ったのか、実家にあった古い機器を思い出ごと破壊したのか、ハードオフやネットオークション等で収集した他者のデバイスなのか、これらが破片になった経緯は不明である。SDGsやリサイクルといった観点ではなさそうで、かと言って記憶や感傷を主題としているのでもなく、もっとデバイスの物性と光に注目している点が面白い。凹み、割れ、ねじれて散った破片に破壊の勢いが宿っているのと、撮影時の照明によってまさに題名通り反射光を宿している点が、生命力として感じられる。ピュアな生命力と破壊性は、SDGsといった政治的なスローガン、悪く言えば言葉遊びを食い破っていく気がする。

分解ではなく破裂するように散らばっているのと、身近なデバイスであることには、造形美(あるいはその破壊)への注目だけでない意味がありそうだが、何かもう一つ二つ、押しが欲しいところ。

 

 

2.自己 × 造形

造形的作品に目を向けた時、人物、恐らく自己(作者自身)を主題としつつ、その撮り方や扱いが造形的であるものが目についた。せっかくなので別個に見てみたい。

 

◆山下莉佳「Wondering hand」

全6枚で様々な「手」の表情を見せる。指の太さや指先の形状はどれも似通っているので、いずれも作者自身の「手」ではないだろうか。「手は顔ほどに物を言う」とは、石内都『1・9・4・7』等で多くの人の知れるところとなったと思うが、本作ではもっと大きな装飾と動きから手の表情を特集している。

その表情とは、石内都が加齢に伴う個人の素顔として手の皴に注目したのと異なり、もっと機能的な動きと形態に注目したものだ。普段、常に無意識で使っているからこそ、逆に姿形や機能を凝視して確かめることがない。こうして「手」のポテンシャルを掘り下げていく先には、写真/手から装飾や物が減ってゆき、より「空」手として、真の表情に迫っていく気がする。

 

 

◆井上藍「individual」

「個々、個人」というタイトル、断片的な顔のカット、顔の断片の繰り返し、これも先の「手」の作品と同じく作者自身が自分の顔を試し、確かめるように提示している。だが暗闇の中で光に照らし出されたこれらのビジュアルは、素顔や正確な表情・形状を写したわけではなく、演技的でさえある。丸く見開いた片目のカットはもはや個人を超えて記号的でさえある。

だが「顔」を部分的に切り出しながらも、造形の輪郭やピントが曖昧である。1枚、高い塀のようなところに立った全身を小さく写しているカットがあり、造形美の作品としてはそぐわない。本作があくまで表そうとしたのは「わたし」という形のないもの自体なのではないか。「顔」の造形は否定し難くそこに「ある」=ぼかしようもないはずだが、それが「わたし」というテーマになるや、一気に掴みどころがなくなる。そのような矛盾を見るようで興味深い。

 

 

 

3.自己(作者自身)

作者自身が登場するセルフポートレイト作品で、前項とも重なるところがあるが、基本的にポートレイトの形態をとるものを紹介する。

 

◆福田大記「オルタ」

圧倒的既視感。ちょうど1年前のリコーイメージングスクエア大阪での「選抜展 NEXT」で同様のセルフポートレイト作品《ペルソナ》を見たが、その記憶が強烈だった。ハンドメイドのマトリックスと言うのか、増殖し連続する自己像を扱っていた。学生の展示で「これはあの人の作品だ」と一発で認識できることはかなり希で、だいたい皆、平均点的な優秀さに落ち着くがゆえに特異さがないのだが、この作者はしっかり自分のやりたいことを過剰にやっていた――真面目にふざけていたので印象に残っている。そういう作品の力は強い。

 

今作では自己像の部分が反転している。漫画的に分かりやすい演出とポージングで、タイトル「オルタ」(alternative=代替の、もうひとつの / alter=変化する)の通り、一つの核となる日常的な人格(=反転のない通常のカラー写真)から派生した「私」を様々なパターンの髪型、表情、服装、ポーズで表現する。多彩な「私」の可能性(の幻)を呼び出して写真に留めたと言うべきかもしれない。ただ、《ペルソナ》に比べるとスタイリッシュに寄っており、《ペルソナ》の不気味さとコミカルが混ざった、モンスターめいた初期衝動が失われないことを祈りたいところだ。

 

 

 

◆大森脩平「HR-2501」

境界を過剰なまでに跨ぐ身体としてのポートレイト。特に解説はないが、文字通り身体を張って大胆に切り込んでいることから、作者自身のセルフポートレイトであると捉えた。

見ての通り、大きな欠落と補完から成るポートレイトだ。女性のように見えつつ性差を決める部分は未決定で語られておらず、欠損した部分はメタリックな素材でコーティングされ、配線で繋がれている。男女のどちらかという性別だけでなく、人間か否かという問いも未決定に置かれていて、それをAIや拡張現実のような目に見えづらい技術領域としてではなく、サイバーパンク風に過剰に身体で提示しているところが面白い。つまり作者にとっての関心事として自身の身体性の境界と揺れ、未決定性があり、同等の重要性を持つのが初音ミク攻殻機動隊その他様々なサブカルチャーで語られてきた身体拡張であろう。もちろん美術領域での系譜を言うなら森村泰昌の演出的身体改造を伴うセルフポートレイト写真は欠かせない。

 

「わたし」が何者か。ありのままの「わたし」はどこまで事実でどこから幻想で、どこからが創作か。創作の主体は誰なのか。親か、学校か、地域社会か、コミュニティか、それともやはり「私」なのか。あるいは技術か。そのような問いの糸の絡み合うところを語る作品であると感じた。

 

 

 

◆森本涼太郎「私だけの世界」

日常の風景に自分自身を置いたセルフポートレイト作品だと思われる。タイトルと併せて見たとき、何もなかった以前までならナルシシズムめいて閉鎖した世界観とも捉えられたかもしれない。

 

登場人物らはマスクを着けている。

 

2020年3月・新型コロナ禍以降は、日常や外出というごく当たり前のことが当たり前でなくなった。大学生は最も大きな影響を受けた層のひとつだろう。人生で最も貴重でスペシャルな時期の大半を、感染予防のための様々な自粛、在宅オンライン授業などに取って代えられてしまった。外世界への自由を許されたと同時に、その行使を強く制限された当事者である。すると、「私だけの世界」という自己愛めいた言葉と設定は、現実的な訴えとして映る。

撮影時期にもよるが、新型コロナが日本に到来した当初は、「不要不急の外出の自粛」が、いつものような空虚なスローガンではなく、本当に圧力を伴うものとなり、街から人影が消えた。作者もまた、学校にも通えず、自由に外を歩けない日々が続いたのではないか。外界を自分の身体に引き寄せるためのポートレイトだと解釈した。

 

 

4.日常、光景、風景

ランドスケープ未満、セルフポートレイト未満、形の定まらないスナップ。いやスナップとしての行為性も薄く、さりげない光景が写し取られる。さりげないために明確なコンセプトや意図を写真だけから読むことは難しいが、逆に現在の流行や世相など、重要なものが写り込んでいる場合も多いため、軽視してはいけないジャンルである。

 

◆澤野魁星「漣-さざなみ-」

 

2枚のみの大きな写真だが、連続する動きと青い透明度があり、水の流れを感じた。日常に流れている時間を水のように表す、公共交通機関の無機質な場を、水の流れる舞台へと転換する感性は、奥山由之の透明感の系譜、新海誠の世界観の浸透を連想させる。

 

話を少し飛躍させる。公共空間での写真撮影は、年々困難となっている。撮影行為は一律に規制・抑圧されているというより、インスタ映えTwitter投稿・バズ等の拡散による宣伝効果を重要視しつつも、迷惑・犯罪予防との兼ね合いから、社会的扱いが揺れているところだ。思うに、撮っても気にされない属性や人物像と、迷惑として警戒され拒まれる属性があり、後者の範囲が徐々に拡大している感がある。撮り鉄迷惑行為の告発・批判などはもう鉄板の炎上ネタとして定着している。撮影行為を迷惑とし、抑制すべきとの社会的感性が強まる中、それを回避できるのは一つの技術や特権とも呼べるだろう。「撮れる」人は、特権としてどんどん撮るべきだと思う。

 

 

◆安保遼太郎「あの日の自分」

高校生ぐらいの学生の後ろ姿が、古い校舎に写っている。現在の在校生の記録というより、タイトルの通り、作者が自分の高校時代を振り返るようにして、追体験ならぬ追撮影を行ったシリーズだろうか。

と言いつつ、個人の思い出や感傷にはあまり見えないのは、各場面の構図がコマーシャル的に作り込まれた印象を受けるためだ。印象的だけれども現実にはあまりない場面、言わば作られた姿、Web・ホームページでスクールライフをPRする写真に近い。実のところ、個人の世界観の表現を重視しているのか、商業系への展開を目指しているのかは分からないが、その分岐点にある作品のような気がした。

 

◆横関令奈「奇態」

項目1:オブジェ・造形の部類としても分類できそうなシリーズで、建築物の側面や周囲の造形物を撮り集めている。建物の外側を取り巻く空調などの配管やダクト、窓、ハシゴといった、建物の構造と機能に関する写真だけではなく、電柱の写真が10枚中3枚を占めている上に、コーンの写真がある。よって、建築へのコンセプチュアルな切り口というより、日常的に目にする様々な建物をスナップ的に採集したものだと解することができ、「日常・光景」の分類とした。

都市の構造物の何気ない、しかしよく見ると妙な形状に満ち溢れた、トマソン芸術的なフォルムに溢れていることへの注目。良い着眼点だと思う。しかし毎年のように同じ着眼点の作品をどこかしらで見るので、更に掘り下げたアプローチや着眼点を得ていけると良いなと思った。

 

いい表情ですね。私も都市構造物のディテールを追いかけていたのでわかります。これはどんどんやるべきです。構造物は生き物です。

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簡単ながら、以上です。全員分のポートフォリオを読み込むまで手が回らなかったので、理解が足りないところも多々ありますが、ともかく刺激になりましたね。日常的に写真に向き合うこと、写真を用いてこの社会や日常に向き合うことは重要だと感じました。写真。社会。世界。話がでかい。はい、はい。

 

( ´ - ` ) 完。