nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展&トーク】R2.11/28(土)青木大祐「Absorber」@新宿眼科画廊

新宿眼科画廊で個展を開催中の写真作家・青木大祐(あおき・だいゆう)氏と、インスタライブで作品についてお喋りしました。トークでお聞きしたことも踏まえつつ、トークでは体系化して語れなかった私の感想や解釈をこの場でまとめたいと思います。

かなり独自の読み方を試みてみました。

 

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【会期】2020.11/27(金)~12/2(水)

 

最近の状況として、コロナ第3波です。通勤は続いているが、少なくとも東京・新宿の展示をチャチャッと観に行けるような状況ではなく、「展示は見れないけど、資料を元にオンラインでトークをしましょう」ということになった。アブサン鬼ころしで乾杯をしました。パーイ。 なお、本文中の写真は作者より提供いただいた参考資料で、私が現地で撮影したものではございません。パーイ。

 

記念すべきインスタライブのようす。画面下の人物はハイパーねこ財団の末端団員で、この後消されたか記憶を失うかしていると思います。大阪湾の底は冷たい。

 

 

青木氏の今回の展示『Absorber』(アブソーバー)は、「新宿眼科画廊」の奥まった一角で展開されており、2m×2m程度の限られたスペースに横2列で写真作品を展開している。TwitterFacebookでの告知投稿を見た時には、正方形のフォーマットに暖色系が乗っていて、繰り返される円形はポップアート的でお洒落な雰囲気のように見えた。しかし実はかなり狂暴な写真である。 

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写真で繰り返される円形の正体は、食べ物・食材がみっちり詰められた作者の口である。口が器となって、限界まで食材を詰め込み、咥え込んでいる。しかし本物の器ではなく人間だから、唇や髭、白い歯が食材とともに写り込んでいて、食材そのものの存在感は「口」のディテールにより食い破られる。それは写真の類型も破り、近付けば近付くほど加速度的に食材と肉体から来る質感、リアリティのえぐみが増してゆく。

 

生々しさに一役も二役も買っているのが、水中で撮ったように濡れて光る、画面全体の液体感だ。シズル感どころか液に浸されている。これは本作の重要なテーマでありモチーフである「カビ」を宿すための工程で生じている。

作者はまず仰向けになって口に食材を詰め込み、固定したカメラに見下ろされながら高い絞り値でセルフ撮影を行う。次に画像データの食材部分を切り出して寒天培地に入れ、カビの繁殖を待つ。いい感じにカビが生えたところで元の写真と合わせて全体を再撮影したものが完成品となる。水中で撮ったように写真が濡れているのは寒天培地のためだ。確かに食材部分だけ少し描画の質感が異なる。

 

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本作の特徴はビジュアルの強さもさることながら、それ以上にコンセプトと手法が前面に立っていることで、ビジュアルの前に立ち並ぶコンセプトの柱をどう見るか(あるいは見ないのか)が思案どころだった。

まず一点目は、言うまでもなく強烈に写り込んでいる作者の「口」周りの身体性、そして食品を頬張るビジュアルだ。「口」の存在感が強烈に立っているので、「食べる」という行為や「口」という摂食器官に関する意味合いが本作の大きな柱となっている。

二点目として、咥えられている食物自体に目がいく。これらは食材・食品の意味、日ごろ何を摂食しているかといった食文化や消費の文脈を物語る柱ともなる。うずらの卵は殻を割られないまま、アジは生臭いまま、肉は赤身のままで、あえて調理前の姿で、噛み潰さないよう食材の形をキープして咥えられている。そう、口は咬合、咀嚼を伴わず、穴・器としてのみ機能している。「食べる」動作ではなく、食材そのものを見せようとしていることが、作者の意図を考えさせられる構造となっている。

三点目、口や食物の周りに繁茂する白い泡のような「カビ」が、また別の意味の柱となる。カビの発育度合いは写真によってまちまちだが、適度に見栄えのする段階で写真化されており、無視できない干渉物となって鑑賞者と作品の間に割って入る。カビは腐食、浸食の強力なニュアンスを持ち、対象を死や分解へと傾かせる。・・・はずだが、ここでは死や腐食の実感は乏しい。逆にカビの芽生えや育成を肯定しているかのようだ。

カビの系譜は2019年12月の個展『EYE WEAR MOLD』、作品に全面的にカビを投入したところから継続している。作者にとってはカビは物体の腐食や死への傾斜ではなく、古代から続く豊かな生の営みそのものであり、ポジティヴな意味合いを持つものとして探求が続けられている。

 

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そして四点目、最も大きな手法・コンセプトの柱が「セルフポートレイト」、「演出」である。作者自身の身体、特に「口」を「器」として登場させて撮影していることは見ての通りだ。撮影光景はさぞ異様だろう。異様なのはポージングや撮影行為だけではなく、「口」と「食物」をこれだけ主たるテーマとして扱いながらも、口に入れたものを摂食、嚥下しない--食べる喜びや快感から体が断絶されていることだ。(なお、食材は破棄せず事後に美味しく食べているとのこと。)徹底されたオブジェクトとしての身体、もはや個人の死にも抵触する演出という点では、先行作家としてシンディ・シャーマンが想起される。

 

作者は2016年6月、処女作『森の生活』からずっと自分自身を使い、写真に登場させてきた。元来、作者は写真愛好家でも現代アーティストでもなかったが、撮影技術の会得のために東京写真総合専門学校に入学した。しかし本気の作家を養成する場であったことから、コンセプトをもった作品作りに着手。サラリーマンという没個性的かつ滅私奉公を生業としている自分自身を題材に、それを逆手にとるような作品が生まれることとなった。

作品を過去から振り返ると、日々の生活に疲れて野外生活を送るも挫折するサラリーマン(『森の生活』)、転生して浅草寺に帰ってきた釈迦(後に警備員に追い返される)(『自画曼荼羅』『モック』)、様々な映画の登場人物をモチーフに扮しながら自分でクシャミをするキャラクター群(『SNEEZY SCAM to contend for superriority』『モック』)、セルフポートレイトにカビを培養させた作品群(『structure human of being MULTILAYER』)、そして今回の個展へと続いてゆく。 

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作者が提唱したのは『モック人間』という概念体である。モックアップ、本物そっくりに作られた実物大模型で、作品に登場する際、作者は自分自身や広く人間全般に対する『モック』、模型となり、それらしく振る舞う。

ここでシンディ・シャーマン森村泰昌の引用を躊躇わせたのは、青木作品における自己演出が、現実界から勢いよく横滑りさせたような、最初から豪快な空振り三振を狙いにバッターボックスに立ちに行くような振る舞いのためである。ともすればバットすら持っていないぐらいにギャグめいたキャラクターの立ち方は、美術史や映像史に関するアカデミックな戦線に参じるよりも、独自に思い付いた遊戯に没頭しているようでもあって、勝負を茶化すような攻めの脱力感が窺える。

ではアートの市場性を離れて、私的な変身願望や、エンタメやサプライズ的なサービス精神の有無を疑ってみると、さりとてうまく当たらない。これらの変身はおよそ自己の理想や願望を叶えるものではないし、現実逃避にしては現実の踊り場に長居している。広く万人を喜ばせる類のものでもなさそうだ。

ひょうげるように故意のクシャミを写す行為、それを作者は魂の抜ける瞬間と表していることから、こうした自己演出は自己そのものを一旦置いてくる行為、つまり社会的に定義されきった固定的存在である素の自分に、大いなる遊びとしての空洞化をもたらすためのヴァーチャルな投身なのではないかと思えてくる。

 

セルフポートレイトに写し出されるのが全身からバストアップへ、そしてついに口だけになってしまった過程を見て、「この先にもっと進んだらどうなるだろうか、もっと作者は消えてゆくだろうか」と話しながら、カビだけになった作品を想像してみた。が、まさにそのような洗練こそ作者は避けるだろうとも想像した。作者が何度も何度も試みているのは、「表現」における(そこでしか為し得ない)遊戯なのではないか。

 

実年齢が壮年から中年に差し掛かるところで、熱心に取り組まれる遊戯とは何だろうか。

四つのテーマ性を振り返ると、そこには強烈な自己矛盾がある。「食べる」動作とビジュアルを真正面から扱いながらも、一方では制作意図として、食材を「食べない」ことが重視されており、食材は口=穴から出るまいと、かつ奥には入り込むまいと、二つの力の間で踏み留まっている。穴から固形物がはちきれそうにまろび出つつ、踏ん張りを効かせる有様は、出る・出ない、出したい・出さないの強いせめぎあいであり、本題「absorb」(吸引・吸収する)とは逆に、必然的にもう一つの穴を想起させ、「排出・排泄」を強く連想させた。インスタライブで明言を避けたのは、強く矛盾する力の間に踏み留まる食物の表情と、その行為を進んで繰り返し行う作家の営みが、肛門期を思わせる無垢な遊戯へと繋がってゆく点であった。

 

摂取や異化を行わない「食」と「口」、なおかつ異性や性差に向かわない「変身」「演出」というベクトルなき遊戯に、私は関心を抱いた。それが原初の幼児性を発揮しているためなのか、逆に老成による死生観のためなのか、まだ判然とはしなかったが、その営為には「性」を欠いた初期値のままの「生」の楽しさが、ぐるぐると渦巻いていた。

先に挙げた四つのコンセプトや枠組みは遊戯を「作品」としてプレゼンテーションするための構造物であり、自己の体を確かめるように手探りで行われる「あそび」を、ルールのあるゲームへと昇華させるための戦略だろう。だがこのゲームにはゴールはなく、登場するサラリーマンや釈迦は目的を達せられず、クシャミをした後のキャストらがその後どうなったかは分からない。カビもまた、寒天培地と写真を覆い尽くすことなく終わる。

 

「終わり」が最初から奪われた踊り場での「遊戯」には、始まりも終わりもない。

本作において「absorb」:吸引・吸収されているのは、「性」という役割や欲求であるかもしれない。或いはもっと広範な社会的役割や意味性かもしれない。作者が全身全霊で繰り出す空振りは、この小さくて暗い穴に向かって空を切る。コンセプトの柱の向こうで踊る作者の身体に、私たちは何を見るだろうか。憧憬か、前衛か、解放か、それとも・・・。

 

 

 

( ´ - ` ) 完。