ファッション店目当ての若者が往来する裏原宿、キャットストリート沿いの物件の一室に小さなギャラリーがあり、展示2日目ということもあってひっきりなしに来客が訪れ、賑わっていた。
2002~2004年の最初期の作品と、2013年以降の現在の作品、計14点が展示され、他に多数の著作物がテーブル上やガラスケース内で提示された。
この、最初期の作品と現在作品との対比ができたことが、非常に有意義だった。
【会期】R4.7/16~8/2
インベ作品といえば今や、様々な女性から話を聴き、相手の望むシュエーションを作家が協働して作り上げる、演出性の強いポートレイト作品でお馴染みである。これまで多数の女性らが作品に登場し、生活・人生で抱えた思いや事情や紆余曲折を過剰な演出によって個性に転じ、表現として発してきた。写真集『理想の猫じゃない』(2018)だけでも62人もの女性が登場している。
社会や家庭で、自分自身の中で、擦り切れ、消耗され、自家中毒を起こしてきた女性らが、自分の声と身体を取り戻して身を翻し、自虐や自傷を通り越した、諧謔みと過剰な真摯さで繰り出すDIY自己肯定は、他に類を見ない独特な表現である。
2019年1~2月に大阪(ニコンプラザ)でも展示があり、私はそこで初めて知ったのであった。
さて本展示では、そこに2002-2004年の初期作品、インベ自身が演出で登場するセルフポートレイト作品が提示されていることが重要な意義を持っている。
初期作品を鑑賞していて「・・・あれ?」「なんかおかしいな、、」となったが、聞いてみると、やはり初期作品に写るモデルは作者本人だった。現在SNS、Twitter、YouTube等では、「インベカヲリ☆」=髪の短い、眼鏡をかけた温厚「そうな」お姉さんキャラとして、半ばアイコン化したイメージで流通しているが、そうした現在の肖像とは全く違う表情をしていたので、確信が全く持てなかったのだ。あるよね。特に若いときジャックナイフと呼ばれていた兄さん姉さん方も多いのでは。
しかし若い女性がアンニュイに写ってたら何でもかんでもセルフポートレイト、という解釈をするのも紋切型過ぎるだろう、などと煩悶し、わけのわからぬ葛藤を経ました。ぐぬぬ。でも展示ステートメントシートにはっきり書いてあった。
20年前に写真をスタートした当初、作品づくりは私にとって症状だった。自己主張で、自己確認で、表現であり発露。初期のころに、セルフポートレイトが多かったのは、それが理由だ。
セルフか迷ったのは、風貌があまりに違うからだ。
作者の風貌の話でいうと、これら初期作品では作者自身が何か切迫したものを抱え、生の切実さを(実際にそういう状況にあるかどうかは別として)体現すべく舞台に立つ、舞台俳優としての表現者である。
対して現在の作者は、切迫した状況や極限状態に至った人物を取材し、その言葉を引き出して舞台に立たせ、メディアに載せて伝える、翻訳者や演出家のような立場で表現を行っている。
この作者の立場、役回りの違いが、作品の構造の違い:初期セルフポートレイト作品と、現在のモデルとの協働による演出ポートレイトとの性質の相違点となり、ひいては、現在作品の意味を読み解く上で重要になってくる。
初期セルフポートレイト作品は、日常世界に裂け目を生じさせて、ズレの中に逃げ込んで堡塁を築き、「個人」の私情的表現を行っている。まさに自己表現、「わたし」「私」「ワタシ」・・・。
が、違和感がない。変な言い方だが「自然」に溶け込んでいる。モデル=作者自身が、ポーズや表情、場の雰囲気、フィルムの色味、果ては作風としても違和感なく調和している。
言うならば、90年代後半のインディーズ映画のワンシーンを切り出してきた1枚のように、前後の尺・動きを伴った物語としてのパッケージがあり、登場人物(=作者)はその物語の中で、今にもセリフを喋り出しそうな状態にある。
「セリフを喋る」人物写真、この点は大きい。
あくまでその物語世界の中で、「人物」は世界の一部として配された「役割」であり、その役に応じたセリフを内在している。その筋書きに沿った仕事を監督兼俳優がやっている。初期作品はそのように見えた。
対して、現在形のインベ作品:『やっぱ月帰るわ、私。』(2013)、『理想の猫じゃない』(2018)等では、前後の物語空間が想像できない上に、セリフを持たない。物語ることから離れたところで撮られている。
これは私も予想外だった。突拍子もないカットの数々は、壮大でパワフルで奇妙な「物語」の一場面として見えていたのだが、初期作品と比較した時、これらは「物語」を伴わず、真空に浮かぶ孤独な星のようなカットだった。
初期作品が90年代~ゼロ年代初頭のインディーズ映画だとすれば、現在作品は人体パフォーマンスによる彫刻のようで、前後なくその場面だけが存在していて真空の中で直立している。
さらに言えば、「神話の絵画」とも言えるかもしれない
水場や光の満ちた聖なる場面と、若い女性が肌を、胸や腿を、陰部を露出させ、神妙な表情と固まったポーズをとり、背景には現世の穢れ(ゴミや雑多な家財や都市のコンクリート景など)が入り込む。聖と俗との対比と人物の凍結したモーションという取り合わせは、ルネサンス期や新古典主義でギリシヤ神話が描かれた絵画のような「一点もの」のシーンを連想させられた。
言うまでもなく、撮影者と被写体との構造、関わり方が一変したためだ。
現在作品では、作者は被写体の話=外部の声を聴き、それを元に撮影場面を構築していく。写真集や展示のキャプションを読むとよくわかるが、インベは相手の言うことを自分の価値観や論理の枠組みで加工しない。ほぼ、相手の発話を書き起こし、文章の体裁・バランスとしてバックグラウンド等を地の文で支え、補っているのみで、そこには対面した女性らが語るそれぞれの世界がある。
他者が語るそれぞれの世界のみがある。その世界をインベ流の文体で舞台に上げる。インベは演者の発表のためのフォーマット作りを通じて自己表現を行う。
前述したステートメントの続きを再び引用する。
・・・それからだんだんと他者への興味に移り変わり、今ではすっかり、人の「語り」に魅了されている。その「語り」を聞くことで、他者という存在を写している。対象が自己か他者かで、やっていることは今も昔も変わらない。
そう考えるとこれほど神話的なものもない。他者の内なる言葉は、繊細な花弁のように、掴んだり触わるとすぐに傷んで変色する。
政治的主張や理論体系、フェミニズムなどの運動としての言語は、それら自体が言語の枠組みを持っているから、個人はその外部の言語体系に埋もれる形で発話することになり、圧倒的に強い。エクセルで計算式を組んでいるようなものだ。
だがそうした外部の理論を使わず、自分の言葉で、自分の負ってきた傷や生活、人生について語る行為は、とても繊細な話になる。
語る側も、相手に語れるよう自分の中で独自の体系化を図っていたり、逆にばらばらと散乱していたりする。常人は時間と手間が惜しいのでそこまで引き受けて聴いていられないし、聴く関係にまで至ることがない。聴いてもどうしようもないので、既存の枠組みを提示し、現実的な解決を図ろうとする。
既存の枠組みによる解決や、論理的咀嚼は、ざっくり言えばこうした複雑で繊細な「個人」を解消し、既存・既知のクラスターに回収してしまうことだ。私達一般人は、苦情要望に応えたり、蒙を解いたり叱ったり教育したり、相談に乗ったりセラピーや医療機関を介したりしながら、ややこしい「個人」の声を溶かし、消すことで仕事を回し、社会を回している。
インベはそれをせず、尊重し、聴き、その個人の存在を可能な限りその意図に沿ってエンハンスし、自己肯定の形で写真化する。そして現実の都市生活の片隅で・切れ目で・陰で、政治、経済、地縁血縁などから切り離されたシチュエーションを作り、撮影する。
インベ流の演出とは、彼女らに強烈にまとわりついてきた政治、経済、地縁血縁などを切断し、圧倒的架空の舞台に立たせて自由化するために行われる、純化のプロセスだ。ゆえに聖的さを伴った生身の「生」が写る。
それは「他者の言葉」を写真文法によって、1枚に超圧縮して語らせたものだ。ゆえに前後のストーリーや尺を持たない。長いインタビューで語らしめた、その人たちなりの「言葉」――圧倒的に外側にある、あまりに独特な物語を、出来るだけそのまま写真化したものだ。
インベ現在作品に触れるたびに「そういう存在がいるとは聞いたことがあるが、見たことはなかった」という、未知の風習や信仰を普通に抱えた未開部族・少数部族を発見したような驚き、そして翻って自己のずるさや疚しさを自覚してしまうこの感じは、現代の神話的なものがある・・・ と言ってしまうと綺麗にまとめすぎだが、まあその、そういうことにしといてください。うへえ。
この2冊をセットで読むと、構造的に理解が進んで、いいですよ。
しかし、「ワタシ」「ワタシ」「ワタシ」の声に溢れた自己演出的自己表現者が、他者とのセッションで相手の持ち味を生かしつつ、自分の舞台に他者を引き込んで声を発せさせるようになるの、異系統の椎名林檎みたいで、面白いですね。
「色んな登場人物を自分の舞台上に上げる」「現代の生きづらさを翻訳し戯画化して伝える」という大枠のところでは、漫画家のカレー沢薫が似ていると思う。
このへんは宿題にします。
( ´ - ` ) 完。