写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【ART】視覚芸術百態 19のテーマによる196の作品 @国立国際美術館

【ART】視覚芸術百態 19のテーマによる196の作品 @国立国際美術館

開館40年を迎えた国立国際美術館が、大規模なコレクション展に挑んでいる。

 

 

現代美術に興味はありますか? 

あなたなら、どうキュレーションしますか?

 

 

196作品。1品1分ペースで観て回ったとしても、200分 ≒ 2時間半はかかる。

怒涛の物量である。

地下2階、3階の展示スペースをフルに使い切って、19のテーマで部屋を区切り、収蔵作品を細かく再編して並べるこの企画は、感想として「真面目に鑑賞すると倒れそうになる」のだが、現代美術の総括が出来るので非常に有意義だったのは間違いない。

 

なぜここまで細かくテーマを設定しているのか? 個々の展示作品より、まず本展示の根幹のテーマと発想について考えてみたい。

 

美術館の基本的な役割として、美術作品の購入・収蔵と、保管(アーカイブ)、そして展示という機能が挙げられる。他施設などから作品を借りてくる企画展とは異なり、自館で収蔵してきた作品について、倉庫で眠らせておくだけではなく、「コレクション展」という形で世に送り出すためには、どのような「キュレーション」が必要なのか。

 

なぜ今、キュレーションなのか。それは現代美術というものの性質に大きく関わっている。無料配布されている国立国際美術館ニュース No.226(2018.6月号)』において、村田麻里子 関西大学社会学部教授(メディア論・ミュゼオロジー)が寄稿文『コレクション展の時代』にて、以下のように指摘している。

 

現代美術は「持っていること」そのものが難しい。そもそも作品自体が時代状況に張り付いて存在しており、資産価値を持たないことも多い。アートプロジェクトの内容が記された紙の束、アートパフォーマンスの記録写真、廃番になった映像機器。プラスチックやゴムなど劣化しやすい素材も増えた。

(略)

総じてコンセプチュアルなこれらの作品は、もはや館がコレクションを「持っていること」の意味を変えてしまった。作品は、展示することで作品になり、その意味も更新されてゆく。現代美術のコレクションは、これまでミュージアムという組織が自明視してきた、収集・保存・公開という所作すべてに、再考を迫るのである。

 

このように、端的に現代美術と美術館の関係について述べられている。

どのアートイベントに行っても分かる通り、今や「アート」は、絵画、彫刻、写真など、形・フォーマットの定まった作品である方が逆に少数ではないだろうか。会場ではどの「作品」も、その場・その時に応じて形態を変容させるインスタレーションとしての性質が強いと言わざるを得ない。

これらの形なき「現代美術作品」を「収蔵」し、「展示」するということが、現代の美術館の役割として不可欠な課題となっている。形がないだけに、美術館がアーカイブを形成し研究を行わなければ、この世から失われてしまうのも速いだろう。

 

こうした問題意識は、まさに今年、同館で催された『トラベラー まだ見ぬ地を踏むために』(2018.1/7-5/6)で強調されていたテーマであった。

 


作品の記録や研究、保全を然るべき公的な研究機関がしっかりと行わなければならないという本質論もさることながら、上記のとおり、作品自体の性質が「展示することで作品となる」ものへと大きく変容していることが重要だろう。パフォーマンスアートなどはまさに、いかに克明に写真や動画で記録したり、原作者の指示書や公演権利を購入したとしても、それを会場で実演、再現して見せなければ、作品としての体を成さない。

  

そこで積極的に美術館のコレクションを観客の目に届けようという話になるが、単に作品の年代や国別に分類した展示では、もはや展示としては成り立たない。多分、飽きると思う。

そういった教科書的な見せ方では、作品の力は引き出せないことを、鑑賞者である我々はこの10年ほどの間に、様々なアートイベントを体験する中で、知ってしまっている。

どのような間取りで、どのような明かりで場に置くか、どのような作品と隣り合わせにし、どこまでテキストを出すかで、それぞれ全く別の読み方が生じる。このことを、何よりも経験してきたのが、アートファンである鑑賞者である。その層に応えんとするアーティストらは尚更だろう。例え、作品のフォーマットが強度のある定型を有していたとしても、アーティストは作品単体で展示が成り立つとは考えていない。「その」展示会場での展示の仕方が全てを決めるのだ。

 

それ以上に、グローバル化の進展により、そういった分類があまり有効ではなくなっていることを、中西博之 国立国際美術館 主任研究員は指摘する。

 

あらゆる美術館・博物館における収蔵品の展示方法は長らく時代別・地域別になされてきたが、現代の美術作品を展示の対象にする場合、それは充分には機能しなくなってきている。確かに昨今においても、新たに制作される美術作品に地域差も時代差も存在する。しかし、それ以上に、異なる地域間における関心の共有が著しい。また、いくつもの価値観が併存し、各価値観は過去のさまざまな地域や時代の価値観と繋がりもあり、以前のように作品は弁証法的には推移していない。少なくとも弁証法的に整理することは、事実上不可能に近い。 

 国立国際美術館「視覚芸術百態 19のテーマによる196の作品」(図版)P82『収蔵作品展について』) 

 

こうした事情を踏まえて、収蔵作品を「テーマ別に分類する」ことが、世界の美術館(ロンドンのテート・モダン、ニューヨーク近代美術館、パリのポンピドゥーセンター等)では試みられており、国立国際美術館もその流れを取り入れたものである。

 

ここに中西氏は基本的な注意点を付している。

 

現代美術の収蔵作品展の展示方法をめぐるこの変化は、キュレーションの観点から言えば、美術作品の歴史学的な研究の応用から、広範な時代・地域の作品によるテーマ別展示の導入への移行となる。しかも、展示する作品は収蔵品に限定されるので、それはあたかも「冷蔵庫にあるもので、美味しい料理をを作ろう」とする試みに等しい。すなわち、素材が十分にあれば定番も用意できるが、なければ否応なく工夫が必要となり、素材と方法に関する豊富な知識が必然的に不可欠となってくる。

(上記同 P83)

 

自館のコレクションを冷蔵庫の食材に例えるくだりは非常に分かりやすく、納得できた。これは厄介な点である。

国立国際美術館は、戦後の現代美術の動向をしっかりと押さえるものになっていて、特にポップアート、ミニマルアートや、日本における具体美術、ハプニング関連の資料が厚い上に、畠山直哉や米田知子、ヴォルフガング・ティルマンスなど名だたる現代写真作家の収蔵も意識的に行っているので、個人的には安心感を持って観ていられる。課題があるとすればまさに今後の現代美術を収蔵し続け、時代と呼応した企画、研究を進めていくことだろう。

 

しかし、村田 関西大学教授の指摘するとおり、「欧米のミュージアムが、富や権力と結びついた膨大なコレクションを収めることを目的につくられたのに対して、日本では、ミュージアムという施設の設立を目的として、コレクションが集められるかたちが定着し」、地方の自治体立美術館が高度成長期からバブル期にかけて、短期間でコレクションを収集する過程で、「どの館にも有名作家の小振りな作品が一点ずつあるような、均質で差異の少ないコレクションが形成されてきた」ことを考えると、日本の美術館全体が今後どう立ち回れるか、不安もある。

 

こうした問題意識から、本展示では細かくテーマ別で収蔵作品の構成が編集され、観客自らの解釈を促すように試みられている。

展示の中身に触れよう。

本展示の「19のテーマ」は以下の通りであった。

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1.点・線・面

2.色彩

3.素材と形態

4.空間

5.光

6.動き

7.スケール

8.視点

9.台座と支持体

10.タイトル

11.人

12.動物

13.自然

14.物

15.文字

16.流用

17.ミュージアム

18.反復

19.偶然

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会場を回っていて気付いたテーマと合致しているものもあれば、「あっ、そうなの?」というものもある。あくまで会場を編集する上での切り口なので、そこまで意識する必要はないと思うが、まず分かりやすい切り口から小分けにしてもらえることで、作品の読み解きがしやすくなったのは確かだ。

作品を丸ごと観客に渡されたら、丸焼きにした牛一頭を「はいどうぞ」と渡されるようなもので、箸のつけどころに困るだろう。それぐらいボリュームがあった。

「文字」と「物」の構成は良かった。絵や写真に文字を入れること、モノがそのまま作品として展示されること、これらによって起こされる攪乱は、まさに「絵画」というフォーマット、制度への反抗であり、固定化した我々の認識への異議申し立てとなる。作品が指示する対象は何か? 作品が映像として表しているのは何か? 作品外に存在するそのモノそのものは一体何か? そういう問いとの応酬をやる。

 

ただし時間がかかった。

全体を通じて、1点1点が世界的に著名な作家なので、深入りするときりがないということでもある。企画展であれば同じ作家の作品をある程度まとめて解釈できるが、複数回登場で目立つのは高松次郎、中原浩大、A・ウォーホル、畠山直哉ぐらいか。あとは大変。作家を個別に向き合うと想像以上の時間がかかる。

 

面白かったですよ。

 

「現代美術」と呼んでいる代物――マルセル・デュシャン『泉』以降の世界を物凄い勢いと密度で駆け抜けることができた。作品の解説はないので、体当たりでの対話、解釈になるが、隣り合う作品らとの共通点と差異を考えていたら、何か見えてくるものがある。

まさに「冷蔵庫にあるもので、美味しい料理を作ろう」というキュレーターの試みから、卓に料理が並べられたものだと思えば、食べ方・味わい方があるわけで、後は自由に食べて味わえばよいという話である。

子供がライアン・ガンダー『あの最高傑作の女性版』(1974)のばちばち瞬きするのを喜んだり、カップルがトニー・アウスラー『空気塞栓症』(1998)の「う~~」「ウッ」と苦悶するのを困惑しつつ喜んだり、まあ概ね観客は喜んでいます(多分)。

 

私ならどうキュレーションするか。

 

普段は付き合いが難しいミニマルアート、抽象主義表現といったジャンルも、今回は分散していたので、あまり抵抗なく受け止めることができ、後に考えを整理できた。カンバスを単色でフラットに塗りつぶした作品は全てミニマルと呼ぶのかなと思っていたが、そういう話ではなかった。

 

作家が自らの手で色を塗り、神秘や象徴性、精神性を表わす活動については「構成主義」「抽象表現主義」「カラーフィールド」等の呼称がなされる。1940~50年代に評価された作家がこれに当たり、バーネット・ニューマン『夜の女王Ⅰ』(1951)はこちらに入る。

バーネットはミニマルだと思っていたが違った…。

イミ・クネーベルは、展示作品『グレース・ケリー(Ⅳ-5)』(1990)だけを見ると、筆致が抑えられ、冷たい複数枚のパーツを組み合わせて一枚の長方形をなしており、ミニマリズムかと思ったが、彼の他の活動を見ると、構成主義的であった。

村上友晴、秋吉風人も、展示作品は単色塗りのミニマルな作風だったが、他の活動を確認するとミニマルではなく、もっと揺らぎに満ちており、現代の抽象表現であった。調べてみないと分からないものだ。あくまでコレクション展は「とっかかり」として使うものになるだろう。

 

これに対して1960年代、象徴性や表現、内面といったものを払底し、徹底的に絵画を「モノ」の次元に至らしめる活動は「ミニマルアート」と呼ばれた。これは筆による手仕事、作家の筆致など、作家性に繋がるものを否定しており、既製品の組み合わせや金属や石といった素材をそのまま展示する。

フランク・ステラ『グレー・スクランブルXⅡ ダブル』(1968)、4連のステンレス・スチールの棚状の立体物から成るドナルド・ジャッド『無題』(1977)、黄色とピンクの蛍光灯が空間を照らすダン・フレイヴィン『無題(親愛なるマーゴ)』(1986)、これらが「ミニマルアート」と分類されるものだった。

さすがに表現であること自体を否定するという矛盾した表現活動だったため、それなら表現でなくていいよねということになり、60年代のうちに早々に終息。後に「ランドアート」や「ニューペインティング(新構成主義)」が勃興することとなる。

 

美術史の話に逸れたが、要はそういう観客側のざわざわ感を引き出すことが、キュレーションの最大の目的である。

余裕があれば、会場を回る際には「自分がキュレーションを任されたとしたら、これらの作品をどうテーマ分けして構成するか?」という観点で見て回ると、本展示の意図がより明確になって面白いだろう。

 

私なら、さすがにテーマを19から10以下に減らしたい。そこには、風景論や都市論、ポートレイト論を持ってくる。完全に写真史の素因数分解になってくるが、絵画や彫刻、映像作品から写真史を横串で刺しまくって批評することは、現代では欠かせないと感じている。写真史は誰が語るのか? 誰のためのものか? その問いを忘れてはならない。 

 

ちなみに展示されている写真の話をすると、ヴォルフガング・ティルマンス『フライシュヴィマー(自由な泳ぎ手)79』(2004)と、オノデラユキ『真珠のつくり方No.10』(2000/02)が同フロアに展開され、それぞれヨコ、タテが2m超の巨大な作品で、映像に没入できる。

しかし残念ながら点数は大体1作者1点きりなので、それ以上の読み込みは出来ない。やはり理解の幅を広げるためのとっかかりと言うべきか。

 

私事だが、メル・ジーグラー『無題(建設現場)』(2001)の8点組写真は非常に共感でき、刺激になった。

その名の通り、道路工事か何かの建設現場で、恐らく夜、あるいは暗い建物内で撮られており、工事で剥き出しになった配管チューブ、ボルトが幾つも刺さって固定された鉄骨、キャタピラで掘り返された地面の襞など、都市のパーツが主役であった。これらは深海のイメージを湛えていて、海底の生物とその生息環境を捉えたような、暗く妖しい都市の深部を語っていた。

いずれもカラーフィルターか、それとも照明に色を当てているのか、画面は1枚ずつ色を塗り分けられており、全体でバランスのとれた闇を語っていた。美しかった。

 

しかし残念ながら、私と違って特に「都市のパーツ写真を集めて生態を語る」作家ではない模様。残念。

<★Link>

Mel Ziegler - 14 Artworks, Bio & Shows on Artsy

米国旗を複数吊り下げた作品が話題になった模様。 

 

ちなみに本展示は、インフォメーションで許可を得れば写真撮影が許可されるが、SNS等への掲載はNGとのことで、手元記録用の写真しか残っていない。また、図録は展示作品の一部しか掲載されていない。

 

そういうわけで、行けるなら観に行っておいて、許可を得て、気になる作品や展示方法について写真記録を行うのが吉である。

 

( ´ - ` ) いきましょう。

 

【会期】2018.5/26~7/1