写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【ART】「起点としての80年代」@静岡市美術館

【ART】「起点としての80年代」@静岡市美術館

旅先で県立と市立を間違えて大変でしたが、今度こそお目当ての市立のほうです。80年代特集を観ます。
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 ※おまけ:間違えて行った県美『めがねと旅する美術展』。

mareosiev.hatenablog.com

 【会場】静岡市美術館(JR静岡駅徒歩3分、葵タワー3F)
【会期】H31.1/5(土)~3/24(日)

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2018年度はいよいよ平成最後の年ということもあってか、「現在」へと連なる系譜として、「80年代」という昭和末期~平成にさしかかる時代について、体系的な検証・考察が試みられた。それが2つの大きな企画展:金沢21世紀美術館『起点としての80年代』展(2018.7/7~10/21)、大阪の国立国際美術館ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代』展(2018.11/3~2019.1/20)であった。そして前者のほうは、金沢、高松市美術館静岡市美術館の共同企画展となって巡回しており、今回の静岡でラストとなる。 

mareosiev.hatenablog.com

大阪・中之島の『ニュー・ウェイブ』展が「80年代」を2年間隔での時系列で見せる構成とし、作家1名につき作品1点という作品群によって時代の雰囲気を再現するよう試みた。そこで浮かび上がる時代の傾向、動向に焦点を当てていたのだ。それに対し、本展示『起点としての80年代』は、当時を代表する作家を個人として集め、4つのテーマに割り振って会場を構成していた。

 

以下はその章立てと作家。

1.メディウムを巡って_
 岡﨑乾二郎、諏訪直樹、辰野登恵子、戸谷成雄、中原浩大、中村一

2.日常とひそやかさ_
 今村源、日比野克彦、杉山知子、舟越桂、吉澤美香

3.関係性_
 川俣正、藤本由紀夫、松井智惠、宮島達男

4.記憶・アーカイブ・物語_
 石原友明、大竹伸朗森村泰昌横尾忠則

 

(  ╹p╹)

 

難しいすね。
分け方はけっこうたいへん。

 

もちろん「どの作家、作品も多様な側面を持ち、どの言葉にも少なからず関係します。」とコンセプト文に明記されていることなので、仕切りは便宜上のものとして割り切り、各作家の仕事を押さえていくのが良いでしょう。

 

(  ╹p╹)  しかし難しい、

なんかどれも「普通」に見えてしまうの。
集めました、置きました、みたいな。静かさが何というか。

 

白い壁の、まっとうな美術館で、これらの作家を見ていくことの、難しさよ。「動き」が殺がれて標本みたいに見える。 

 

80年代当時にこれらが置かれた「状況」と呼応しないと、やはり分からないのだろうか。逆を言えば今現在とも変わらないインフラ、感性に基づく作品は普通に分かる。宮島達男のデジタルカウンター作品はまさにデジタルの観点で、日比野克彦の異様にポップな段ボール作品も、デザイン性と消費社会とサブカル的な観点・感性から、特に説明がなくてもその力は伝わってくる。

この違いは何だろうか。

思うに、美術作品の基本的な読み方には大きく2つあって、1つはその作品の属するジャンル内での文脈やフォーマットから読むもの、もう1つは、その作品が世に出された時の時代の雰囲気や社会情勢、感性から読むというものだ。80年代の「ニューウェイブ」などの新しい動向は、前者:既存の各ジャンルの文脈、しきたり、制度、権威などから自由に活動しよう、ジャンルを越境しよう、クロスオーバーしてみようと試みた運動の成果として「作品」が生み出されたと言えよう。よって読み方は後者、社会動向や時代の風から理解する方が分かりよい。すなわちニューペインティングの熱狂、バブル、ポストモダン、平成の到来といった雰囲気だ。(無論それに属しない活動も多数あったと言われている)

こうした後者の読み方;時代、社会、アート界の動向から「ニューウェイブ」の時代を追体験するよう企画されたのが、国立国際美術館の『ニュー・ウェイブ』展であった。更には「90年代」への接続も試みられていた。その射程には現在のサブカルチャーなども無縁ではあるまい。

本展示『起点としての80年代』では、逆に、社会の動向や当時の雰囲気を全くリンクさせていない。作家が個々に切り出されている。鑑賞に当たって依拠できるものが極端に少ないため、よく言えば博物館的に冷静に作品を観察でき、悪く言えば美術の知識がなければ太刀打ちできない。金沢21世紀美がどうだったかは分からないが、本会場はさらに、空間としてもカチッとしていて、自由解釈のドリフトを楽しむ余地も少ない。

 

以下、印象的な作家・作品をメモ。

各作家の来歴など詳細については図録などを参照されたい。

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■岡﨑乾二郎_

1981年の『あかさかみつけ』などアクリル、ポリエチレンの、平板が立体的に組み合わさった作品7点。そうか立体造形か、と通り過ぎてしまうとそれまでだが、10秒ぐらい直視していると奇怪な感情に襲われる。只事ではない気がしてくる。これを何と呼べば良いのか?

絵画とも彫刻とも違う? 薄くひそやかな、「和」を感じさせる色で塗り分けられた半円や、四角形から半円を切り出されたあとのパーツが繋がり合わさっていて、隣り合う辺が90度に立ち上がっている。一枚ずつの板を見ると絵画の変形体かなと思う、しかし絵画としては色の塗り、描きの要素が薄すぎる。ではこの板は建材か?  いや建築(のマケット)にしては目的がなさすぎる。彫刻か?  いやこれは平面でしょう。そうして話が前に進まないのだ。

ならばと頭の中でそれらを組み直してみても、別に一枚の平面に還元されるわけでもない。よってこの作品の由来も行先も分からない。こういう時空なのだと言わざるを得なくなってくる。また、観る位置を少し変えると先程まで立面で見えていたものが線・縁になる。常に全体が動き続けていてどの「面」も「面」にとどまらない。

固定されることをことごく回避する。静止した動態だ。

なんだこれは。モノではなく空間なのか、現象なのか。

四方30㎝にも満たないその立面・平面の交差体を眼でうろうろしていると、「四次元立体」(正八胞体)を説明するためにCGをぐるぐる回して見せる動画を思い出した。常人は四次元で物を見る訓練がなされておらず、把握ができないため、図形を動かす中で見慣れた三次元(のように見える二次元上の表れ)の像に束ねられた瞬間しか、それをまとまりのある「形」として把握できないのである。その瞬間以外は「動き」に他ならない。この、うねうねと次元が動き回る感じは、まさに通常の認識の外側にあるものだ。立体でも平面でもない。美術品なのに支持体がない。どこにも定まらない。絶えず動いている。面か線か縁か奥行きか。立体でも平面でもなく建築でも自然物でもない。これを美術品と呼んでいいのか。科学なのか。


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図録の写真はこの作品の特殊さがよく撮れている。作品の内部(内・周囲?)に、独自の次元が展開していることがよく分かる。美術なのか数学なのか建築なのか。眼には見えるが物理、モノの世界の側には存在していないかのようだ。概念を形にした世界。虚数で建てた茶室のような趣があり、脳はそこに室を認めながらも、そこには入ることも触れることもできない。

 

 ■辰野登恵子_

図録P50より。「作家はアメリカ文化と、アンディ・ウォーホルポップアートの、写真製版によるシルクスクリーンで既存のイメージをそのまま取り込んだ、手のあとを感じさせないクールな表現に憧れ、在学中の70年の夏休みに渡米。そこでクリフォード・スティルら抽象表現主義の作品に出合ったことが、後のペインタリーな絵画の展開につながる。」
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そして80年代半ば以降に描かれたのは、青く陶酔感を湛えた、巨大な絵画だ。『WORK 86-P-13』(1986)、『WORK 89-P-13』(1989) は、高さが2.5mから3m弱もあり、前者は壁のクロスにあるような記号化された花の模様がブルーの光沢面に刻まれ、後者は黒い小さな長方形が、縦に空いたブルーの菱形の周囲に並んでいる。 色を薄く塗り重ねては、ナイフで削って描かれた抽象絵画だ。

ゆったりとした曲線が多く、「塗り」と「削ぎ」の手仕事の痕が豊富なため、ブルーの陶酔感に眼から入っていくことができる。タッチが柔らかいのはポップアートの影響なのだろうか。画家が塗り、描いたようには見えず、まるでそのような青い空洞が最初からあったように見えてくる。長時間観ていても没入できる。

 

日比野克彦_

今こうして『PANTS』(1983) や『SWEATY JACKET』(1982)、『GROVE』(1983) を目にしても、「これは新しいわ」と一発で感じる。80年代初頭当時なら激震が走ったのではないか。ポップなデザインがそのまま立体として現れる驚き。「ポップな」立体ではなく、「ポップさ」を生じさせる文体、描き方そのものを立体造形へと結晶化し立ち上げているのだった。

立体8点、演劇『時代はサーカスの象にのって’84』ポスター1点、記録写真3点。

どんな丸みで、どんな温かみで、どんな簡略の仕方で、どんなキッチュとチープさで、どんなアメリカの消費文化で、日本人の憧れやクールさへの志向が醸成されているかを見抜き、それを露わにした。戦後日本の集大成=アメリカナイズの完成体として我々があったことを自白するような作品だ。

図録P74「当時は「段ボール少年」「夏休みの図画工作風」と、そのアマチュアリズム(作ることの純粋さ)が評価された」「作品に登場するモチーフも、飛行機そのものではなく模型という副次的なイメージで、(略)アメリカ文化への楽観的な憧れが表われている。」、イヤな言い方をすれば、日本人の「文化」の感度、センスの水準が、子供っぽく弄んだ段ボールのレベルに到達したということだとも言える。いわゆる「サブカルチャー」こそが、すっかり主たる文化として心身に刻み込まれている、その事実を早くから証言している作品だ。その先見性が怖くもある。(まあその後サブカルは恐ろしく複雑、高度、繊細なものへと更に進化するのだが。)

 

■今村源_

徹底してひそやかな作家で、「もの」そのものが宙吊りになったり、床に配置されている。ミニマルと言えばそうなのだが、計算や理知ではなく、むしろそうした人間の知と技を脱色しているように感じる。また、モノをそのまま置いていても、かつての「もの派」の放った土着性、呪物のような迫力はなく、これまた静かだ。


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作品は大きく3種類あって、1点はそうした理詰めのミニマルアートの立体造形、あるいは「もの派」の仕事に近いものだが、主張がなく静かで、ただそっとそこに在るオブジェ。2点目は、「自然」によって、しかるべくしてそうなった「かたち」、柿の実と枝や、アゲハチョウの片翼などである。3点目は、今村作品の代表格だと思うが、根のような、迷路のようなうねりのある線が組み合わさって、縦に竜巻や渦のように伸びた線集合の立体作品である。

ミニマル、もの派、自然、そして自然現象などを、全て等価に、同じフロアの面に置き、吊って見せる。思想的にもモノとしても無重力で、人為の対義語としての「自然」を彫刻化したインスタレーションと言えばよいだろうか。素朴なのでアート然としておらず、屋外や美術館の外で、眺めるように見るのがいいんだと思う。芸術の系譜を、切断とまで言わなくても、いったん静かに留保した世界観だ。

 

■吉澤美香_

学校の美術の時間や課題で、家財道具や家電に、日用品や生活雑貨の絵を描いて提出したら、どうなるだろうか。静かに減点されるか、さいあく教師がバカにされたと思ってブチ切れるかもしれない。吉澤作品はそれを地で行く。
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カンバス、紙の代わりとなるのが、暮らしだ。日比野克彦の提示した消費、デザイン、ポップの感性を別の形でやっている。可愛い、軽い、暮らしからデザインを浮き上がらせる、その上から記号化・デザイン化した暮らしのイメージを乗せる。各分野の中で個別に純度を高め続けてきたであろう「美術」から、暮らしの現場へと創作の行為と対象が下りてきている。新しい発想だったと思う。

ハンディ掃除機が異彩を放っていた。机やタンスはまだハンドメイドの範疇と言えそうだが、掃除機は完全にメーカーによる工業製品である。便器を超えたレディ・メイドを引き連れているのが、生活感とアート性の強いねじれの点になっていた。

だが80年代後半になると一転してスピード感の高い平面作品に転じる。『ろ-9』(1989)、はポリプロピレンに工業用インクで描かれた、モーター、車などマシンの一部のように見える。機械の魚拓(機拓?)のような、白地とインクの色だけのドローイングは、周囲に疾走感のある線が走っていて、高速な機械の時代のスピード感が写し取られている。

 

■松井千惠_

理屈では理解しづらく、感受性では説明がつかず。私にとってかなり恐ろしい作家である。国立国際美術館でも展示があったが、B3F『ニュー・ウェイブ』展では私的な暮らしの情景を秘密の日記のようにデフォルメした平面の絵画的作品『Harehearted Sleep』が展示され、B2F『80年代のツァイトガイストから』展では小フロアを占拠したインスタレーションが組まれ、うち『LABOUR-4』(1993)  では赤い壁面に階段状のオブジェと「彼女は労働する」というフレーズが掲示されていた。

松井氏はヨーゼフ・ボイスの影響を受けて80年代頃からインスタレーションの作風を強め、作風のバリエーションが多彩である。そして展示場所に応じた作品を展開する、その場そのものを物語化するようで、基本的に一期一会である。

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本展示でも80年代当時の再現として扱われ、出品リストでは『「あの一面の森に箱を置く」(信濃橋画廊、1987年)で展示された作品の部分、記録写真、映像による再構成』と記されている。

私ではこの作品の意味を解したり、「森」を理解あるいは感応するには至らなかった。それが出来るためには何が必要だったのだろうかと後日こうして書きながら考えてみるが結論は出ない。展示会場で走り書きしたメモを見返すと、以下のように残されていた。


・(池)の断面 ― 身体、体感の奥 …無意識の情動、夢のコア?

  | 体と空間、”作品”の気配への至り 断面 …意識化→作品転化

・(森)ー(垂直に)顕れるもの = 作品と作家との関係性、存在感

 ※共通 =水、土  (森は水を内に通し、垂直へ育成する)


どうやら松井氏は、この作品『あの一面の森に箱を置く』において、創造性、何かが「作品」へと立ち上がり、昇華されるプロセスなり瞬間のこと、「私」の内にある根源的無意識、形(言葉や記憶)にすれば一瞬で別の物へ転化してしまう夢のようなものを「池」と呼び、それらと自己との関わりについて思索を重ね、探求していたのではないだろうか。「池」「森」とは松井氏が作品の一部として寄せたテキストに現れる、重要な言葉だ。「森」が身体外、この自己の外側に屹立する存在や「作品」のことであれば、「池」は何なのか。その仮説はメモにもないし今も謎のままだ。ただただ「池」と「森」を巡る、神話めいた旅だ。

その旅は数分かもしれないし、氏の今まで生きてきた全ての時間、あるいはもっと古くて長いものかも知れない。と私は現場で感じたようである。他人事みたいになっているのは、作品鑑賞は時おり、五感が作品によって別の人格へと入ることがあるためだ。こればかりはその瞬間の私に聴いてみないと分からない。

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以上のように、毎度のことながら「展示の内容に関係なく一方的に掘り下げて、一方的に楽しんで悦ぶ」というマニアなことをしているが、一般人がこれを観て楽しいか・ためになるかは別次元の話である(難しいと思う)。体感的にはFF2で最終ダンジョンの敵と盾装備を外して殴り合うぐらい大変な気がする。アートを学んでいる人にとっても、あくまで資料としてのやりとりとなって、あまり興奮をおぼえるものではないのではないか。個々の作家とじっくり向き合うには良いと思う。

 

相変わらず「80年代」などという世界観は分からなかった。分からない、ということを重ねていたのが80年代だとも逆説的に言える。ポストモダンだ、と一括するのは簡単だ。が、それでは意味がない。まさに中身の入っていない、「ポストモダン」と刻印された缶詰や袋を買うようなものだ。80年代の潮流とは、無意味さを並べてそこに意味を見出すことを愉しむことだったのだろうか。そうした思考ゲームが許された最後の時代だったかもしれない。現在は生きること暮らすことの具体的な困難と不満が重すぎるし、「ゲーム」はとうとう国策で対外的にサブカルとして観光とパッケージで売りに出され、Eスポーツを商機だと新聞が何度も報じている。もう遊びの余裕はない。マネタイズに必死すぎる。だから80年代なんて別世界すぎて分からないのかもしれない。皮肉だ。 

岡崎乾二郎が別格にとんでもないということだけはよく分かった。上等な抹茶からLSDを精製出来る日が来たらば、あの虚数な茶室に合わせて没入し体感鑑賞してみたいものである。来世かな。

( ´ - ` )完。