写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【ART】「抽象世界」& コレクション特集展示「ジャコメッティと Ⅰ」@国立国際美術館

【ART】「抽象世界」& コレクション特集展示「ジャコメッティとⅠ」@国立国際美術館

夏休みは苦手科目の強化をしましょう。抽象絵画はお好きですか? 

 【会期】2019.5/25(土)~8/4(日)

 

( ´ - ` ) 何歳になっても抽象絵画は手に負えません。よい機会なのでどう観たらいいのか参考にしましょう。

 

簡単に2つの展示で気になったところなどを記しておく。

 

1.抽象世界

地下3Fにて展開。大部屋2室、作家13名で作品42点、普段の企画展の半分ほどのスケール。タイトルの通り、すべて抽象表現作品の絵画・彫刻なので、純粋に感性だけで鑑賞したり、作品だけから意図や意味を解そうなどと思うと大変だろう。美術史上の文脈から「〇〇に異議を唱える」「△△を回避する」といった話において意味や文体があるわけなので、素直に音声案内を500円で借りた方が良いかもしれない。しました。 

本展示の扱う「抽象」は1980年以降のもので、特に2000年以降の作品が充実している点が特徴的だ。1970年代までの美術動向=進歩史的な美術観から解放された、「絵画の死」の後に生まれた拡張的で新しい表現に焦点を当てている。

なので音声ガイドの解説も、モダニズム教条主義作家主義からの脱却、否定といった語り方が主となっている。その前提を踏まえて鑑賞するとかなり楽になる(一方で、本当にそんな教科書的な理解で理解したことになるのか、という根深い疑問も残る)。

 

 

エルズワース・ケリー《斜めの黒いレリーフ》(2010)は、白と黒のパネルが合わさった平面。白い四角のカンバス上の上を、黒が斜めに横断している。それだけなのだが、作者はジャン・アルプやロマネスク様式に影響を受けつつ、身近な生活に見い出される窓のツギハギや割れ物、影などにも関心を抱いているという。言われれば納得するが、もはや読解を巡るゲームは、ジョジョにおける初見のスタンド使いとの戦闘ぐらい厄介。

 

ジョン・アムレーダー《大さじ》《スライス》《挑戦者》など4点の作品は2016~2018年のもので、出展作品の中では最も新しい。「因習的な美術に異議を唱える」と言い、過去の抽象作品を踏まえつつ切り離すことに挑んでいる。すなわち「誰にでも作れる」ことによって、美術作品における独創性を否定しているのだという。キラキラとラメの入ったような輝きが鮮やかで、主観を排した塗りの連続が為されている。芸大の女子生徒のような瑞々しさがあるのに、ジョン・ケージに影響を受け、フルクサス運動にも関わったとかで、けっこう歳いってるやんという驚きがあります。

 

 

こうやって、抽象表現を言葉だけで表現するのは相当無理があるのだが、まあ皆さんお察しください。オール展示撮影フリーの時代が到来しますように。

 

 

ダーン・ファン・ゴールデンはオランダを代表する作家らしい。衣服、ハンカチ、包装紙などの既製品のデザインから着想した図を描く。「禅の瞑想的態度で精密に」描くという。つまり主観や作家性を排しながら手仕事を繰り返すということだと思う。世界を旅する過程で1963-64年に東京に滞在し、ポップアートと抽象画の合いの子のような表現を行った。《無題(東京)》(1964) があえて展示してあるのはそういう経歴ゆえだろう。

中心や焦点を消失したオールオーバーの技法に対して、その画面の一部を切り出して全体としているのがスタディーポロック》(1989)だ。言うまでもなくジャクソン・ポロックの作品を題材としつつ、黒い飛沫、したたりのごく一部がクローズアップされ、それ自体で作品として成立してしまっている。面白い。

 

ウーゴ・ロンディノーネ《二千十四六月二十二》(2015)は、「スーパーマリオ」の初期作品のような赤茶けたレンガ壁が2m半×5m半以上の大きさで描かれている。タイトルは意味不明だし、マリオ以外に思いつかなかったが、説明では特に関係ないようだ。

道化師、オリーブなどモチーフを厳選している作家とのことだが、2011年の「横浜トリエンナーレ」で横浜美術館のエントランス前の敷地に石の部族めいたモンスターを多数並べていたのがこの作家だった。今年の「あいちトリエンナーレ2019」にも出展するらしいので期待。

ちなみに音声ガイドでは、レンガ面の裏はドローイングになっているという解説だったが、一面に麻布が張られており、謎が残った。

 

リチャード・オードリッチは平面のドローイング作家で、表面のオイル・ワックスの塗りが独特の凍結感をもたらすという評がWebでも見受けられるが、本展では《女神》(2016)という、3体の脳?内臓器官? のオブジェが異様な存在感を放っていた。ツヤツヤの緑色や黄色は光を帯びて、医療用レゴブロックのような物体だが、その素材が「彩色したブロンズ、大理石製の脚」ということしか情報がない。音声ガイドも「様々な地域のものを取り込む」「偶然の産物」だの無難な解説しかなく、脳のような3体の《女神》のことは謎のままで終わった。今回の展示でダントツに好きだし、気になる作品だった。

 

私は絵画、特に現代美術、抽象表現は冗談抜きによく分からないし動向も知らないのだが、2010年代末の現代においても、何かしら世界中で、こうした模索が行われていることが分かった。もっと場数を踏めば、10年刻みで傾向の違いが分かるようになるだろうと思う。分からん分からんと言いながら、教科書的な説明があってこその鑑賞である、音声ガイドが実に有用であった。

 

2.コレクション特集展示「ジャコメッティと Ⅰ」

会場・地下2階ではコレクション展+アルベルト・ジャコメッティに関する展示。2018年にブロンズ彫刻《ヤナイハラⅠ》(1960-61)が当館コレクションに加わっている。

今回の企画が面白いのが、作品タイトルの「ヤナイハラ」=矢内原伊作という日本人との関わりを掘り下げていること。ジャコメッティの特徴的な、固く縛った針金のような彫像については素人にもよく知られているところだが、彼の人となりや、そのモデルとして重用された日本人・矢内原伊作のことは、彫刻作品ほどは実際あまり知られていない。

さらに言えば、ジャコメッティという作家がモデルとどのように対峙していたか、ひいては「彫刻」や「表現」といかに向き合っていたかについては、なおさら知らない。

本展では生のジャコメッティの情熱、執着、喜怒哀楽を知ることができる。矢内原の遺した多数のメモ、当時の書簡や雑誌の記事、そして矢内原の講義 が克明にジャコメッティの人間くさい像を浮かび上がらせる。

 

1つは、彫刻、表現への向き合い方である。彼は彫刻を絶対視していないことが分かった。ジャコメッティにとっては、絵画も彫刻も対等であった。「見えるものを見える通りに」、克明に、正しく表すことが最も重大な問題であった。その苦闘の様子について、矢内原のノートにありありとメモが刻まれている。それは、生きている時間の全てを「描く」ことに賭した格闘家の日々である。彫刻家という印象があまりに強いので意外だったのだが、ジャコメッティに関する話はほぼ「描く」ことを巡るものばかりだった。矢内原はモデルを務めた時間の中で、ノートを何冊も記し、ジャコメッティもまた、矢内原の顔を、作業場以外でも、カフェであっても、描き続けた。

「正しく」「見えているものだけを」描くのは容易ではない。もし本当に、見えているものを「正しく」描いたならば、「絵」に付きまとう輪郭線など存在しないし、人が意識を集中させて「見る」際にはフレーミングが起こり、全体を見ることは叶わない。そのため彼はいかに「茫漠と描く」か、という難題に挑んでいたらしい。影や虹を手で掴もうというぐらい困難なテーマだと思うのだが、半分発狂しているような熱心さで、それを追求したのだ。

 

もう1点は、ジャコメッティの人となり、とんでもない表現への狂いっぷりである。スイッチが入ると創作(と呼ぶべきか悩むところ)に全ての力を注ぎこみ、一般的な社会的バランスなどは見事に犠牲になっている。矢内原は別にモデル業でもなく、実存主義の研究のために渡仏していたが、1956年の10月に1度乞われてモデルを務めたことから、その後5年間に亘ってジャコメッティのモデルを務めることになった。

ジャコメッティはデッサンに長時間集中するだけではない。叫ぶし、ぐずるし、消耗・疲弊し続け、自信を失い、自分を罵倒し、また熱中するなど、資料を読んでいるとまさに作家地獄である。業病のようだ。先述の通り、彫刻を作る以前のデッサンを「描く」という作業自体が凄まじく困難に満ちているため、生きている時間のほぼ全てすべてを表現に投じてもなお、目指すべき地点に到達できない苦しさが伝わってくる。

 

「糞」「バカヤロー」「私なんか死んだ方がいいんだ」「チクショー」と自分自身を罵りながら手を動かすジャコメッティ。どうしても顔を出さねばならない展覧会や、断れなかった夕食の招待があるときは特に悲しそうだったジャコメッティ。前日から仕事の時間を取られることを苦にして機嫌が悪かったジャコメッティ。毎日モデルを乞うて矢内原の出立を2か月遅らせるジャコメッティ。「結婚なんて罪悪だからそんなものは存在すべきではない」と言って妻を泣かすジャコメッティ。とは言いつつも妻が傍に居なければどんなに惨めな男だったかは分かっているっぽいジャコメッティ

 

( ´ - ` ) 作家地獄や。

なんかもう共感しかないんですが。だいたいそうなるよね。

 

( ´ - ` ) うそです。

 

目の前のデッサン以外のことに、時間を取られることへの怒りと悲しみ、これは非常によく分かる。茶を飲みに行くだけでも時間を惜しむ、飲み会にキレる。何だったら自分を含む全存在にキレる。ほんとそうですよね。それは単に不器用だとか、シングルタスクが過ぎるだけでもなく、極意となる「線」が見えていて、具体的に掴めそうになっていたからかも知れない。えっまじですか。先輩おれ何も見えないっす。あっでも(怒)と(悲)わかります。生きる理不尽ってやつッス。マジ実存ッス。うッス。

 

なお、本展示では展示室4:ジャコメッティの写真パネル、絵の《男》(1956年)、彫刻《ヤナイハラⅠ》(1960-61年) のみ、鑑賞者による写真撮影が許されている。大変貴重な機会なので、ぜひ撮っておくといいだろう。「観る」だけと違って、「撮る」という行為は被写体との関係を一気に深化させる。

それは、一人の人間を元にして描いて作られたのに、信仰心そのものを観ているような、不思議な気持ちにさせられる彫刻だった。先輩マジでパねえッス。ッス。

 

人間的にバランス悪すぎて予想外の感情移入をしてしまいましたが、まあ、その、良いもんです。はい。

 

( ´ - ` ) 完。