写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【ART】「フラッシュメモリーズ」@The Third Gallery Aya、SAI GALLERY、Yoshimi Arts

【ART】「フラッシュメモリーズ」@The Third Gallery Aya、SAI GALLERY、Yoshimi Arts

大阪西区江戸堀(肥後橋)、若狭ビルの2階から4階まで各階のギャラリーが合同展示を行う企画(キュレーター:平田剛志)。写真あり、絵画あり、オブジェありで、総合的な展示になっている。日頃、写真展に偏って観ていた私にはよい脳トレになった。

【会期】2019.6/29(土)~7/20(土)

 

( ˆᴗˆ )脳ほぐそう。

 

 

※以下、脳がほぐれてます

 

◆4F_SAI GALLERY

機械、デバイスと光・情報との関連が主となる展示。本企画を象徴するような作品が並んでいる。

信号やフラッシュ装置が全体の機能性や役割から切り出されて置かれていると、光とメディアの関係自体に目が行くようになる。「光」そのものがメディアだということか。「発光」は興味深い現象である。発酵と同じぐらい深みがある。発光は、窓やカメラといった装置の意味を反転させる。

カメラのレンズ接合面の側からセンサー部分を覗き込んで、そこに映し出された像を見る作品、福田真知《essence/風景_camera#002》では、日頃使い慣れ、一方的に酷使しているカメラ内に溜められてきた像たちの残像を見るような思いがした。風景の残響というか。作者の名は2017の「KG+」展示でも覚えている。膨大な枚数の写真を画像データとして重ね、極限まで透過率を高め、写真を脱した像の揺らぎを写真という形で提示していた。

 

笹川治子《Video 2》はこちらの条件反射に付け込むオブジェ?だ。展示会場にヘッドホンと液晶モニタとくれば、無条件でコンセプチュアルな、あるいはドキュメンタリー映像作品が流れるに違いない、と期待し、というよりほぼ自動的にヘッドホンに手が伸びてしまう、その反射自体を浮き上がらせる作品。耳に当てる前に言われてハッと、これらはヘッドホンでもないし液晶画面でもなく、よく似たオブジェだと気付く。「映像」とは「観る」という一連の動作も含むものなのだろうか。コンテンツにしか意識が行かないが、その半分近くはこの身体に内在しているのだろうか。

 

藤本由紀夫《PRINTED EYE(there)》は、フラッシュ機器による発光そのものである。スイッチを押すと強烈な光が放たれ、網膜に文字が焼き付く。びびった。強烈です。これは人によっては危ないかも。脳に刻印されるイメージ。サイバーパンクを想像しました(違う、)。

 

高柳恵理《2枚》シリーズは、本当に2枚組のメモ用紙やルーズリーフなどの紙が重ねて台の上に置かれているという作品。なんか色々と逆手に取られているようでくやしい。ずらし、重ねて大小、異なる種類の用紙が置かれることで、それぞれの形状や紙質などの特徴の差異が浮かび上がるし、そうして白紙のまま置かれることでこれらは「書く」ためのものという本質的な役割はずっと保留されるのでメディアの役割を果たさない、等と鑑賞者があれこれ言い始めることが計算されているようでくやしい。他の情報媒体と違って、「紙」は人間の手で直接書き付けないと用を為さないという点でも独特な気がする。などなど。

  

◆3F_Yoshimi Arts

だんだんと展示品が写真やドローイングの方へ寄ってくる。

まず入り口にかかる可愛い緑色の自然風味なシェードの電灯は、レイチェル・アダムス《Lowlight》。内側で緑に光る照明含めての作品。葉っぱはアクリルにプリントが貼り付けてあるようだ。ふんわりと、厚みを持ちつつ弧を描いてしなだれる葉の形状は素敵だ。熱を加えて加工するとこういう形になるらしい。なるの!? すごいですね。

 

個人的に好きなのが大洲大作《Flashover》。見覚えのある懐かしい窓が、ギャラリーの小スペースで宙づりになっている。これは列車の窓を1枚だけ、枠ごと切り離したものに、車窓の光景を映している(写真を貼るのではなく、写真をビデオ再生しているようだ)。4Fでも《No SIGNAL》という、鉄道の入換信号機を一灯だけ床に転がして展示している。

鉄道車両の窓と車窓の映像を用いた大洲作品には、静岡県立美術館『めがねと旅する美術展』で出会い、鉄道好きな私としては理屈抜きで好きになった。窓は原始的なメディアの一つである。外からの光を透過させ、外の像を内へ伝えると同時に、内側で鑑賞するための「風景」へとアレンジする。外界を内装や映像コンテンツへ変換してしまう装置と言うべきか。ドラえもんの道具的なパワーがある。

 

広島の街の写真群を展開する三田村陽《hiroshima elements》、普通のスナップとは違って、車で通過ざまに真横から撮ったような少々冷ややかなカットの連続が、日本史や写真史において築かれてきた「ヒロシマ」を脱し、また、作家主義や主観性からも距離を置いている。広島の街に生きる住民、街を通過する人、観光する人などと、近代的な建物、昔ながらの店、そして原爆にまつわる光景がフラットに写り込んでいる。

 

 

 

◆2F_The Third Gallery Aya

写真愛好家ならびに写真作家の皆さんにはお馴染みのサードギャラリーでは、写真成分多めの展示となっております。 

中でも鮮やかな山?の地形を描いたデザイン?ドローイング?の作品、石川亮《在ル(湯浅・西白上)》と《在ル(湯浅・白上地形)》は、そのまま見ていると意味が分からないが、ポートフォリオで理解を進めると、どうもこれは蓄光インクなので、部屋を暗くしたときに発光して像が浮かび上がるらしい。想像するしかないのが残念。

傍に置いてある木片、石片オブジェも同シリーズの作品で、これらが置かれている台の影に当たる部分に蓄光インクが塗られていて、暗くすると光り、オブジェを照らすようだ。影の方が光るという逆転、月のように、明るい時には見えず、暗くなると明かりとなる関係は面白い。生で観てみたかった。

 

石内都ひろしまシリーズから2点(#43、#88)がお目見え。衣服、遺品も、確かに記憶や物語を内包した存在だ。というより、どのようなテーマでも大体そつなく引き寄せて語れて(語らせて)しまうのが、大作家の作品の凄いところだと思う。現代アートが好むテーマ設定に広く言及するよう作られているというか、現代アートを巡る言説がそのような形でコアとなる作品の周縁に作られていったというべきか。もちろんそこには時代の要請に伴って選好されるイシューというものがある。

 

阿部淳《写真書簡》は1982年~1984年に行われた活動で、葉書サイズの印画紙に焼いたモノクロ写真を事務所「スタジオシーン」へ定期的に郵送するというもの。全部で10×10の100作品が1つのフレームで展示されている。確かに葉書、郵便物として切手を貼られて消印を押されたものだ。都市生活の中で撮られたスナップ作品を、郵便制度という都市システムの内部へ通し、その一部として刻印を受けたそれらをまた一つの「作品」として提示する、社会的彫刻のような取り組み。

 

澤田華《57のプレビューおよび目下のシーン》デジタル一眼レフのモニター画面を映した静止画に近い映像作品だが、撮られた写真をカメラ側モニターに再生させ、クローズアップ機能を使って各部を拡大し、最後は消去ボタンを押すという動作がずっと繰り広げられている。

ここでは、一度カメラで写し取られた=フレーミングによって切り取られた世界が、更にモニター内のクローズアップによって再び執拗にフレーミングされ、画面内の表示は移動するのでどこまでもフレーミングが続き、どのカットも断続的に等価な選択として提示される。「全体」と「部分」の関係、最初のカット=本来の写真の唯一性は、大いに混乱、転覆させられる。例えばカニ料理の宴席の場を撮った写真では、白い皿に乗ったカニの脚(恐らく食べた後のカラ)が、モニター内で執拗にアップされ、そのたびに卓や皿などの環境、周辺との繋がりを断ち切られ、カニの脚の造形だけが「主」となる。取るに足らず、切り捨てられるべき無価値な情報や像が、殊更に「主」として画面中央に居座り続ける様子は、「情報」の相対的価値・位置づけが見失われた近視眼的な現在の感性(フェイクとふぁぼ)を象徴しているようでもある。また、「写真」という行為と表現の価値の肝がフレーミングであったこと、そしてデジタル写真においては撮影後にどこまでも再・再・再・・・フレーミングが無限に可能であり、唯一性(=撮影における作家性)はもはや皆無であること(=現代写真の依拠すべき地点の再考の必要性)を語っているようでもある。いいなあ。

 

 いいなあ。

 

( ´ - ` ) 完。