泊まれるアート空間「アンテルーム」は、エントランスから入って真正面にギャラリースペースがあり、毎年のようにKYOTOGRAPHIEサテライト展示「KG+」 の会場になっている。実力ある若手作家が複数名紹介される。一人ずつの点数は少ないながら、注目すべき作家を確認できるのがありがたい。
【会期】2020.9/14(月)~10/18(土)
- ◆水木塁『MML(雑踏のポートレートおよび都市の地質学)』
- ◆堀井ヒロツグ
- ◆加納俊輔『Cool Breeze On The Rocks_03 (Steakhouse) 』
- ◆澤田華『___からはじまる、___のための___(仮)』
- ◆高橋耕平『纏の動作ー「あなた」への落とし前』
- ◆多和田有希『Family Ritual』シリーズ
- ◆麥生田兵吾『A1, regeneration』
( ´ - ` ) アンテ、いつも観るだけ通過で、泊まったことがないので、誰か1泊おごってください。。富豪募集。。
◆【No.54】『踊り場と耕作』ホテルアンテルーム京都(加納俊輔、澤田華、高橋耕平、多和田有希、堀井ヒロツグ、水木塁、麥生田兵吾)
今回の展示は7人の作家が参加、全体で『踊り場と耕作』というタイトルが付されている。高橋耕平のテキストによれば「写真、映像を先行する美術教育の場に集まった者達の”はみ出し”の場であ」り、何をすべきかという規定のない「休憩所」であり全ての企ての場・・・ つまり、好きに育んでみますということだ。
なので自由に接して楽しむのが吉です。実際、作品も皆のまちまちのテーマで展開されている。
◆水木塁『MML(雑踏のポートレートおよび都市の地質学)』
特に解説などもなく、制作・撮影方法など、多くのことが謎。
「路上」そのものをフォトグラムで焼き付けたような不思議な作品である。ガラス片? コンクリート片? 白い鋭角と雑草の影とクラックやシワが無造作に折り重なっている。1枚の平面の中に平面が折り畳まれていて、化石のように諸要素が圧着している。「撮る」写真ではありえない光景だ。
作者の出自はスケートボーダーであり、ストリートに親しんでいるという。路面のアスファルトには瞬間の撮影には写らない多くのものが写り込んでいるということか。それがもし化学反応を続けていたとするならば、路上は巨大な印画紙であり、原初の感光材なのかもしれない。
◆堀井ヒロツグ
◇『身体の中の遠い場所』
◇『まなざしの対話』(右)
◇『水の中で目を瞑って手を繋ぐ』
見る側が自然とうっとりしてしまうような、陶酔感が満ちている。なぜ陶酔なのか。堀井作品では、登場人物らの身体という枠・箱が、内側から微細な振動で揺さぶられていて、液状化を起こし、流体のようなものが互いを取り結んでいるように映っている。
不自由な身体を自由に振舞えるようにするために、私達は物心つく前から必死に、半強制的に制度化を重ね、鍛錬してきた。歩き方から食べ方、眠り方に至るまで。誰かと愛し合うにも模範や規範は存在する。その囚われから一瞬、解き放たれる。そういう気がしただけ、なのかもしれない、幻想かもしれない実感のようなものが、本作の「ふたり」の「間」には、流れている。
完全に繋がりあったり、ひとつ溶け合うところまでは決してゆかない、こんなに近いのにつかず離れずで溶け合わない「他者」との関係性が、丁寧に紡ぎ出されていた。
◆加納俊輔『Cool Breeze On The Rocks_03 (Steakhouse) 』
( ´ - ` ) やばい。
水が出てる。
水が出てるんですけど。ファミレスのステーキセットから水がビューって出てるんですけど。おうい。
あっ動画か。
動画で、しかしステーキセットの肉とかボケた背景は写真で、そこから「ジョロッ」「ジョーーーロロロ」「ロロッ ロロッ」と水が音を立てて出て、おとろえ、また別の穴から水が噴き出す。
肉と水、というだけなら、楽しいだけで終わる。だが要素を冷静に見ると混乱する。
ステーキセットはモノとしての立体性を見た目上持ち合わせている。ステーキセットはその背景のボケを含めて1枚の写真である。その1枚の写真は厚みのある板に貼られており、穴を開けられることで立体としての強度が生じている。その写真を貼った板に穴を開けて水が噴き出る。そのような映像をモニタで流している。そのモニタの映像を大きな写真が覆い、籠に盛られた果物の平面の像が包む。
「水」の音のシズル感と、写真/映像の向こう側からこちら側へと貫いていく物理の力が、これらを串刺しにする。モノなのか像なのか、メディアなのか。ジョロロ。ジョロロロッ。ロロッ。像とメディアとモノとがマトリョーシカ的な入れ子になりつつ、関係性はそれぞれの間で盛んに往還し変質し続ける。
◆澤田華『___からはじまる、___のための___(仮)』
「写真新世紀2017年度」の優秀賞受賞、「あいちトリエンナーレ2019」出品など、写真分野での活躍が目覚ましい作者だが、その作風は通常の、映像美や真実性に関するビジュアル表現としての写真ではない。視覚的空耳アワーを来した錯誤に近い、認識と意味の実験・探索行為である。空耳の誤読をそのまま正面から深掘りし、意味と視覚情報の深読みラリーを続けるという独特なもので、個人的に深く関心を抱いている。
今回は聴覚情報における試みで、パブロ・デ・サラサーテ作曲の「ツィゴイネルワイゼン」(1904年録音版)が取り沙汰される。
この曲は途中、演奏に混じって謎の「声」が録音されている。故意ではなく、当時の録音環境ゆえ、偶然に紛れ込んだものだが、その「無意味」な呟きの「意味」を巡って、偉大な先人たちは想像を巡らせた。例えば小説家の内田百閒は『サラサーテの盤』(1948)を執筆し、その小説から着想を得た映画監督の鈴木清順は『ツィゴイネルワイゼン』(1980)を制作した。「意味」のない音・声がそこに「ある」という事実に対し、人は無意味さの残響を無意味なままでは放置できない。それは亡霊のようにこだまして、人の心に意味らしき何かを見させたということなのか。
本展示は、無意味な呟き声の響きがもたらした「意味」の広がり、「意味」の羅列や空耳的な資料を集め、展開する。
3:38あたりに男性(サラサーテ)の謎の声。この何気ない呟きを無視できず、「謎」と「意味」の混濁する暗い森のようなところに、内田百閒や鈴木清順はじっと居たわけか。意味はどこから来るのか、本来の「意味」(など無いとしても)のずれたところで生じた亡霊の実体化したものが、次の世代の「意味」となるのか。本当に亡霊を相手に格闘しているような作品である。
相変わらずの膨大な資料を動員するところはさすがだが、これまでは本当のイメージの誤読、空耳(眼?)の偏執狂的な掘り下げのラリーだったところ、今回は他者(著名人)のイメージの冒険を引用・紹介したに留まっており、安全にさらっと鑑賞してしまったところが残念ではあった。また危険な【旅】に連れ出してほしい。
◆高橋耕平『纏の動作ー「あなた」への落とし前』
映像とオブジェがあるが、映像内ではこれらのオブジェを一つずつ手に取りながら、「あなたは~~」と、性格判断のようにコメントしていく。
動画を全て見たわけではないので、この先にどんな展開があるのか、異形のオブジェ群に意味はあるのか、等々、謎を多く残したままだが、「あなたは」とは誰のことなのか、指示対象に謎が残る。「あなた」とは、多種多様な個々のオブジェに対して擬人化しながら呼び掛けているのか、作者からは見えざる不特定多数の観客の誰かを喩えているのか、目の前の一人の観客に対して、複数のパーソナリティの表情があることを示唆しているのか。それともそんな性格判断めいた作品を制作・構想した作者自身に対する循環コメントとなっているのか、無数の「あなた」が乱立し、分散してゆく。
これらのオブジェの多様な形態を、、ある「型」を基準として照合してみる時には当てはまらないパーソナリティが無数にあるだろう(空気を読む読まないの問題や、パーソナリティ障害の度合いなどにも繋がっていくかもしれない)。だがそれらを「形」として捉えるなら、無数の可能性/状態として許容できるようにも思える。
◆多和田有希『Family Ritual』シリーズ
蝋を溶かしたような繊細な造形物で、滑らかで不思議な質感をしている。素材が「燃やされたインクジェットプリント」と、写真の像そのものではなく炎で繰りぬかれた造形を見せる。輪郭が微妙に焦げているためか、炎を造形化したようにも見える。これは「像」なのか「オブジェ」なのか? 背面に影を落としているのだから、後者の性質が強いようにも思うが、元の画像の平面を太く残している個所は写真の「像」として眼に入ってくることになる。
タイトルの和訳は「家族の儀式」となる通り、像(オブジェ?)の配列はどこか儀式めいている。写っている顔は家族の顔だろうか。精霊のように羽ばたいて見える。造形の精妙さ複雑さに目を奪われるが、立ち枯れることのない家系の血縁や地縁、精神的な縁がこれらの線だと思うと、どこか不気味である。
作品4点のうち2点はもっと形態が複雑で、前後に重ね合わさって立体を交錯し、線の動きはもはや目で追えないほどの密度を成している。元々は平面の写真だったと言われても信じ難いが、何か花や蝶のような像が見える。そして人の姿もある。写真の身体的なものの多くが、広がりや膨らみのある「形」が、具体的な情報を落とされて神経線維のような線形へ至っているため、コラージュのように作用する。
花束のような作品だ。
花らしきものが写っているからではない。複数種の花や植物を束にして包むと、個別の造形物というよりも全体でひとつの「花束」へと転じるように、前後の背景や周囲の像と絡み合って個でも全体でもない、ネットワークのビジョンが生じる。完全な繊維にまでは還元されていないため、写真としての平面性も感じられる。繊細で膨大な作業を施している時、作者は忘我の域に至り、無意識の像を投影しているのかも知れない。
◆麥生田兵吾『A1, regeneration』
( >_<) あっ!!!
確認漏れです。。。しまった。。ファンなのに くそう
最後がひどい。すいません。みなさんはちゃんと観ましょう。
( ´ - ` ) 完。