写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【ART】あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」@愛知芸術文化センター8F

【ART】あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」@愛知芸術文化センター8F

2019.8/1(木)開幕したあいちトリエンナーレは「表現の不自由展・その後」を巡って早々に荒れ模様となった。Twitterを開く度に反日、自国ヘイトである、公金でやることではないなどの投稿が相次いだ。争点は主に2作品;慰安婦像の展示と昭和天皇の写真を燃やしている映像であった。

8/2(金)には河村 名古屋市長が視察に訪れ、開催中止を求めていく旨のコメントを出した。騒動は収まりを見せず、8/3(土)午後に実行委員会会長・大村知事と芸術監督・津田大介氏が会見を行い、本展示を8月3日限りで中止することを正式発表した。

私は8/3(土)の朝から展示を観に行っており、駆け込みで鑑賞が間に合ったので、現場の状況を含めて記録する。

 

8/2にはTwitterが怒りの投げ合い場と化し、ハードなグルーヴ感があった。その大多数は実際に展示作品を観たかどうか分からないが声を上げており、誰かの声に反応して誰かが声を上げる以後繰り返しの様子は、純粋感情のライブ会場と化していた。そういうわけで、即座に現場へ赴いた河村市長はある意味最も正しく、それゆえに強く響いた。あの市長訪問とコメントが1週間遅れていたらここまでの騒ぎにはならなかったかも知れない。

 

8/3朝に目を覚ましてから、Twitterを再度チェックし、何も収まっていなかったので、すぐに展示を見に行くことにした。もしかしたら1週間後には本企画展が、全面中止はないにしても、件の2作品については公開中止になっていることは大いに予想された。書き込みの熱と論調;公金で自国ヘイト、偏向した思想の表現が許されるのかという怒りと疑問の機運は、津田氏お得意の個人的な舌戦の規模を超えており、本イベントが文化庁助成事業であるという性質と会場が公的機関(県立美術館)であることから、現実的な落としどころは何らかの公開制限になると、容易に想像がついた。

結果、予想よりも早急に「中止」の手が打たれることになった。それだけ現場には負荷と危険が迫っていたことをお察しします。本当にお疲れさまでした。

 

1.愛知芸術文化センター会場のようす

地下鉄栄駅から「オアシス21」を経由して芸文センターへ向かう。道中はコスプレ&「ワンピース」のイベントで混雑していた。殺人的な暑さに襲われつつも、賑やかにアニメやゲームの世界で盛り上がっているのが眩しかった。横目で「これから私は日本で今もっとも熱くて辛気臭いことになってる現場にいくんですよ」と胸の内で呟いた。 

会場の位置が分かりにくい。

まず地下の売店は関係ない。8階・10階があいちトリエンナーレの会場であることが示されているが、チケットの購入・予約の引換はまず10階にいかなければならない。「まず10階に行け」という端的なアナウンスがほしい。

チケット購入は行列です。事前予約していればQR読んですぐ入れる。ここで既に係員に食ってかかる2名ほどの男性がいます。おかしいだろとか何か言っている。さっそく普通のアート展示ではない空気が漂っています。

 

混む前に「表現の不自由展」をチェックしに行きたいが、会場全体と作品の場所を俯瞰できるMAPがない。どこや。どこにあるんや。

一応、無料配布されている新聞紙風のペーパーを参照すれば載っているが、通常の作品目録と違って、新聞紙風なので、実用には不向き。「表現の不自由展」に行き当たるまでとりあえず全体を駆け足でチェックすることにした。

 

ない。

 

相変わらずパッと見た目では意味の分からない展示が多い。物量も多い。これは一つずつ深入りして解釈に走ると、この芸文センターだけで1日仕事になることが予想された(※実際にそうなりました)。そして「不自由展」がない。ないぞ。どこですか。

 

8階会場らしい。はい。

 

8階会場を駆け足で見る。

ない。どこですか。

 

なかなか出てこない。映像フロアをいくつか潜り抜け、何度も立ち止まり、空襲の警報音や遊園地の模型の爆破の映像を見ながら、展示を探す。ないなあ。どこです。

女神転生ぐらいむずい。歩いてたら全然場所わからん。最初からこの地図見て歩けばよかった。

大きなフロアの展示が終わり、通路にいったん出ると、変なところに行列ができていて、係員が交通整理を行っている。これです。美術館到着から20分近くかかってしまった。

 

2.「表現の不自由展」会場付近のようす

11:45頃には本展示の列に並ぶことができた。8:36の特急に乗り、10:50頃に近鉄名古屋駅に到着し、この時間なので、スムーズに来れたと言うべきだろう。

列は30分程度の待ち時間と言われたが、20分経たずに会場に入ることができた。その後、入場者が増え、昼以降は1時間待ちとアナウンスされていた。さすがに河村市長と菅官房長官が揃って苦言を呈したイベント、民は気になるでしょうなあ。

 

ここで荒ぶったり、動画中継をやり出すような輩はいなかったが、何となく周囲で飛び交う言葉から、今まで体験してきた数多くのアート、展示とは異なるものを感じます。アートや表現と直接的な関心、関係を結んでいない客層の気配です。「天皇を馬鹿にしたものを置いてると聞いて…」「県会議員の先生から問い合わせが…」奇しくもこの企画では、観客の側もまた、「鑑賞」という行為において、今までとは異なる層の鑑賞者とコラボレートすることになったのでした。

会場は狭く、入口と出口が同じ動線にあるため、入場制限で行列です。奥に進めば少し広い部屋があるが、そこまでの通路両脇も作品が掲げられていて、必然的に混雑です。館内の奥まった所で並ぶことになり、鑑賞の流れの上でも性質上も、他の展示群とは事実上完全にセパレートされたものとなった。トリエンナーレ全体との関係性、他の展示との関連が見えずらくなったのが残念。逆に言えば芸文センターから切り出して、別会場で展示しても成立する企画であると思う(何らかの形で復活ありえるか?)。

 

以下は会場入口に掲げられていたコンセプト等掲示文。

自由をめぐっては立場の異なる様々な意見があります。すべての言論と表現に自由を。あるいは、あるものの権限を侵害する自由は認めるべきではない。本展では、この問題に特定の立場からの回答は用意しません。自由をめぐる議論の契機を作りたいのです。

今回起きたのは「議論」ではなく「投稿」で、一方的に言葉が投げられ、即・熱を帯びて「炎上」し、本当に可燃物を持ち込むことを示唆するリアル炎上に一瞬で到達してしまいました。その幕引きは「議論をやめる」=展示中止によるしかなかった。そして中止の報によって、荒ぶっていた層が声を上げる先を失い、鎮静化が進むにつれ、取り残された実行委員会をはじめ一般的にアートや展示に関わる層がそれぞれに考察や「議論」をやり始めている感があります。

荒ぶり層は騒ぐが議論にはならず、むしろ議論を回避しており、ハードグルーヴなライブ感が痛快だっただけなのではないかということが分かった展示でした。そういう熱い方々にはぜひライブだのコスプレなど様々な悦びのかたちに熱を振り分けていただきたいものですが、そういう問題じゃねえと怒られそうなのでやめます。はい。

 

 

3.「表現の不自由展」会場内のようす

場内は撮影OKながら、写真をWeb上にあげるのは禁止なので、俯瞰図をポンチします。 灰色の太い線で囲っているところが「表現の不自由展」です。わかりにくいな

 

もう本展示は中止が決まったのだから、これ以上揉めようもないし、残された生真面目な層が「表現と規制、表現と気分・民意はどうあるべきか」を考察していくのに資するよう、写真の公開を事後OKにしてもいいのではないかと思うのですが、まあどうでしょうか。

今後上がるであろう声どころとしては、「投じられた公金を返還しろ」とか「国民の気持ちを傷つけたことに正式に謝罪しろ」といったものでしょうが、盛りは過ぎた感もあります。話題の互換性が異様に高いのもTwitterライブの特徴です。残された現場の人間たちだけがズタボロになります。この2,3日で公金をこんな展示に使うなと怒っていた層は、登山の救助ヘリでも生活保護でもあらゆることで瞬時に怒れるバイタリティーとスピードがある、=ハードグルーヴ感に乗り続けられるかと察しますが、おそらく残された表現の関係者らは本件のことを今後何十年と考えていく羽目になるので、あまり抱え込まずに皆でパブリックにやったらいいんではないかと思います。

 

部屋の中に入るのに通路を通りますが、ここで「昭和天皇の写真を燃やしている映像」と話題の展示があり、皆が立ち止まるので混雑です。奥に抜けると室内は広くて快適です。 

部屋の隅にはもう一つの焦点である慰安婦像(作品名《平和の少女像》(2011)、「慰安婦像」ではない旨をキャプションで強調している)が座っています。フラットに見れば、一作品として全体の中に埋もれているので特に違和感はありません。ここまで前騒ぎでワーワー言われていなければ、「慰安婦像をモチーフに二次創作した彫刻」とパッと見で勘違いしたかもしれません。

 

会場奥のパーテーションの内では、Chim↑Pomの映像作品が流れています。気合いの掛け声百連発(《気合い100連発》(2011)、《耐え難き気合い100連発》(2015))がループで響いています。

 

時折、詰問する鋭い声や、「撤去せよ!」と大きな声を上げる人が現れますが、いかんせんTwitterの投稿と似ていて、単発で何か言い、振り向いた時にはもういないので、揉めているのかいないのか分からない状況です。観客側が恫喝されるような、しばき隊めいたことにはなっていなかったので平和なものでした。

中には、自分の前に立っていた別の観客に「人が見ようしてるのに妨害するな」とか言い出すオッサンもいて、いやこっちも観てるんだと至極真っ当な返しの末、周囲も苦言を呈していました。この人は全く聞く耳を持っておらず、正しい歴史観をスタッフに問い詰めているようで、議論というより迷惑でした。会場内撮影&Web投稿フリーにした場合、こうした悪態度を抑止する効果も期待できますが、パフォーマンスとしてより強烈なことをやり出す層も現れかねないので難しいところです。

 

4.展示作品のようす

(1)全体

本展示の趣旨は、表現の自由を巡るもので、国内において、展示の企画を撤回されたり撤去を求められたものを再度特集して提示するというものです。現在の権力の構造が見えたり、こういう表現をすると検閲のコードに引っ掛かるということが分かるものになっています。

そして2010年代の出来事があまりに多いことに驚かされます。作家は国家・政治に口を出すな、という印象を受けます。新聞が見出しで大きく報じるのはOKで、個人の作家が同じことをやるとNGというのは正直意味不明で、そういった疑問や憤りを催させる点で、本展示は有意義でした。この国やべえな、直近で多すぎだろと、ヤバさを実感します。

国や民の感情に配慮して、企画・運営側が自主的に撤去、中止するケースはなかなかヤバいです。そうした雰囲気や判断の総体もまた「国」と呼ぶのですが、ある程度の人数で反対運動を催されると大変なのは分かります。しかし「表現」が作家個人の内面とか絵画史の再考とかに留められ続けるのもトートロジーすぎてどうかなと思います。一歩外に出て国や政治の話に触れるとアウトになりやすいようです。あの年表は参考になるので、もっと多角的に話題を盛り込んだ上でぜひWeb公開してほしい。

 

検閲の件では、話だけは聞いたことのあった、2012年ニコンサロンで「諸般の事情」により展示の中止通告を受けた写真作品;安世鴻《重重―中国に残された朝鮮人日本軍「慰安婦」の女性たち》(2012)や、県立公園「群馬の森」に設置された追悼碑、白川昌生《群馬県朝鮮人連行追悼碑》(2015)が見られてよかった。前者は原告勝訴、後者はまだ係争中。見た目はフラットなので、これでダメならどないせえという感じです。

中垣克久《時代(とき)の肖像 ― 絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳 ― 》(2014)は最も好きな作品。かまくらのようなオブジェの内側に米国旗、天井に日本国旗が配され、しめ飾りが巻かれ、全体には九条改憲や競争社会について報じる新聞のスクラップ、作者の「日本は病気中」「日本は今、病気である」といった殴り書きが多数貼られている。メディアが報じたことをコラージュで再提出したらなぜアウトなのか。報道各社は主張を許され、個人はNGなのか。とかね。

 

 

(2)《平和の少女像》―慰安婦

さて件のキム・ソギョン、キム・ウンソン《平和の少女像》(2011)(※FRPアクリル彩色の像とブロンズ像の2点)です。

これまで報道、Webメディアの中でしか見聞きしたことのなかった、都市伝説のようなものでしたが、実物をちゃんと見られたことは、非常によい機会でした。個人的には、食わず嫌いはよくないというのが信念なので、昆虫食や培養人肉なども機会があれば食べたいと思っています。

 

展示は極めてフラットです。むしろ目立ちません。各国に置かれた「慰安婦像」がブロンズ製のメタリックなものであるのに対し、本作は人肌の温かさ、柔らかさを重視して塗られており、皆に近しく寄り添う人物といった風合いが醸されています。「《平和の少女像》に込められた12の象徴」で作者が語る人物像が、そのまま描き出されていると感じました。

像の隣の椅子は空いており、記念写真を撮ることができます。多くの人が記念撮影をしていました。おおむね平和なものでした。

 

ただし作品を「観る」のと「読む」のとではまた話が変わってきます。

 

慰安婦像を《平和の少女像》とあえて呼び直し、「パブリックアート」という括りで出展するのは、なるほどそういう観点もあるのかと気付かされました。

が、しかしどこまでいっても、残念ながら温和な解釈だけでは済まされない現状もあります。

 

周知のことですが、世の中には、会ったり呼んだり居合わせたという事実だけで即・問題となる属性の人物が一定数います。吉本興業もそれでちょうど揉めているのとちがいますか。それは人物に限りません。「それがそこに存在する(した)」というだけで、一定の主張を成しえた・呑んだことに事実上繋がる、そういうものがあります。慰安婦像はまさに代表格です。外交というのはこちら側の理屈を超えた、そうした主張との折り合いのせめぎあいなわけですが、慰安婦像はその主張の領土を獲りに行くための楔として打ち込まれている側面を否定できないオブジェクトです。

その意味では、この像の展示に関するキャプションは片手落ちです。

(前略)最大の特徴は、観る人と意思疎通できるようにしたこと。台座は低く、椅子に座ると目の高さが少女と同じになる。それは見事に成功し、人々の心を動かす公共美術となった。今や《平和の少女像》は戦争と性暴力をなくすための「記憶闘争」のシンボルとして、韓国各地をはじめ、世界各地に拡散している。

 一方日本政府はウィーン条約違反などで在韓日本大使館前からの撤去・移転を求めているが、世界の判例や国際人権法の見地からの異論もあり、議論を呼んでいる。

やんわりと「日本の態度のほうがおかしい」という趣旨になっています。製作者は韓国の方なので、素朴な思いとしてそうであることは別に否定しません。「《平和の少女像》に込められた12の象徴」でも、作者が日本政府の動きに対して敏感に、強い意志を持って反応していることが示されており、それは作家としてそう主張すればよいと思います。

 

しかしこの「像」を巡る本展示、文化助成事業としてのイベントの枠組みから考えたときには、キュレーター側の語り方にはより慎重さ、フラットで科学的な態度が必要なのではないかと、読めば読むほど思うわけです。

この「像」は、実質的には韓国という国・政府により、作者個人の表現を超えた運用が成されているのとちがいますか。外交のための戦略的装置となっている。そして、「慰安婦」の根拠・定義についてもまた色々と問題がある。なおかつ、歴史的経緯の困難さに対する解決に向けた交渉で取り交わした国家間の約束事を、あちら側ではことごとく破り、なおも色々と主張をしておられる。そうした全方向から複雑で厄介な問題を象徴してもいるのが、この「像」であるはずです。それはそれは、朝生にどれだけ有能な人物を読んで何回収録しても永遠に結論が出ないぐらい厄介な話しかありません。朝生て。あかんか。

 

作家の個人としての想いや、2国間の話し合いのレベルを超えて、地球レベルで配置が推進され、相当な政治的なインパクトを持っているこの「像」のシリアスな側面に一切触れずに、像に込められた崇高な思いや願いだけを語っているのは、どうでしょうか。この「像」をわざわざ日本の公的な美術館に招致したことの意義や、考えを促す機会を、却って損なっているのではないか。時間をかけて考えるにつれ、より大局的にフラットで科学的な提示の仕方はなかったのでしょうか。

 戦中から現在までの長い歳月、女性の一生の痛みを表すハルモニ(おばあさん)になった影、戦後も故郷に戻れず、戻っても安心して暮らせなかった道のりを表す傷だらけで踵が浮いた足(これは韓国社会をも省察したもの)など本作の細部に宿る意味も重要だ。

慰安婦個々人が怒り、糾弾している対象が、実は韓国政府であったりするのも非常に大事なことなので、そこに言及しているのは素晴らしいと思いました。

 

外交とは交渉であって、交渉は権利や主張を巡る戦いです。外交上、この「像」は強力な意味を持つものでもあります。民芸としての魅力や、素朴な思いを語るのと同時に、この像が置かれることの国際的な意味合い、日本の置かれている厳しい状況なども並列で語られなければ、本展示の価値が見えなくなると思います。逆に本企画の趣旨からすると、この「像」=「日本・政府によって弾圧された都合の悪い表現」という論理のみに包含されており、「いやなんで税金を使って向こうの肩を持つんだ」「傷付いてるのはこっちや」という怒りを引き起こしやすい展開を招いている気がします。

そこに加えて、また分かりやすいことに「昭和天皇の写真を燃やす」映像があったので、議論以前に論理展開としては回路がかなり閉じてしまった。このアートイベントは一体何なのかと。展示の構成自体、慰安婦像の語り方にしても、そうした批判、反感の感情の火を消せるだけの論理を内在させていなかったように感じます。

 

実際に解釈で困ったのが、この「像」の定義です。

各国に拡散されている慰安婦像とイコールの存在なのか、その原型となった起点のものなのか、自分の手を離れてしまった慰安婦像とは別に、作家個人としての想いを改めて載せた「少女像」なのか、その立ち位置が書いていません。まあそこを明確にしてしまうと本当に外交問題になるので、言わないし言えないのでしょう。

 

そうした点からも、作品を「見る」から「読む」へ進めてゆくと、片手落ちというか何というか、もうちょっとキュレーション上、展示としての語り方がこれで良かったのか疑問です。 

「像」を巡る非常に難しい状況と、「像」を巡る主催者側のスタンスの不明瞭さ、大局的なフラットさに欠く提示の仕方によって、他の作品とは別物になっていたと改めて思います。それは会場を一望し、撮影したいたときに感じるフラットさとは別物の、「これは話が違うかもしれない」と思う何かがあります。

表現の自由も大事なんですが、その裏打ちとして、なぜここまで社会が現在進行形で揉めているのかを差し置いて、相手や表現への配慮だけを抱こうとすると、企画としてひずみは当然生じるかと思います。

連動していたのが、年表です。近年の様々な表現の自主規制、検閲に関する事案が列挙されたものです。そこには慰安婦関連の出来事がかなり散見されますが、教科書から記事を削除されたとか関連映画の上映が中止されたとか、一定の串刺しに基づいて規制された話題を載せています。

慰安婦像については向こうの国が強力にバックアップし、公的な権能を帯びています。他の作品と明らかに一線を画すると思います。その取扱いは十分に注意してもしすぎることはなく、単なる「作品」「アート」に留まらないものと認識すべきだったのではないかと思います。いや分かっててやったやろとも思います。どうかな。

 

5.短観

展示を観る分にはフラットなものでした。明確な意図や主張、お気持ちの下ごしらえがない限り、会場でいきなり怒ったり傷付いたりすることはないでしょう。(※一般論です)

先に書いたように、「現在の日本では、こういうコードに抵触すれば表現、発表は拒否・中止される」ことのケーススタディとして秀逸でした。それだけで浮かび上がってくるものがあります。有意義です。

 

展示開始からわずか3日で即刻中止となってしまったのは残念ですし、また前例を作ってしまったことが非常に問題です。

今後の国内での様々な展示は、本件を参照しながら「慎重に」「作家と協議・調整して」進められていくことにならざるを得ないことを想像しています。反対の声を寄せた側の層も、本件を成功事例として学習し、同じようなことがあれば容易にやれると見なすでしょう。それが生きがいや、逆の意味での「社会参加」になってしまうと悲しいことです。アートや主張に反旗を翻すことによる社会参加。ヨーゼフ・ボイスもびっくりです。

 

何をどう講じてもこのような結果になったとは思いますが、それでも会場を見たときには、「まだ最低でも2~3週間は続けられるだろう」と感じたのです。具体的な権力の介入;政府筋や名古屋市長、県議会等による正式な展示中止の申し入れを受理し、正式回答するまでの期間です。あるいは反発する層がTwitter上で徒党を組んで抗議活動を行うようになるまでの熟成期間。しかし、不特定多数からの同時多発的な不穏なる声と動き、ガソリンを撒くぞなどという強迫により、現場の危険度がこの短期間で高まったことは予想外でした。おまえら京アニを繰り返す気か。正気じゃないぞマジで。

  

しかしまあ、なんというか、展示を「読む」と、気になってくる点が色々と否めなかった、それが、一定の層には、理解や議論よりもっと速く、非常に敏感な反応を催させた。そして展示には、燃える要素は多々あれど、火を鎮めるような落としどころの論理の構造や水がなかった。

 

この話は「現代アートとは結局何なのか」という根本を問う話に他なりません。

現代アートとは、万人に向けたものではないし、快適さを提供するものではない。ある種の訴え、問題を提起するためのツールであり場であり声そのものである。その有象無象の数と種類を集めて担保することによって、いわゆる「多様性」を確保し、権力の恣意的な介入や暴走を乱反射させ、無効化し、抑止する。それが使命であり本質だと思います。マーケットとか富裕層の話とかありますけどね。

よって現代アートは、特定の思想の保護や表明のための場ではないと、個人的に思っています。個々の作家のレベルでは特定の思想で闘争すれば良いです。だが展示の企画となれば、特に本企画のように「表現の不自由」を問うのであれば、その射程はもっと広かったのではないか。そこでは左右様々な思想、思惑が混在し、個人の想いや意図を超えたところにある事情や世論も、語るべき対象だったのではないか。

ナイーヴな展示をあえて行うならば、何が問題となっているか、なぜ問題なのかを触れないと、難しいでしょう。

また、逆側の不自由さの事例、国家への傾倒を力みすぎたり、大企業や政府与党に忖度しすぎて怒られて拒否・却下された表現や企画についても、そんなものがあるのかどうか知らないですが、あったのなら、等価に提示してみせる。その度量は欲しいなあと勝手に思っています。「アートを勘違いするな」「アート無罪ちゃうぞ」と芸術関係者に怒られそうですが。すいません。

 

そうした大局的にフラットな眼差し・情報開示を欠いた状態で、見せ方だけをフラットにされても、いざ「読む」と、なかなか難しいものがあり、結果的には荒ぶり層が熱を帯びてしまうのも一定は無理はない、など歯切れのわるい話になります。「アートの度量は深くて広い」ということを示さないと、現代の多様さ、民の多様な分断と感情のあり方に、アートの想定している「多様性」がマッチしなくなってきているのではないかと思います。理想論ですが。現代アートが制度疲弊をきたしていることの自己証明になってしまわないか心配です。私はいち鑑賞者なので難しいことはわかりませんし、ストロングゼロで脳があれですが、まあその、あれです。

  

厳しい数々の荒ぶりに真摯に対応され、疲弊し、傷付いたであろう現場の職員の方々には、頭の下がる思いがします。ご苦労様でした。

なぜ同じ国の者同士でこうやって傷付けあわないといけないのかわかりませんが、感情の偏りが呼び起こす波の力は、自然災害と同じぐらい怖いかもしれません。個人を狙い撃ちにされる恐れがある点においては、より凶悪でもあります。情動が引き金となる炎上と津波、今年のあいちトリエンナーレのテーマ「情の時代」とあまりに符合する展開であり、改めて津田大介氏のセンス半端ねえなと実感した次第です。

冗談はさておき、非常に高く深い可能性をもった展示だっただけに、今回の事態は残念でした。展開方法、語り口、対応などについて、より広いフラットネスから見せてもらえたならまた評価が違ったのではないかと思いました。現代アートが現代に負けませんように。

 

( ´ - ` ) 完。