nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真展】R3.12/4~12/25_垣本泰美「Merge Imago」@The Third Gallery Aya

光と闇がただただ美しい。森の緑と水辺の青に溶ける光、全てを覆う夜の闇。タイトルの「imago(イマーゴ)」とは「蝶や蛾の成虫」と「両親などの面影」の意味を持ち、「image」を語源とする言葉だ。

 

本作は2017年に滞在したスウェーデンストックホルムの汽水域を見て、海水と淡水が合流しながらも、容易には溶け合わず層となって併存するさまに着想を得て制作された。「溶け合う、あるいは溶け合わないもの」とは何だろうか。

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【会期】R3.12/4~12/25

 

会場は静かさとリズムと強度に満ちている。

光は柔らかく、優しいが、強い。

 

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これで何も言わず終わりにしたいところだが、そういう訳にもいかないので続ける。これはつらい。因果な生業だ。

 

言葉を添えるのが心底いやになるタイプの作品というものがあって、本作はまさにそれだ。それぞれの写真は、光と透明度と闇を圧し固めた結晶体のように高密度で、言葉による介入を寄せ付けない。そして美しい。それでいいじゃないですか、と言いたくなるぐらい、光と闇が美しい。それを覆うガラス面が美しい。

 

作品は、2017年12月にスウェーデンでレジデンスとして2週間ほど滞在した際に撮影されたものだ。その時点では特に展示は求められず、しばらく寝かせられていたが、新型コロナ禍に見舞われたことを契機として、「汽水域」―「溶け合う、あるいは溶け合わないもの」について考察し、このたび展示に踏み切られた。

 

作者・垣本泰美の活動経歴は長く、2000年前後から展示を行っているが、私が知ったのはまさに今年の「KG+」で、それが初めてだった。

「KG+」での発表作《Poetry of Clothing》はファッションデザイナー:マリアム・コードバチェとの合作だが、ざっと見たところ、世界観や制作手法はゼロ年代初頭に発表された初期作品《Little World》と一貫したものがある。

浮遊するイメージ。モノが画面内を飛んだり浮かんでいて、ピタッと停止している。ストレートフォトに限りなく近く、現実のように見えるが、事物をオブジェ的に加工・操作することよって高度に調律されたビジュアルだ。すなわち、再構築の美――「詩」や「夢」の美学と呼んで差支えないと思う。

宙にモノが静止し、宙吊りで意味が停止するとともに、配置全体が意味を持ってくる。現実のようで、半分意図的・半分無意識で生み出された副次的な現実、つまり「詩」や「夢」としての文体を帯びる構造は、天然のシュールレアリスムといった趣もある。

 

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では本作《Merge Imago》はどうかと言うと、一見、従来作品に見られた画面内の操作・再構築がなく、天然の現実をそのまま撮ってきた、真逆の作品のように見える。

 

だが風景写真ではない。全面を光が溢れ、闇が覆っている。透明度が貫いている。心象光景でもない。光と闇と色の結晶のような強さは独特だ。

例えば光と色と透明度に溢れた写真作品と言えば、めちゃくちゃ雑に代表例を挙げれば川内倫子や奥山由之、齋藤陽道あたりが思い浮かぶ。しかしいずれの作家も光や色を通じて個人の情緒、情感の揺れ幅、生の実感を伝えていて、受け手は没入や共振を以って自身の情緒が振さぶられることでそこに生命感を見い出す、いわば人間個人のエモーションが主体であり磁場となっている。

 

対して、本作《Merge Imago》は明らかに人間個人の情緒とは別の次元にある。そこに写った光や闇や色を直接に「わたし」の心や人生と同一視することはできない。揺さぶられるのでも触れてくるのでもなく、「わたし」はそれらの光景の前に立ち尽くしている。自然界とか「世界」と漠然と呼んでいるものに流れる、見えざる巨大な流れや枠組みについて写真は語っていて、それは「わたし」の外側にあり、観る「わたし」は写真の内と外の境目、よりも少し「こちら」側にいる。河川敷に立って広い河口を見渡しているような。

 

ここで展示会場全体を見渡すと、展示構成の調律の力が行き届いていることに気付く。

会場の向かって右半分が日中の「光」と色、左半分が夜の真っ暗な「闇」に分けられている。作品のサイズと形状も、四角形と円形、長方形は縦位置と横位置、それらが距離、近接と重なりを整えられている。

また1枚ごとの写真も、本来は正方形(ハッセルブラッドの中判フィルムを使用)のところ、トリミングではなく2枚繋げて長方形にするなど、厳密な調整・加工が行われている。

 

つまり、従来作品においては写真の内側のビジュアルに対して行われていた「再構築」が、本作では展示構成、フレームの形状やサイズなど、写真の外側に対して緻密に行われている。そのため一見、自然風景を美しく写したストレート写真のように見えるが、風景写真ではありえない、得も言われぬ結晶体としての力を有しているのだ。標準的な言葉が通用しないのは、矩形や円形の配置が織り成す超自然的な力が、実は主観的・情緒的なものの外側で作用しているためだろう。

 

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写真に写されているものも、どこか混ざり合いそうなところで「対」となっている。空と水、地面と空、それらを繋ぐ光や闇。白い壁面と闇、点在する家屋と闇。全体を貫く透明度。切り分けられそうで、個別に切り離して捉えることができず、二項対立でも単一性でも語れない。混然一体とはならず、それぞれは併存して写っている。純度は高いが「純粋」(=単一化)ではない。それが「汽水域」という主題に結び付いていく。

 

「汽水域」、異なる響きや事象が混ざり合わずに併存することをより象徴的に表しているのが、円形の写真だ。

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蝶が無数に乱舞する標本や翼を広げた鳥が登場し、従前の作品に見られた「浮遊」「宙吊り」の世界観の系譜を見ることができる。実際、写真が円形になっているだけでも意味は浮き上がって脱する。四隅の角があることがすなわち「写真」の「意味」性――展示物の相互の関連や文脈、物語、時系列だとすれば、四隅を刈り取られた円形は内圧が高まり、象徴性が強まる。そして像は指示対象に辿り着かない。

蝶の二枚合わせの写真はまさに現実感を失わせ、文脈を宙吊りにし、「詩」や「夢」の世界へと転送する力がある。その手前にある闇夜の家屋と水晶の2枚組と相まって、円形の組写真が配されたことで、本作は「スウェーデン」でも「わたし」の日常や生命の実感でもなくなり、鑑賞者は溶け合いきらない光や闇にそのまま対峙することになる。

 

そして鑑賞者は映像世界に没入「しない」。ここが最大のポイントであって、展示の厳密な構成によって、「わたし」はこれらの光や闇に揺さぶられず、身を投げ入れたいという衝動が催されない。しようとしてもうまくいかない。先に挙げた写真家らとの最大の差異である。情緒の振幅が一体化されそうでされず、こちらの主体とこれらのビジョンが「混ざり合わない」ままに関係しあっているこの場は、確かに「汽水域」的な関係性であったように思う。

 

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「汽水域」という「溶け合う、あるいは溶け合わないもの」への着眼とテーマ性について、作者は現在のコロナ禍の状況=予想できないほど変化してしまった世界、へと繋がるものだと考察している。簡単には融和しない、自己と外界、あるいは外界同士の関係性について、本作は言及しているようだ。

 

新型コロナ禍と作品との関係性についてを考察するには、私は異なるアプローチから作品を読みに行ってしまった。鑑賞者と作品世界との、鑑賞体験をベースとして読んでおり、作品世界とコンテンポラリーな外界との関係は放り出しましたんですの。ですので、そこは皆さんで色々と読んで頂ければ良いと思いますの。急に口調かわるやん。ちょうちょのせいですわ。モルフォチョウ好きですの。あれ南米棲息の子です。北欧ちゃいますねん。そこもまた謎へのナビゲーションになっているのでしょう。いいですね。

 

 

( ´ - ` ) 完。