KYOTOGRAPHIE 2021プログラム⑫トマ・デレームと、⑬八木夕菜の展示は「建仁寺」内の「両足院」で開催された。どちらも植物の「種」に関する作品である。暮らしの中で流通している野菜や果物について顧みる機会となるだけでなく、「和」の建築空間に「写真」がどう呼応するかを辿る場ともなっている。
◆【⑫】トマ・デレーム(Thomas Dhellemmes)「Lēgumineux 菜光 ―ヴェルサイユ宮殿の古代種―」@建仁寺・両足院
両足院の室内は半分に割られ、庭園側に置かれた長い台と巻物のような写真が一直線に走る。写真プリントというより紙の部分が多いためか、写真集を読んでいる感覚に近い。写真の中は薄暗く、闇の中には古美術品や文化財のようにして、野菜が写っている。
これらの野菜は、ヴェルサイユ宮殿の「ポタジェ・デュ・ロワ(王の菜園)」という、9ヘクタールにも及ぶ菜園で作られたものだ。1683年にルイ14世が食するための野菜や果物を栽培するために作られた菜園で、現在も450種の果物と400種の野菜が育てられている。
その中でも本作に登場するのは「古代種」の野菜だという。
「王の菜園」現地レポはこの記事が分かりやすい。
写真で見ると、普通のお屋敷の庭園という感じで、知らなければただの観光地である。だがそこでは、古来から姿形を変えていない品種の野菜と栽培法とが継承されている。
重厚感、歴史を経てきた重みが表わされていて、やはり野菜というより歴史的な遺品、文化財の趣が強い。ただ「古代種」なるものの特徴や、現行種との差異がそもそも分かっていないので、個人的には陰影をあまり付けず、フラットに見たかったところではある。作物ではなく歴史を撮ったのだ、と言えばしっくりくるか。
ここで「古代種」・「古来種」がどういうものか、展示だけでは分からなかったので、おさらい的に解説サイトを参考にしよう。
「種」には大別して「F1種」と「固定種(古来種、ここでいう古代種)」とがある。前者は様々な品種の掛け合わせから作られ、効率的に収穫できるよう品質管理されているが、その特徴を活かせるのは一世代に限る(次世代になるとメンデルの法則のとおり、劣性遺伝子の側の形質が一定割合で発現し、品質が不安定になる)ため、毎年、種苗会社から種を買って育てる必要がある。
固定種(古来種)は自家採種され、その土地に根付いた形質を受け継いでいる。そのため固定の環境に適しているが、商品として流通させる上で品質や収穫量が安定しない面がある。
悲しいかな、日頃、料理もしないしスーパーにも行かないので、本作で提示された古代種のフォルムがどれほど現行種と違いがあるのか分からず、本作の価値や重みが言うほどは伝わらなかった。何がどう違うか文章ででもヒントあれば…。
写真の周囲には、植物の標本なども提示されていた。「和」の間取りの多彩な仕組みをうまく利用している。メインの写真の帯とともに空間と違和感なく合っていた。ただ、基本的に床に近いところに置かれているので、一枚ずつを観ていくのに荷物を持ちながらのスクワット状態になり、残暑の中では厳しい面もあった。
作物の「種」、品種のことは定期的に話題になる。種苗法の改正、大手企業の独占、訴訟により追い詰められる農家、遺伝子改良の問題・・・ 「種」、作物は一体誰のものなのか。地球に元からあったものなのに、資本と権利の関係を抜きにはその恩恵を受けられないのか。本作はクラシカルなだけでなく、踏み込めば関連するトピックは多いだろう。
◆【⑬】八木夕菜「種覚ゆ」@建仁寺・両足院
これまで「KG+」で度々目にした作家が、KG本体プログラムに登場。日本の文化と建築との関りを深みを持って表してきた、実力のある作家だったので、より大きな活躍の舞台が与えられたのは個人的にも嬉しい。なお今年は「ザ・レインホテル京都」でも「KG+」の枠で、ホテルの収蔵作品を元にした展示が催されていた。
(参考)過去のKG+での展示
本展示は大きく3つの場で、「種」とそれを育む自然の要素、その存在感を現わしている。サイアノタイプの施された平皿や掛け軸の部屋、雲仙の農家で撮った写真の部屋、サイアノタイプの青い和紙の壁から光を透された茶室だ。トマ・デレームの展示が資料を和室にうまく収めるような形態だったのに対し、八木夕菜では展示物が「和」の空間の一部のようになって呼応している。
ぶっちぎりでサイアノタイプが素晴らしい。青が深い。深い水の奥のブルーが、暗い和室の中で、光を吸い込みながら、輝いていた。天然の井戸、湧水の生まれ出るところを思わせた。「水」という原初的な存在を凝集した姿に見えた。
これまで数多くのサイアノタイプ作品に出会う機会はあったが、「青い」以上の感想を持つことがあまりなかった。青の強さが内容を上回ることがなかったためだ。本作の「青」には必然性があり、命があった。
サイアノタイプは古典的な写真技法だが、ネガを用いて写真化することを前提としなくても、感光液に紫外線を反応させて、光の透過の具合で濃淡を出すことで、このように「青」の表情だけでも作品が生み出される。この皿のブルーは、作者が滞在した雲仙の農家で作物を育んだ山の水、そして太陽の光がサイアノタイプの技法によって合わさり、生まれたものだ。水と光は生命のサイクルの起点であり、生命を育む場そのものであり、まさに生命の「受け皿」である。
水と光の二つを、青はそのまま宿していた。
続く隣の部屋では、作者が取材に訪れた長崎県雲仙市の農家・岩崎正利氏のもとで撮られた写真が提示される。
岩崎正利氏は、40年以上にわたって全ての野菜の種を自主採取しながら育ててきた。図録の小川彩の寄稿文によれば『かつて当たり前に行われてきた種採りの行為を、ほとんどの農家が手放してしまったにも関わらず、岩崎氏は家族と共に、市内に点在する畑を行き来しながら、約80種類もの種を守ってきた。』とのことだ。徐々に固有の「種」が失われつつあることが分かる。
写真には、雲仙の自然とともに、大根の生命サイクルが写っている。種から葉へ、白い根へ、そして再び種へ。ここでは大根が茶色い豆のような種を付けているところが写っている。トマ・デレームの項で触れた通り、通常の農家では「F1品種」を用いて作物を育てて1代限りで刈り取り、次の種は業者から仕入れるため、作物に種を付けさせることがない。よって、こうして大根が自分の種を付け、それをまた土地に蒔いて育てるという、一見当たり前のようなサイクルの方が実は希少である。
ただ、この写真の展示は、垂れ下がる和紙と鑑賞者側とに距離があり、写真の大小もまちまちのため、細部が見えなかったり没入感がなかったりで色々と見落としがあって危なかった(大根のライフサイクルが写っているとも気付かず…説明されて初めて気付いた)。思いっきり大きな写真だけをロールにして流し、他の写真は至近距離で観られるようにすると、岩崎氏の営みや大根のサイクルのことなどがドキュメンタリー的に伝わるのではないだろうか。
と思いながら、最後の茶室まで全体を通じて構成を考えたときに、また別の考えも浮かんできた。後述します。
ここで固定種(古来種)の大根に触れたことで、さきのトマ・デレームの作品においては「古代種」「古来種」とか「ルイ14世」「王の菜園」という言葉、そして写真の厳かさから、過度に神秘的なものを期待してしまったフシがあることに気付く。要は土地土地で受け継がれてきた「地の野菜」ってことですよね。
「古代種」=日本の「地だいこん」で考えると、ぐっと身近なものとして再認識できる。王朝とか宮廷とかに弱いからな私。ナウシカ(原作)の影響です。ヒドラの番人が守っとるに違いない。
とはいえ「京野菜」など「地の野菜」でも今ではF1品種が主になっているらしい。手のかかる農家業そのもののが敬遠されていく中で、今後どこまで「種」が受け継がれていくのか… と書きつつ、本作は悲観的な将来についての問題提起を行うものではない。「種」の生命のサイクルと、それを実現させる自然の深遠なポテンシャル、そして農家の営みを静かに提示する。
ここでもサイアノタイプが孤高の美を放っている。光と像の扱いは見事だ。これは大根の根が放置されて繊維のように空洞化したものを、サイアノの技法で透過し写し込んでいる。
最後、離れの茶室に向かう。
手前の茶室にはサイアノタイプの掛け軸、こちらは覗き見るだけ。
もう一つ奥の茶室は中に上がることが出来る。茶室はサイアノタイプで青く染まった和紙の壁で外界と仕切られ、それは空の影のように暗がりの中で光を帯びている。畳には土と無数の「種」が並べられ、そこに青い光が注ぎ込む。
土と種に、水と光とが和合する空間となっていた。種は土の上で光を浴び、発芽に備えているようでもありながら、サイアノタイプ越しの外光=写真の影を浴びて、時間が止まっているようでもある。この茶室の内部は、感光する写真の内側なのかもしれない。
本展示の構成を改めて振り返ると、写真プリントの比重・立ち位置はやや曖昧だ。あの写真を前面に出せば「種」のライフサイクルと農家に関するドキュメンタリーに十分なり得るし、それを期待してしまう内容でありながら、主役とは。むしろ、水と光の結晶体であるサイアノタイプ、そして土と「種」の現物が主体である。
作者の主眼が、本来は物理的な形として扱えない五大元素のようなものの存在感を、如何にしてサイアノタイプなどの象徴物を用いつつ、空間や写真によって多元的・複合的に現わすか、という試みだったとすれば、現地の農家や大根を捉えた写真群は、象徴物を具体的な説明へと回収してしまうものとなりうる。それゆえ写真一枚一枚のプリントをつぶさに見せようとはしなかったのかもしれない。
私はドキュメンタリー写真、いつもの私なら「物足りない」と感じるはずが、満足していた。空間構成の説得力が高かったためだと思う。直接的な「写真」プリントではないものが提示されていても、総体としてそれらを「写真」と見なしていた。
また、「和」の空間としても深い説得力があった。建仁寺・両足院をはじめとして、KYOTOGRAPHIEには「和」の展示会場が毎年必ず登場するが、なかなかマッチしているとは言い難いものも多い。わざわざ京町家でなくてもホワイトキューブの方が合いそうなケースや、全体的に収まりは良いが特に印象に残らないケースなど、なかなか「写真」と和の建築空間とは難しい関係にあると、KGを通じて実感してきたところだ。そんな中で、本作は抜群にマッチしていた。
「和」とは何なのか。KYOTOGRAPHIEを通じて今後もこの問いは続くだろう。
( ´ - ` ) 完。