nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【学生】2026.3/8-15_2025年度 京都芸術大学 通信教育課程 卒業・修了制作展(写真コース)

2025年度 京都芸術大学 通信教育課程 卒業・修了制作展(写真コース)を鑑賞。個人的に気になった作品・作家をレポ。

(取り上げた作家)田端裕子、外山美穂、森﨑亜樹、菅原雅人、谷平達矢、渡辺正宏、野村友三朗、鷹取亜咲美、関美知子、石井康行、宮崎聡子

大学HPの特設ページ「Web卒業・修了制作展」で、学生全員の作品とステートメントが閲覧できる。ありがたい。今年からの取組みなのか、以前からあったのか記憶が定かでないが、過去2004年の卒展・修了展までのアーカイブページが作られていた。非常にありがたい。

ちなみに昨年、2024年度卒展は、観に行ったもののblogで体系的に書き起こす気力体力時間がなく、X(Twitter)での投稿に留まった。悔やまれる。

 

◆2025年度 写真コース

www.kyoto-art.ac.jp

◆大学院「写真・映像領域」

www.kyoto-art.ac.jp

なお、大学院修了生については展示会場での作品・論文の展示はなく、会場入口のモニターでの紹介に留まっている。これは昨年と同じ。

 

写真コース出展者は55名。

展示会場はいつもの「人間館NA棟」、NA102号室とギャルリ・オーブへ繋がる通路の壁面、階段の壁面を用いている。

以下、作品の形態からざっくりと便宜上の分類をして、気付きや感想などをレポートする。

 

◆日常生活、家族(田端裕子、外山美穂、森﨑亜樹)

コロナ禍の余波があった頃は日常生活圏、家庭内、そして家族・親族との血縁などが主要なテーマとして扱われていた(それ以外に撮りに行けないという制約も強かった)感があるが、本展示ではこれらのテーマはかなり少なかった。通信教育課程は社会人やリタイア世代が主で、未社会人層と違って興味関心や知見が広く、テーマの選択肢が多いことも要因にあるかもしれない。

 

◇田端 裕子『味噌汁の上澄みを泳ぐ ―ここには、いる―』

家の中を中心とした日常生活圏のシーンを取り出しているが、ひどくうまい。目の付け所が上手いのと、写真の滋味が美味い。

目の付け所、生活者が普段見ていない・見えていないところをカメラによって掘り出している。まるでルンバや電灯が床から天井から家庭を見守っているかのように、生活者=家庭内のプレイヤーの目線の少し外側の視座をとっている。隠されていたアングルの発見が、「日常」空間に新たな可能性をもたらす。

そして旨味。写真自体が余白を湛えている。無人なようで、人の暮らしがある。プレイヤーとしての家族構成員はいるが、前述のようにアングルを外しているため、主役としての撮り手もしくは被写体がいないという”they”な写真になっている。

この”they”の写真は、「母としての私だけがまるで味噌汁の味噌のように静かに分離して沈んでいった」ところで撮られていると、後に知った。家の中で、社会での様々な役割を外すと「母」が残る、その「母」という役割をも外そうと試みるとき、何が見えるのか? 新たなアングルを探す何気ない行為が、社会的役割をやぶる視座への深い一撃をもたらすのだ。

 

 

◇外山 美穂『そっと 縫う』

自分でも嫌だが、嫌らしい言い方をすると、「ダントツに上手い写真だった。」

この、上手いとか高度だとかハイレベルだとかいうと評価のヒエラルキーの力学を認めたことになるのと、その評価軸と言説を無批判に復唱することになるから嫌なのだ。これは作者と無関係な話であって私の独り言なのだが、続けると、総合的に詩的さと文学性があって、静謐の中に確かな画の情報量があって、ストーリーに即した画が選ばれていて、具体と抽象のバランス、存在と不在のバランス、生と死があって。年老いた父母が、先に逝った祖父母と、この一つの家の中で重なり、過去の記憶と、生きているものが旅立ってゆくことへの予感と、そうした来たるべき日への備えと、また、作者の年齢は分からないけれども自分自身もそこに投影している、そうした喪いの多重性が、優しい光の中でくっきりと写されている、ゆえに「上手い」のだ。

と、こうしたことがしっかりと語られている写真は誰がどう見ても素晴らしく、今、評価されている作品の類型の一つなので、私はその言説の外に出られないことをもどかしく感じている。

しかし、中央の写真、リビングのテーブルと窓、光を帯びたレースカーテンは、日本人離れしている。家の中の不在の風景を、温かみとともにはっきりとした客観性をもって色と光で表しているのは、機材等による影響か、温度・湿度は違うがAlec Sothのような海外の文体が導入されているからか、何か既存の評価軸だけでは語り切れない生命線のようなものがある。その光源を知りたいと思う。

 

 

◇森﨑 亜樹『わたしのシュミではない!けれど。』

タイトルの意味を理解してひどく納得した。ややオーバーリアクションで戯画化された家族、モノも妙に戯画的に画面内に溢れている。これらは「家族という共同体で起きている小さなせめぎ合いや妥協」を、インタビュ-を元に各自の自宅内で演出してもらっている。

非常に身近で、なおかつ現代的な、重要なテーマだ。他者との対立はSNSにおける重要コンテンツとなっていて、特にX(Twitter)では表示アルゴリズム改定を重ねる度に注目度=直接的な反応を高めるような投稿を求められており、結果、タイムラインはすぐに対立を煽る投稿で埋まる。そこでは国籍や政治の党派性や男女の対立と並んで、家族や夫婦、恋人との間で生じる違和や不和は、もはや経済であり、身近な商品といえる。

本作は「お互い様」を再発見する。自分だけでなく相手も何かを引き受けていることを確認し、鑑賞者も自分の状況を想起するだろう。それは現在の処方箋となりうるのではないか。経済性の原理に捧げられ破壊されていく、ほんらい当たり前のコミュニケーションを振り返るための処方箋として。

 

◆モノ・造形(菅原雅人、谷平達矢、渡辺正宏)

物の形、形なきものの形、写真によってのみ現れる形、といった領域の作品が色々とあり、面白かった。形の意味・定義も、100年前のものから拡張される必要がある。

 

◇菅原 雅人『水辺の記憶 記憶の中にある多視点・多次元の風景を可視化する』

風景、と呼ぶには断片化と再構築の力が強く、連続写真か分割写真か。緑生い茂る水辺(川の堤防)景色の写真と、川の水面の写真の2種類がある。何枚構成なのか、1枚を分割したのか異なるカットの集合なのかが一目では判別し難く、何が行われているのか分からないところに造形の妙を感じた。

川の堤防は縦2列 × 横4列で全て大きな写真から構成されるが、縦は上下が反転している。水面に映った像のように上下の開きになっていて、分割線がどこか、何が撮られているのか掴めない。

水面の写真は、小さな写真で縦2列 × 横4枚の計8枚がセットで1枚の水面となり、それが8枚ある。

複数枚が組み合わされている意図は恐らく時間の経過で、堤防の写真では分からなかったが、水面の写真では隣その隣と1枚ずつ波と光沢と陰影に少しずつ動きがある。大きな時間経過ではないからか連続した直線的時間は感じず、無間で生成される像―造形、リアルとデジタルのどちらにも通じる次元の穴のようなものが垣間見えた。

Web卒展ページで明らかになったが、これらの写真群は1年の時間経過を捉え、変化を表していた。手堅いコンセプトによって四季の移ろいを表そうとしていたことになる。が、展示では季節や時間はノーヒントだったし、上記のように混線している。展示直前にコンセプトの枠を取り払ったのだろうか?だがその効果によって、視界・風景を無間に還し、物理/情報の両界をまたぐ造形(の影)が出てきたように思われた。

 

◇谷平 達矢『Scangram 〜 意図と偶然のあいだで生成される像 〜』

たった2点、しかもプリントは小さい、他の出展者に挟まれる形で並んでいる。

明らかに見劣りするのだが、そこに写っているものに何か強く惹かれた。写されたのではなく現れた、現れつつあるという感じと、存在が切断され現実から分離されていく感じ。現われと消失という相反する二方向の力の引き合いがある。写されたそれが何かというより、それはどこから来るのか・どこへ行くのか、相反する二つの極の、ベクトルを見せている。

イメージ、複写、スキャンと実体、データ画像の起源と向かう先。様々な問いが分岐されるだろう。

 

 

◇渡辺 正宏『Abstructure』

「abstructure=抽象的構造体」とは造語だが、あまりの語感の良さと実際の構造イメージ上の相性の良さが相乗して普遍的概念のように感じられる。30点の写真はどれもリアルの建築物などから撮影によって切り出された姿形で、フレーミングとレンズの圧縮効果をフルに活かし、更にモノクロ、トーンの統一、正方形のプリント・額装によって抽象度が高められている。

線と面の組み合わせと繰り返しの複合的計算によって都市空間・建築物が構成されている、それを物理から引き戻して抽出してみせたのが本作だが、統一感の持たせ方と展示のされ方(階段の壁面に沿って、小さい正方形が斜めに上昇する)が合わさった結果、会場のデザイン:人間館ギャルリ・オーブの内装の一部に同化してしまった感があった。

抽象化を強めたことで発生する割り切れないもの、澱や乱れのようなものや、あるいは抽象化の中で見出された余地、視線の無限遠が何をもたらすか(本作の対極に勝又公仁彦『Right Angle』がある)が重要になるのではないか。

 

 

◆複合的な企画・構成、領域横断(野村友三朗、鷹取亜咲美、関美知子、石井康行、宮崎聡子)

単一の領域や手法に留まらない、複合的なものをここで紹介する。インスタレーションとして展開するには会場の制約があり、いかに限られた割り当てスペースで展開するかの工夫が面白かった。

 

◇野村 友三朗『再生と非再生、複製と固有性』

NA102号室に入るとフロア正面に、宙吊りの巨大な手提げ袋のようなものと、台にはブロック壁のように積み上げられた段ボール群が置かれている。これが写真なのか?

天井から吊るされた手提げ袋状の作品はスクリーン印刷のイメージがばらばらとスタンプの試し押しのように散りばめられている。元は撮影された写真だろうか。裏面には水辺の風景、海か湖の写真が縦3枚 × 横3枚の9枚1組で大きく掲載されている。

段ボール箱の壁も、表側はばらばらなスナップ写真群と写真の上から別のイメージがスタンプのように押され、裏面には組写真で縦4列 × 横4列の計16枚で都市の遠景が表されている。

インクジェットの無限複製性に対し、写真を版として大量複製可能なスクリーン印刷で再構成する。刷りの痕跡と再生素材に刷ることを介して、写真をデータではなく一回的な物質的出来事として提示する。

これまでも物質性と即興性を巡って、壁面にランダム・即興でプリントを貼って散りばめる、貼り重ねて前後左右の関係=文脈よりも物性を高める、床にまで散りばめる、プリントで立体物を作る・・・といった試行がなされてきたが、今回、秀吉の一夜城のように大きな構造物を簡易的に立ち上げる策が現れた。段ボール箱なので、床面・天面は除いても最低4面は像がある。像は連続していなくても面は角を巻きながら一続きの次元として続いている、この非連続と連続が何か今までにない映像(写真)体験を生む可能性はあるだろう。

 

◇鷹取 亜咲美『呪い』

NA102号室に入って動線上すぐ、真っ黒な葬式のような展示で、タイトルもテーマも「呪い」である。しかも『呪術廻戦』を引用しその世界設定からの派生という建付けで、ひるみなく直球勝負なのが凄いと思った。既存のメジャー作品に憑依し二次創作的に展開する(1.5次創作?)というスタンスは、作家として一人立ちしてゆくと原理的に不可能に近くなるので、私にとってレアなものだった。

とはいえ『呪術廻戦』推し・耽溺というものではなく、あくまで導入と建付けに用いているだけで、ここでは作者は「窓」という「呪術は使えないが呪力を視認でき、報告者として活動する呪術高等専門学校の補助的な協力者」の一員になった想定で、生活圏を見渡し、写真によって呪いの報告と広報活動を行う、という設定で作品を発表している。

この写真が、よく出来ている。確かに呪わしい。何か気持ちの悪いもの、不穏そうな場面が写っている。

ステートメントでは呪いを社会全体の不穏さ、『呪術廻戦』設定との結び付けから、本作の目的:呪いの総量を減らすべく情報共有するための写真による可視化、に字数を割いている。が、本作で写されている不穏さは事後的記録(重大事故の現場や祟りの名所等)ではなく先行イメージ出力、つまり「呪い」を想起させる要件が幾つか揃った場面やカット、トーンのサンプル集ということになる。いわば赤瀬川源平「超芸術トマソン」「路上観察学会」の令和的解釈版としての方向性も考えられるし、アニメや漫画といった別領域のコンテンツを現実に憑依させて再構築するための文法を考察する路線も考え得る。

 

 

◇関 美知子『履けなかったオペラパンプス』

私は意味のわからないものに惹かれるというのが性分としてあって、元から写真が意味に隷属させられることに疑問や反感を抱いていたように思う。本作は十分に意味不明で、タイトル、作品上部・下部、その狭間の時計、いずれも意味不明、これら不明な地点で炎が燃え上がっている。中でも炎の描画が明快なので「燃えているのは何だ」と問われるのだが、「この燃えているのは何か?」―時間だと思う。では時間はいつだと問われる。「この時間はいつか?」―7時31分もしくは19時31分と思われます。「その時何が起きていたか?」 ―「時計」がテスラコイルの大放電で崩落して膨大な電力と時力が混ざり合いました。「なぜスパークと電流には色がないのか?」 ―この世界はもともと時の止まったモノクロームでした、それがエネルギーによって内側から光ったのです。「エネルギーはどこへ向かった?」 ―きわめて強い力がフィクションを伝いその末端装置であるフィギュアを介して現実へと物理的な発火を来しました。「燃えているのは何だ?人形か?それとも?」 ―燃えているのは時です、流れ着いた時が燃えています。「写真は凍結していたのではなかったか?」 ―しかしマン・レイは光を再度浴びせて宿すことに成功し、時を蓄えていました。「その時間はどこにあった?」 ―林檎ではないでしょうか、セザンヌの頃からずっと。「つまりあなたは意味を理解したか?」 ―意味を理解しないことに成功したように思います。

 

以上私的な談話、ダダイズムの力によせて。

 

◇石井 康行『嫗三十六首写真絵巻 親愛なるあなたへ』

新聞紙の上に写真が貼り付けられている。家族の記憶をたどるものとして古い写真と古い記事を合わせたもの、と思ったらもう一段構成が深く、短歌がイメージ間に挿入されている。

短歌は作者の亡き母親が詠んだもので、新聞に掲載されていたらしい、そのイメージに合う新旧の写真を紙面にコラージュして構成されている。短歌の2行3行を見せるよう配置された写真、新聞の文字は小さいので目立たないが、その小さな声を現わすために写真が配慮されている。主従が絶妙に逆転し、文字(言葉)とイメージ(写真)が等価になっている。

私には短歌を解する心得がないが、「短歌には、父への想い、一人居になったのちの淋しさ、生きていることへの感謝、息子たちへの気遣い、四季の移ろい、何気ない日常などが詠まれていた。その中でも特に父への想いは哀傷歌でもあり、恋歌でもあった。」という。我々のSNS投稿も半世紀後にはこういう風合いになるのかと想像させられ、面白かった。

 

◇宮崎 聡子『Performers 私たちの秘密をお話しします。』

好みでいうと全く好みではなく、共感できるかというと全然共感できず、手法も感覚も私の好みや生理に合わない、合わないのだが無視できない腕力があって、この力に眼を振り向かされた。

花、植物をステージ上の存在に見立て、明暗と色彩のコントラストを強め、アップで撮り、それぞれのキャラクター(個性/配役)を見立てて一人称で、大仰なまでに自己を語らせる。演奏会、劇団のパンフレットのようにスターの自己紹介が並ぶという趣向だ。歌・音楽にとどまらず、女優、楽器演奏者、ラッパー、フィギュアスケーター、書道パフォーマー等幅広いスターが結集し、力強い言葉を吐いている。

もはや写真が眼に入ってこないぐらい言葉の圧があり、写真も多重露光か合成かで光まみれで植物の正確な姿形が伝わらない、これはステージ上でライトを浴びて演技をしているクライマックスの瞬間をイメージしているのだと思うので当然の選択肢だが、写真の質感も植物の造形も眼に入ってこない、一体自分が何を観ているのかよく分からないのだが、この混乱が催されてしまうことが重要だと感じた。表現をやっていくと造形ならカール・ブロスフェルト、レンガーパッチュですよねとなって零度で無音の抑制へ向かうし、最近の植物の美的な表現だと東信『植物図鑑』シリーズを学んではどうかとなり生花としての内なる肉体美に向かうよう指南される、すると作者がやりたかったような、ほとばしるような言葉のエモーションの「演出」の欲望、情動は何にせよ殺されるのだ。

このスタイルが正解か何なのかは分からないが、鷹取亜咲美『呪い』と同様、洗練された作家・作品からは出会えない衝撃があった。欲望の可能性を尽くすこと、写真という巨大な生き物にとっては、今まさに必要な試みであると思う。

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おもうんですけれども。私が色んな展示をみたり本を読んだりしていく中で、また、時代が進む中で、私の欲するもの、感応するところが、一般的な「あるべき」作家・作品像と、それらへ向かうための考察と指摘からはズレつつあると自覚している。正しい道は他の立派な人たちがやるべきで、よろしくお願いいたしますと思っていて、私は何かこう、「写真」という得体の知れない巨大なものに可能性を示したいと思っている。なので色々書いておいてあれです。あれだ。それはブラックバスを野に放つのと何が違うんですかという声もある。そういうものでもないという気もしている。写真は、もっと得体が知れない。

( ◜◡゜)っ はい。