nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真表現大学・Eスクール】2026.4/7-12_2025年度 修了制作展 @同時代ギャラリー

母校の修了展に来ましたレポ。社会的写真の織り成す立体性を見た。

写真は鏡か、窓か?

学校ホームページの修了展特集ページから数えたところ、写真作品の展示者数は「写真研究ゼミ 3 & 写真研究ゼミ Plus」10名、「写真研究ゼミ 1 & 写真作家コース & 写真基礎コース」6名、「プロゼミ & フォトグラファーコース」9名、のべ計25名。

ただ「プロゼミ~」では4名が2作品ずつ発表している(作家的テーマ作品と、プロ写真家としての技術系作品)ため、実質的には21名の展示となる。

medialib.org

(なお、同会場内で映像・音楽作品を発表していた「Eゼミ & ビデオグラファーコース & デジタルサウンドコース & DSゼミ」は度外視し、ここでは写真展示のみを扱う。)

 

なんだかんだで気になって毎年観には来ているものの、私の心身稼働率が年々落ちていて死んでおり、余暇も減ってまとまった考察を書けず、X(Twitter)で少々短観を呟く程度の生き物になり下がっていた。

当blogを見返すと、最も新しい修了展レポが2021年4月。うわあ5年前。コロナ禍や。あかん昔すぎる。

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現時点では、私が在籍していた頃(2016~2020)と基本的な教育システムは変わっていないようなので、その前提でいうと以下のようになる。

写真表現大学(以下「表大」)は、他の大学や専門学校と異なり、基本的には全てのカリキュラムが1年で完結している。つまり、入学者は1年でカリキュラムを終えて、修了制作展への出展を以って卒業となる。また、希望者は翌年度以降も「ゼミ生」として残り、学びを深めることができるのだが、こちらも1年ごとに修了扱いで、そのまま卒業するか、次年度も継続受講するかを選択する仕組みのため、在籍年次のたびに修了展に出展することになる。会計年度任用職員の雇用に似ている(例えが悪い)

そのため表大では、在籍した年数の分だけ修了展に参加・出展することになり、人によっては毎年、3回、4回、5回・・・と続けて作品を展示をしている。というか写真表現や作家活動を1年で学び終えてマスターできる人間は原理的に存在しない、いたらそもそも学校には来ていないので、1年で卒業する人の方が少なく、たいがいの生徒は複数年腰を据えて取り組むことになる。

プロカメラマンコースで撮影技術を優先的に学ぶ人は別としても、生徒は継続性をもって「作品」制作に取り組み、設定したテーマを深めたり、発展・展開させてゆく。

このシステムはまさに4年生大学の学部と大学院のエッセンスを抽出・圧縮し、回転率を上げたものと考えることが出来る。

 

なぜこんな前置きを話したかというと、今回の展示は「大学の研究論文発表を、写真によるヴィジュアル表現へ置換して行っている」と、ストレートに感じたためだ。

無論今までも同じ枠組みで教育・展示が行われてきたのだから、ただ私の受け止め方が変化した、気まぐれで着想しただけかもしれないが、かなり強く確信したのだ。

 

「大学の文系/社会学系のゼミが、都市空間・都市機能に関する調査・研究を、写真という映像メディアを用いて表現し、発表した場」。それが本展示の感想だった。

直感的・感傷的・刹那的な作品や、瞬間芸やプリント技巧を誇る作品が、ない。逆方向の、メタ言語・メタ文法的な、写真や作品の前提を停止・ジャックする作品もない。全て厳密に整えられたフォーム内で論旨とフィールドワーク対象と調査結果が明示されていたことが印象的だ。都市景に限らず、たとえ被写体が人物・オブジェクト主体だったり、抽象的または即物的であったとしても、論述があり、論の先には必ず各自の生きる社会・都市の現在系が見える。

各自が選んだテーマ、被写体、表象の手法は、それらが写された理由、その写真が選ばれた理由や動機を深める中で、必然的に各自が生きている「社会」に辿り着く。

 

ここまで統一感のあるレベルとフォーマットを持たせたグループ展も珍しいのではないか。

着眼点とアイデア出し、タイトル設定と仮説、調査対象の選択、調査手法の選択、結果の分析と論旨展開、書き上げ、発表・・・ 文字や数字からなる集計と分析と考察と論述を全て「写真」に置き換えると、そのまま本展示に当てはまる。各自が「やりたいこと」を見つけ、リーチ可能な範囲で調査を行い写真表現に落とし込んでいる点は、他の学校の展示、リサーチを重視する作家らと変わりはない。が、ここにはアカデミックの作法というか、論述クオリティへの遵守姿勢があり、それがフォーマットという形を成している。

その分、リサーチの選択とアプローチの仕方において各自の属性やバックグラウンド、自身の置かれた状況が反映され、そこに個性が出るという形になっている。よって写真展では、統一されたフォーマットの群、その中から現れる視座・着眼点・考察の「差異」を見比べ、見出し、発見や知見を得るという構造がある。

まさに展示全体がタイポロジー的であり、個々の作品を提示する各生徒もまた一つの作品であるともいうような、曼荼羅的な、あるいはルービックキューブのごとき構造が見えてくる。質の統一された平面が組み合わさって立体的な様相を帯び、それが「社会」という時空間を表わしていく。社会という超立体の枠組みは、そうやって複数面から言及していくことで初めて可視化される。

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やはり数・質ともに目立ったのはランドスケープ、都市景に関する作品だ。

福山雄志《太陽光列島 宇久島・寺島》は風景写真的だが、ドキュメンタリーであり、告発の報道写真ともいえる。4枚一組 × 4セットの写真は鄙びた漁港、山を写す。が、次のセットに目を移すと早くも山が裸にされ、木が伐り出されたカットに突き当たる。ソーラーパネル建設である。

場所は、長崎県・五島列島の更に北に位置する島「宇久島」と、すぐ西に隣接する「寺島」、控えめに言っても秘境と呼べる地だ。(私も、過去に小値賀島、野崎島にまで行っておきながら、その北のことは完全に失念していた・・・)

手つかずの自然と島時間が流れる・・・ように期待される島では、しかし破壊が進み、ソーラーパネル置場へと切り替えられていく。島に電力が必要なわけではない。ただ換金性があるというだけだ。換金可能性が平等にボーダレスに日本の隅々に行き渡っていることと、どの自治体も平等に民間企業経営的な責任と手法のもとで収支を賄わねばならないこととは同義であり、奨学金を返済できない学生が売春をするのと何故かとてつもなく似ている。何かが狂っている気がする。

 

一度大規模な拡大発展を尽くした後には、全てが負債に転じてゆくのは、人間においては超高齢化社会として明らかに現れているが、ハードウェアのインフラストラクチャーにおいても同様である。

田口祐貴《寿命 その2》、アーロン・シスキンドに範をとったような壁面のささくれ、ハードコアで60~70年代、戦後現代美術の抽象画のような画の美が重く、冴える。その正体は「コンクリート」と、実にありきたりで平凡で、誰でも何処にでも見つけられる構造体であるが、作者はそれと分からせない巧みさで形ならぬ形を切り出してみせる。半世紀近くかけて生まれた自発的なアンフォルメルと言えよう。

しかしコンクリートの寿命がたった50年程度しかないということが、永久に繁茂し無限増殖し続けている「ように見える」都市空間の、大きなギャップ、盲点を指摘している。つまり高度成長期から60年近く経った現在、再開発や建て替えの財力がない地方自治体・企業はただただ老いてゆく都市に身を任せるしかない。我々は寿命の尽きかけたコンクリート列島の真っ只中で、この先も台風・大雨・地震と津波に耐えなければならない。

 

しかしあえて積極的に発展系の未来を描くことも可能だろうか。mizutama araki《北港通 夢洲へ続く》では、現実の都市景からAI生成を用いた都市景へのグラデーションが提示されている。

大阪湾と思わしき海とを結ぶ車道は車で埋め尽くされていて、その先には夢洲そして「大阪・関西万博」の「大屋根リング」をモデルにしたであろう、木の塔を生やした人工島が見える。現実の大屋根リングは約半年で「未来を示す」という役目を果たして消えた。しかしリング様の何か(現実とはかなり異なる)を、夢の中のような不確かさで示す本作は、未来の憧憬をそのまま都市景に重ねたものと言えるだろう。

 

撤廃、見直しを迫られつつも、しぶとく生き残っているインフラがある。「電線」だ。岡野 史《空をかける》は、一般的によくある都市景スナップを思わせるが、画の「らしさ」を支える筋力には電線のラインがある。画面内に緊張感と構造を与え、スピード感を与え、逆に、感情の拠り所ともなる。

日本は災害大国であり、また前述の通り国全体がインフラ維持と更新のコストに悩まされていて、電線・電柱の地中化が議論に挙げられている。だが繁茂しすぎた葛や蔦のようにそれを刈り切るのは至難の業に思える。なぜなら1本1本に人々の実の生活が繋がっているからだ。風景であり、生命線なのだ。

この観点を獲得したことで、本作は単なる「スナップ写真」というタグ付けから昇華されている。写真は、しかるべき指示対象の紐づけを得たとき、絵柄・図像として写っているものを超えた意味を帯びてゆく。本展示で試みられているのは、全てそれだ。

 

コンクリート、電線に並んで、都市景を形作るもう一つの重要なマテリアルが、ガラスだ。鉄とガラスとコンクリートが近代建築の幕開けとなり代名詞となった。それは現代においてなお健在である。

喜多 祐太《ガラスはめぐる》に映る/写るガラス反射に満ちた光景は、近代から―百数十年の長きにわたってもたらされてきた原風景かもしれない。現在にありながら古き良さを醸しているのは、ガラスの中にノスタルジーを抱えているためか。透明な混濁には、ソール・ライターなど過去の名作、先人たちの面影が蓄積されている。それは歴史的蓄積をもたず、光を電力へ「情報変換」するソーラーパネルと対照的なインフラかもしれない。

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都市空間に用意された、公共的なプライベート空間が「公園」「庭園」である。本展示ではこの領域に触れる作品が多かった。

公共性 × プライベートという、矛盾する属性を併せ持った場が本来的な「都市」空間そのものだった。これは太平洋戦争による巨大なリセットをスタート地点とし、極端な人口増と高度成長がカオスな場を実現したためだが、発展のピークを越えた後の洗練/縮小期に入って久しい現代、都市を構成する個々のエリアは民間商業施設として無駄なく経済性・収益性を高める管理体制へ移行し、限られた顧客向けのサービス空間へと変質する。そんな現在に何が見出されるか。

 

波片 一乃《憩いの風》では、まさに「公園」を利用する人々の姿がある。これぞ都市の公園、パブリックスペースの正当な姿と言うべきだろう。ここに「良さ」をおほまえるのは、滞在の自由があるからだ。中には「グラングリーン大阪うめきた公園」も写されているが、これは近年の大規模開発では稀に見る「ただ、何もせず居られる場」として称賛された。それまでは都心部で滞在したけりゃスタバで金を出せ、というのが定説だった。滞在、存在自体に費用が発生する―滞在可能な人種が選別されている、都市は明らかに選ぶ側としての権能を有するに至った。「公園」はその権力発動を緩和し、時にキャンセルする場となる。

 

こうした都心部のの公園・緑地を「オモテ」とするなら、仲宗根 寛子《裏庭学のすすめ》では都市部から離れた背後に位置する、郊外の緑地や公園が舞台となる。メタリックでコンクリートな都市景とは対照的な緑と土の景観が残されている。おそらくは管理の行き届いた人工の自然であるが、土があり、樹が根を張り、葉が落ちているだけでそこはもう十分な「自然」だ。「裏庭」という名付けは重要だ。都市生活者に気付きを与えるからだ。都心部とつかず離れずの距離に、計算され、あえて遺された自然がある。それは公有財産というべきだろう。

 

応用編として、無機質な都市空間内に私的な場所を積極的に作出していく試みがある。石井原 耕一《辺境ゴルフクラブ》を見た時、こんなハードな?荒れ果てた僻地の廃業寸前なゴルフ場があったのかと驚いた。それは見立ての遊び、何処でもない河原を作者が勝手に「ゴルフ場」と呼んでみせるアクションである。

約20年前、「河川敷ゴルフ」が社会問題として取り上げられた。確かに、誰のものでもない土地を勝手に私的なゴルフトレーニング場に使うのは、不公平かつ危険である。しかし「公共の土地で迷惑なことをするな」という非難は「誰も何も許されない」緊縛状態をもって満足を得るという、無人のマゾヒズム=思考放棄の喜びにしか回帰しない面もある。本作はその縄を切る一助になるだろうか。

 

田中 久貴《ちょっと一服》はどちらかと言えば「河川敷ゴルファー」側に立つ視座だ。見ての通り、喫煙者を堂々と、誇らしげに撮っていて、喫煙が主役である。リアル社会では喫煙者を見なくなった。2020年の改正健康増進法によって、多くの人の利用する屋内が原則禁煙となり、喫煙可能な場所は激減した。受動喫煙による望まない健康御被害を予防するための措置だというが、あっという間に文化の形態を一変させてしまった。都市から姿を消した喫煙者たちは人知れず、一体どこで吸っているのか。

本作は面白い現象を私に引き起こした。写真を見た瞬間に、違和感のある馴染み深さを強く感じたのだ。それはゲームと現実の逆転から引き起こされたものだった。これら「悪そうな」恰好と仕草のポートレイトは、ゲーム内でのアウトローなキャラの典型として、いわばデフォルメされたバッドテイストの表象として流通し、既に定着の段階に入っている。喫煙はフィクション、SFと化しつつある―筒井康隆『最後の喫煙者』とはまた違ったエンドルートを辿っているようだ。

 

「庭」は家庭にもある。地価やメンテナンスや防犯など諸事情を度外視すれば、庭を個人所有することは古来からの根源的な願望であったかもしれない。捨象された「自然」の結晶を生活の場に据え置くのだから。

 

好崎 志保《里庭 – 90歳の母がつくる》、もう6年にわたり撮り続けてきた自宅の庭シリーズで、とうとう作者の母親は90歳を迎えた。個人宅の「庭」も手を入れて樹々を生やせば小さな森のように鬱蒼とした闇を帯びる。闇は、立派な庭の完成として木々の嵩の重み、植生の豊かさを宿したというだけでなく、母から跡継ぎをする作者の負荷を暗喩しているようでもある。親の代が叶えた夢と、夢の後に続く現実を生きる子世代、まさに超高齢化社会の日本の縮図を見る思いだが、しかしこの庭の豊かさは、それだけでは語れない迫力がある。

 

豊かさ、自分の生活、「私」というもの。

自分の在り様、傷や澱や歪みも含めた「私」をSNS等を通じて表へと発信することは、都市生活者の重要なライフスタイルの一部だ。自己顕示欲だけでなく自浄作用、アイデンティティ回復の作業でもあるだろう。美紅《夢に溶けても》は「私」の断片を合わせた半コラージュ的な作品で、それは割れた鏡を貼り直したような切実さがある。4枚一組で1枚の額装とし、中央の余白部に短歌を綴る。写真と句とで手繰り寄せるのは、幻想でも肥大した自己でもなく、ただただ率直に素朴な「私」である。

 

オブジェ、造形と抽象表現の両方が合わさったのが、水垣恵理《天然標本》だ。

全て何かしらの身近な食材であったり自分の体の一部であったりする。造形表現としてどちらかの極を撮ることは珍しくはないが、一般的に大量に均質に流通する食材=都市メカニズム・産業の成果物と、唯一無二にして交換不能な「私」の身体と、この両極をみずみずしい表現によって並置することで、双方をそれぞれの視座から比較検証することが可能となる。すなわち、メカニカルな食材に「いのち」を見ること、パーソナルで尊いはずの「わたし」にシステマティックな規格を見い出すこと。この読解の自由なダイナミックさが写真の醍醐味であろう。

なお、本作は「KG+」に同タイトル・同テーマで再度出展される。(R8.5/2-10、NEUTRAL horikawa(堀川新文化ビルヂング 2F))

kgplus.kyotographie.jp

 

なお、仲宗根寛子、好崎志保(よしざきしほ)は、2024年2月に同会場で、同テーマにて個展を行っている。両者とも自分のライフワークならぬライフテーマとして作品制作に取り組んでいる。

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他の作家の中でも、個展に至った人物は多いが、私自身が鑑賞等フォローしきれていないため、言及は割愛させていただく。

また、全ての作品に言及はできないので、

このへんであれさせていただく。あれです。

 

写真が「鏡か窓か」を問うなら、写真は「鏡のように反射する小窓のついた扉」なのだと感じた。

1枚1枚の写真には、更に奥があり、それは外へと繋がっている。

繋がった先に広がる景色を見ることが可能か? それは写真の指示対象を的確に、大胆に再定義することによって可能となる。そしてその定義を語ることで意味は拡張され、扉となり得るだろう。



( ◜◡゜)っ 完。