nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真表現大学・Eスクール】R3.4/6-4/11_2020年度 修了制作展 @同時代ギャラリー

私の母校「大阪国際メディア図書館」のスクール「写真表現大学」(写真)と「Eスクール」(映像・サウンド)の修了展です。合計48作品がリストアップ(作者の重複あり)。

今回はもう私、卒業してますので出展はありませんがみなさんどうしてますかね回。こないだ卒業したOBがさっそく部活を見に来やがったよ的なアレをお楽しみください。

 

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【会期】2021.4/6(火)~4/11(日)

 

 

はい。2時間滞在したのですが、写真作品と動画映像作品をいくつか観て、説明聴きながら歓談してたらあっという間でした。映像・サウンドはほとんど鑑賞できていません。。OB歓談あるあるです。「せんぱいどうやったらシュート入るようになりますか?」「入れたら入るから、とにかく入れるんや」「ハイ!わかりました!ありがとうございます!」 とかね。うそです。

 

これまでの修了展レポは、できるだけ不公平感のないよう、かなり網羅的に取り上げていましたが、今回は特に気になった作品のみピックアップ。また、個展で既に発表済みの方については省略させていただき、完全に初見の作品のみでお送りしゃす。

 

 

◆展示の全体的なあれこれ

展示フォーマットが統一規格となった。

サイズ、マット、フレーム、組写真のレイアウトがほぼ揃えられている。これは最初からインスタレーションに走るのではなく、最もスタンダードな展示形態を身に着けさせるという、教育上の方針によるものだ。海外など遠方で展示する際に、作家が現地に立ち会えなくても、指示書で一定のクオリティの展示が可能となるよう、将来的な展開の拡張のことも考えられている。

 

これまでも表大では展示に対してかなりストイックというか、基本をしっかり踏まえないと展示許可が下りない方針だった。フレームなしで写真を直貼りするのはNG、ハレパネはNG、写真を床に置いたり積んだり散りばめるのはもっとNG。「作品としての"格"を備えたもの」「売買でき、今後もコレクターにコレクションしてもらえるもの」「美術館に収蔵されるもの」を、作家の基本姿勢として身に着けさせる教育方針であった。それが強化されていた。

 

シルバーフレームと白マットでの統一は、2017年頃の大阪芸術大学の卒展・修了展の統一感を彷彿とさせる。同校は後にかなり自由な展示スタイルへ舵が切られたが、大阪ニコンサロンで観たときのクラシカルな展示作法は校風として印象に残っている。

 

このスタイルだと作品の「ドキュメンタリー性」と「美術品としての形」の両面が保持される。手堅いので評価を著しく落とすリスクもない。その分、作品自体に個性や力がないと、他の出品者と似通ってしまって印象に残らない恐れもある。そこをどう乗り越えてゆくか。

 

 

では個別の作品について見ましょう。

 

 

◆佐々木久美《封じられた旅》

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佐々木さんの作品は、「編集」を巡る2つの意味において良かった。

 

一つは、作家個人に対する「編集」の意義だ。

作者の修了展への出展は、2017年度に入学して以来4度目となるが、今作は過去写真のストックからのセレクトである。しかも入学前に撮り溜められていたものだ。

作者は海外旅行が好きで、様々な土地を訪れて写真を撮っていた。それらの写真群を、学生時代に専攻していた文化人類学の視点で編集すること、それが入学当初に検討されていたテーマであった。

しかし他に優先して取り組みたいテーマ(実家で継承されてきた餅つきの文化や、五島列島の東端にある頭ヶ島でのキリスト教の歴史、母親が作ってくれる日々の弁当)があったため、過去の写真について言及される機会はないままとなっていた。

今回、それら写真群が手元のストックから「作品」へ昇華され、表へと出されたことは、実に良かったなあと。

 

二つ目の「編集」の良さは、世の中の動きをキャッチアップして応答するという、時間軸上の「編集」である。

外国を旅し、旅行者として滞在し、写真を撮ることは、これまでなら個人の娯楽の域を出ず、深い意味はなかっただろう。日本政府観光局の統計では、2019年の日本人出国者数は2008万人超と、海外渡航は何ら珍しいものではなかった。しかし2020年以降の新型コロナ禍では、「旅」や「移動」の意義が根底から覆された。基本的に「海外」はメディアやオンラインを介してでしか触れられない世界となった。

こうした意味の転換期に合わせて「海外」を特集するという、時宜を得た提示によって、鑑賞者は新たな気付きを得ることが出来る。写真自体は何も変わっていないのに、状況の変化によって意味が変わるのである。これは写真のメディア性、常に動態であることの特質だと思う。 

 

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写真は縦横3枚ずつの1フレーム9枚で組まれているが、中央の行は日本の光景で、その上下は海外である。そして縦の列で共通項ごとに小テーマのラベルが付され、分類されている。ただし分類項としては、例えば上の写真で言えば「団地」「仕事人」「ミニチュア世界」「仕事場」「布と伝統」「電線のある風景」といった風に拘束力は弱く、写真の意味を縛るものではない。

 

中央段の日本の光景は見事に溶け込んでいる。ぶっちゃけ言われて気付いたぐらいだ。

この溶け具合、「捉えどころのなさ」に何を見るか。

上下の海外の光景と何が共通しているのか、その探求を鑑賞者に促すことが重要だろう。穏やかなラベリングにより作者は何を見い出すのか。鑑賞者側がラベルを付すのに参加することも可能だろう。また、この手法なら無限に小テーマを付すことができ、同じ写真が複数回選出されることもありうる。枚数があればゲルハルト・リヒター《ATLAS》のような膨大な資料の集合として立ち上がる可能性もあるだろう。これからの展開が面白そうだ。

 

 

◆汤泽洋(湯澤洋)《我我(ワレワレ)》

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作者自身と同じ境遇の、日本に来た中国人留学生の生活を特集している。

天井近くから魚眼レンズを用いて、取材先の住人と生活の場の全体を俯瞰している。この画角での描写は成功していて、「中国人留学生」という捉えどころのなかった存在を、リアルな生活者として再発見することに繋がった。

作者は3年近く同テーマを撮っている。撮っている対象と場所は同じで、これまでは留学生の人物像や部屋の中を、写真家の一人称目線から親密にアプローチするものだった。

しかし本作は1枚の中に込める情報量を大幅に増やしたことで、その意味を変貌させた。作者の主観を離れて、生活空間と生活者が主役となった。鑑賞者側にとっては、普段立ち入れない私的な空間の見学させてもらう。つまり本作はドキュメンタリーのど真ん中をゆく作品だ。

 

私が思い知ったのは、「中国人留学生」の豊かさである。

 

豊かさとは、「実家の太さ」と言い換えてもよい。

何気に良いものが置いてある。ブランド物のバッグ、豊富な電子機器、趣味の品物、広い部屋・・・生活のために生活しているのではない、圧倒的に余裕がある。勉強もしながら、好きなこともやり、好きなものを手元に置いて生活している。取材時期はこのコロナ禍とも重なっているというのに、生活苦の様子がない。

作者から話を聴かせてもらうとより一層、そのことがはっきりする。実家からの仕送りだけで生活しているとか、次の留学先や勤め先が既に決まっていていついつに移る予定だとか、端的に、日本人大学生の境遇とは次元が違うのだ。

 

日本の大学生が、コロナ禍でバイトも失い、学生が困窮して生理用品を買えず、切り詰めて布などで代用していることが話題になった。これは極端な例なのだろうか?

日本人の若者にも裕福な層はいるとか、中国の富裕層は国民全体の比率から考えれば例外的な部類だとか、統計的な見方はあるかもしれない。しかし同じ教育水準の層における暮らしの実態をここまで見せられて、ようやく、日本社会の経済力が総合的に、世界の中で相対的に沈んでいることを、認めざるを得ない気持ちになってきた。本作の情報量は残酷だ。

 

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また面白いのは、彼ら彼女らの暮らしや住まいがものの数年で消えてしまうことだ。留学生だから、このまま定住するわけではなく、写真に写されたのは一時の仮の姿にすぎない。既に退去した人も多い。だが写真は「今」を凍結させるのでこれが固定的な状態であるかのように見える。現実の儚さとのギャップが興味深い。写真の真実は人間世界の真実とはまた別の枠組みにある。

 

 

◆関口貴良《瓶塚》

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光に透かした空き瓶と、山の中で転がったり埋もれている瓶とが交互に写し出されている。山中には廃村でもあったのだろうか。作者はうち棄てられた瓶を掘り出して持ち帰り、きれいに洗ってブツ撮りをしたようだ。

タイトルの通り、ガラス瓶=かつて山中にあった集落の営みを語り継ぐものという意味で、貝塚の「貝」と相似する。産業形態の変化や人口減少などによって、人の営みが消えた集落は、ガラス製品の型から年代や用途を推定すると、往時の姿が浮かび上がるかも知れない。

 

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また、ガラスを人工と自然のハーフのオブジェとして見なすのも面白い。人工的に大量生産された既製品が、自然と交わり、自然に還る過程の中で変形したり、洗っても取れない汚れを宿したり、植物が繁茂したりして、元の人工物とは別のモノになってゆく。

ガラスが土に還るには200万年ぐらいかかると聞いたことがある。その結果を見届けるのは、もう今の人類とは別の種族か、はたまたヒトは絶滅しているか。本作に写されたのはそんな人智を超えた壮大なサイクルの一端でもある。

 

 

◆福山雄志《送電塔》

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言わずと知れた送電用鉄塔。送電圧の高さや建設年代、送電方向によってその形状は異なる。全て同じようで、微妙に差異がある。言うまでもなくタイポロジー的な作品である。が、電線・送電塔と馴染みの深い日本の風景についての、ランドスケープの作品とも見ることができる。

 

と言うのもタイポロジーと見なしきることが出来なかったためだ。ベッヒャーと何が違うのか。

 

建築物の存在感とディテールの情報量が違う。

鉄塔の細さはユスリカのように繊細だ。建築物と見なすには細くて儚く、厚みがなく、遠近感を失っている。奥行きの無い「風景」とはまさに浮世絵であり、送電塔は和製ランドスケープではないか。

 

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鉄塔のボディの厚みや重量を増そうと思えばいくらでも出来たはずだ。大きなもので高さ70~90m、重量70~90トンになる。近付けば鉄の塊のハードコアな構造体だ。作者はあえて遠近感のない描写を選んだのではないだろうか。

 

ちなみに、電線や鉄塔を日本の原風景として、最もきちんと描いたのは『新世紀エヴァンゲリオンTVシリーズ版だと思う。風景です。ええ。

 

 

◆岡田登志夫《空からの出土品》

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前回では、飛行機の窓から眼下に現れた人工的な構造物を捉えていたが、本作では立ち位置を逆転させ、地上から空を見上げて、都市の人工物を空からの出土品に見立てて特集している。

 

青空と人工物だけの端的な組み合わせは、何だか90年代的で好きだ。「未来」への異様なテンションが漲っていた頃の都市と建築と写真を想起する。幸福でパワフルな近未来の三位一体。

懐かしい写真だ。

 

なぜ本作を観て懐かしいと感じたのか、ここに写された人工物自体が、どこか懐かしいフォルムをしている。80年代末~ゼロ年代に作られたものが多いのではないかと思う。青空の力を得て機械も若返ったのか。

現在の都市風景におけるベースは80~90年代に整備されて、いったん固定されていて、当時の面影を再発見することができるからではないだろうか。さすがに都市の中心部では企業主導で、盛んに超巨大な集客施設を軸とした再開発が繰り返されて一変したが、臨海部など周辺ではまだ設備が入れ替わっていないのだろう。

 

これを、昭和~平成の「近未来」という夢が出土した、と思うと、少し切なくて面白い。2021年、ひどい未来になりましたよ。

 

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◆楢井博《木概》

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樹である。

身をフェンスに食い込ませていたり、海を見下ろす断崖に生えていたり、老木を苗床として伸びていたり、いかなる条件下でもしぶとく繁茂してゆく、樹の生命力に着目している。

 

私が惹かれたのはフェンスに身を食い込ませている樹だ。フェンスに阻害されて、成長するにつれて身体の一部のように食い込んでしまった。フェンスは樹が生えたり大きくなる前に、人間が敷地の境界として設置したものだから、人間側のルールで正論を言えば、後から勝手にのしかかってきた樹の方が間違っており、身を退くべきということになる。

だが人間様の正論は樹には通じない。フェンスに噛みついている。無言で怒って抗議しているようにも見える。さすがの警察も、これを咎めることは出来ないから、噛みついたままにしてある。ただし侵食が度を過ぎると、樹はあっけなく切り倒されたり排除されてしまう。だから来月には消えているかもしれない。10年後も放置されているかもしれない。こういう、都市のどこかでぎりぎりと抗っている抵抗者は、重要なモチーフだと思う。

 

 

◆小塩睦子《陽だまりの物語》

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前作までと大きく異なり、手前の「美」のボケのボリュームが大幅に減少した。

作者のシリーズは2層レイヤー構造の作品で、手前のぼやけた自然の木々や花(=美のレイヤー)と、それを眼でかき分けた向こう側・背景に、人々の営みが写り込んでいる(=リアルのレイヤー)というものだ。手前の「美」のボリュームを厚く盛り込み、「リアル」は言われたら気付くぐらいに小さくさりげない、それが定型となっていた。

 

一変して本作は、普通のスナップ写真にかなり近付き、画面の上下どちらか半分は背景がそのまま見えている。かなり思い切った決断だ。例えるなら過剰な原色を塗りたくる90年代の蜷川実花が退色したフィルムを使うぐらい・・・

これは画面全体を覆っていた「美しさ」を、いったん削ぎ落とす作業に入ったのではないだろうか。美の武装を解くことは素の自己(写真)を認めることに繋がる。が、文法を自己破壊すると自分を見失うことにもなる。見失わないためには泳ぎ続けること、問い掛けと試行錯誤が必要なのだろう。手前の「美」のレイヤーは自然の美でないといけないのか、その「美」とは何だったのか、手前のボケの干渉は例えばオノデラユキ《真珠のつくり方》のような手法ではありえないのか、レイヤーの前後を入れ替えるとどうなるのか、等々・・・。

 

 

◆中沢久恵《仮面ひきこもり ー私の体験を通して見えたことー》

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こちらは動画作品。

夫が家にひきこもり状態となった作者は、専門のセラピストに相談する。「仮面ひきこもり」の特徴について説明を聴いているうちに、作者自身もその症状が該当することに思い当たり、夫と共にセラピーを受けることに。

 

相談先であり取材先となるのが、「狭山心理研究所」の主任カウンセラー:服部雄一氏である。

「仮面ひきこもり」というのは服部氏の提唱する症状で、対人関係を結び社会生活は送れるが、内面では他者に恐怖を感じていたり、本当の気持ちを隠して生きるといった「心が引きこもった状態」を指している。

なお、一般的にイメージされるような、物理的に籠城して外に出られない「ひきこもり」については、服部氏は自著の中で「社会的ひきこもり」と名付けて区別している。

 

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sayamacounseling.jp

 

「仮面ひきこもり」と「社会的ひきこもり」の相違点について、その発症のメカニズムや包含関係(前者が悪化すれば後者へと発展するのか、両者は別の症状なのか、後者を発症しながらも前者を有さない人もいるのか、など)は、私も全く不確かなのでここでは言及しない。

 

ただ動画内のインタビューでは「ひきこもり」について、服部氏は長年の研究と経験から、それが患者個人に責のあるものではなく、家庭環境、親子関係に端を発していると喝破する。

これは非常に面白い論だった。私は「ひきこもる」人というのは、所属組織の人間関係がややこしくなって面倒になったり怖くなったとか、生活のバランスを崩すぐらいハマるものが出来たために人生の優先順位が書き換わってしまったとか(オンラインゲーム依存症とかね)、セロトニンがどうのとか、あくまで個人に起因する症状だろうと思っていた。

 

親子関係、親からの愛情表現が正しく機能していなかった、仮面状態であったことが、親が何を考えているか分からない、他人が怖い、という形で「ひきこもり」の素地を形成するという。それは一因としてあるかもしれない。

  

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更には、そんな仮面状態の家庭環境を生み出す原因として、服部氏は日本の家制度や、感情表現を許さない日本社会の文化・風土に切り込む。論理展開が明快で、なるほど文化病という捉え方も出来たのか、と気付かされた。

どうしてもひきこもりは本人とその家族が個人的に責を問われがちだ。あるいはそうならないよう恐れて、人の目に触れないよう気配を隠す。それを広く歴史的・社会的な話として大きなフォーカスに切り替える語り方は、少しでも当事者の重みを散らしてくれるかもしれない。

 

 

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( ´ -`)

以上す。

 

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よかったですね。在校生の皆様とは飲みに行って仲良くなりたかったなあと去年から言うてますが、クラスター源になったらこわいので、結局なんとなくフワッと顔と名前が一致したぐらいの温度感でやっております。ぬうー。

 

「日本カメラ」も2021年5月号を最終刊として休刊しますし、Nikonは一眼レフ本体の国内生産をやめますし、「写真新世紀」も今年で最終です。これからの写真がどうなるんか知りませんが、写真の可能性が終わったわけではなく、誰もが「やりたい」と思ったときに学んで手にすることが出来ればなあと思う昨今であります。 

 

 

( ´ - ` ) 完。