nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】2026.3/4-4/4_キリコ「わたしの子宮」@ギャラリーヤマキファインアート

喪失の意味と、切断の機械について。

まずジョルジョ・デ・キリコではなく、写真家キリコである旨を断っておく。氏は「写真表現ラボNagy」主催者であり講師であり、作家である。

www.nagykobe.com

 

展示は大きく2構成で、1つは子宮摘出手術を受けることになった作者自身の記録としての、手術前後のセルフポートレイト、もう1つは医療廃棄された子宮を巡る喪失感、イメージの再構築としてのオブジェ作品から構成される。

 

共感が難しい、ということに自分でも戸惑いながら帰路についた。

そんなはずがない。これ以上ないぐらい分かりやすい喪失の物語で、共感ポイントが明確なテーマ、シチュエーションであるにも関わらず、容易ではなかったことに戸惑った。

 

想像、仮想を重ねようとしてみた。自分にとって子宮に比する臓器・器官が脅かされたことがあるか。命に係わる重大な疾患に見舞われたことはあるか。治療のためにシリアスな選択肢を選んだことがあるか。身体の重要な部位や機能を失ったことがあったか。等々、いくつか思い当たる経験と記憶を引き出してみる。もしくは近い状況のものを拡大・増幅して作者の境遇にシンクロしてみようと試みる。が、共感の試みは早々に失敗する。

 

セルフポートレイト群、その均一なスタイル、できるだけ揃えられたフォーマットが、こちらの私的な想像の増幅による介入を拒んでいるのだ。

フォーマットは、縦位置、作者自身の立ち姿、その時点での滞在場所の明示、その場ごとに必要とされる衣服と準備物、白い光のある窓、扉などの枠、を構成要素とする。制約は緩やかで、座り姿や娘の迎えの場面を挿入するなど部分的に可変するが、写真の四角に合わせて更に、扉や通路、廊下の硬質な枠も写し込むことで、強烈なダブルフレームの強度を有している。写真の中に更に写真があるような二重構造のため、テーマ・話題としては極めて私的な感情移入や共感を湧かせるものでありながら、映像空間としてはこちら鑑賞者側の私的さとは別の次元にある作品となっている。作者「わたし」はエレベーターの扉の向こう側の箱の中に立っている、声も手も届かない箱の中に。

 

もう一つ、本作が共感を催させるように見えて実は切断しているのが、日めくりカレンダーの裏に書かれた作者のテキストだ。

子宮摘出手術の前から毎日、綴られ続けてきたであろう作者の私的な言葉が目の前にあるが、実際に見せてくれているのは額装された「子宮摘出まで15日」と、束となって重ねられた最上段「子宮摘出から350日」の2枚=2日間だけで、あとは束の中、そして透明なケースに封じられている。

作者の私的な経験と思いの声は、我々に開示され与えられているように見えて明確に切断されている。

極めて私的な、重大な出来事でありながら、私的さでは手が届かないように本作のフレームは働いていて、その存在が無視できない。すなわちそのフレーム自体が作品となっていると見ることができる。セルフポートレイト群は、服装や場所からどこで何が起きているかを追うことはできるが、日付も付されておらず、表情で心理が正確に読み取れるものでもない。あるのは明確にフレームで、それは私的さ=個人を除外する。

 

作者は私的な物語、私性を語ることをしなかった。私写真を紡ぐことを「しない」という、大きな方向性の選択自体が既に作品である。すなわちフォーマットによって語ること、あるいは語れない真空部分を明らかにすることが作品なのだった。やろうと思えば幾らでも私情を盛り込んで私情・私景を語れたはずだが、日めくりカレンダーのテキストすら見せないところに構造的な意図があると思わざるを得ない。

作品の中身(=作家の言葉、身体、心情、体験)がそこに明らかにあるのに、フレームに弾かれてそれら中身には触れられないという構図があり、さらに言えば本作の意味を解すると、作者自身がまさに自分の絶対事であるにも関わらずその核心に自分の手(眼)を触れられない、というダブルフレーム構造が浮かび上がってくる。各写真の画面構成だけでなく、展示構成自体も、穴の周りを回らされているようなダブルフレームになっている。

 

辿り着けない真空に置かれているのが「子宮」である。作者は体から子宮を取り出された、この喪失=真空と見るのはまだ浅い。まず子宮自体を普段見ることができない、なので取り出される前もその後もその存在と喪失の差異を確認することができない。この静かさが一つ。そして取り出された後の子宮は、既に病院側で廃棄されたらしく、その姿を見ることはできなかった。「廃棄物」はまず一般廃棄物か産業廃棄物に2分されるが、更にそれぞれに「特別管理」廃棄物かどうかの分類がなされる。患者に由来するものは感染性廃棄物で特別管理となる。そのため診断根拠のための病理標本として保存するものを除いては廃棄業者に処理が委託される。例外はない。この早急で冷徹な離別・隔絶が一つ。

つまり作者は複層的な喪失を経験している。自分自身の身体、自分の命の重要な一部であるにも関わらず、命を守るための「適切な医療」を介することで、「私」は外科的に物理的に取り外された。更に制度的に「私」から完全に切り離され、触れてはいけないものになる。そして廃棄のプロセスに乗った「私」がいつどこでどのように処分されたかは不明である。専門業者が完全焼却、溶解処理を行い、完全消滅する。遺体と違って立ち会うことはできず、「私」に遺されるものもない。三重、四重の喪失がある。

 

本展示は、作者の心身に起きた喪失の体験と感情、そしてこの喪失の枠組み自体=「私」から切り離された後の身体・命が不可触の領域へと断絶されてゆくこと、この双方を表現しようとしている。が、フォーマットの指摘するものと問題の深さからしても、真の重さは後者にあるのに対し、テキストなどでは圧倒的に前者が主要に見える。このため鑑賞者は前者を読み取ろうとするし、作者の想いとしてもまさに前者に比重があるかに見えるのだが、作者が現実に直面しているもの、そして格闘してきた対象は後者に他ならないだろう。

このズレによって「共感が難しい」という鑑賞結果に至っていた。そのことに全体像に気付くまでには時間を要した。

 

喪失の枠組みに言及しているのがオブジェ作品シリーズだが、それらは失われた子宮のイメージ体で、1枚だけ残っていた検査記録画像を元にして作られている。ここでもう一つの心情が吐露される。自分の一部であったはずのものが、自分ものでないように感じられたこと、そしてこれまで一度も自分の子宮を直接見たことがなかったという気付きだ。

「子宮」を失ったという喪失感の話と、そもそも子宮と向き合っていなかった・存在を実感していなかったという回顧の認識を経て、摘出手術を主軸としたその術後のドキュメンタリー的記録という時間スケールから、特に術前の身体認識が延長される。「私」の体は一体どこにあったのか、誰のものだったのか。この揺さぶりによって過去と現在の双方向に失われていた身体=子宮を、再び自分の手に取り戻す行為としてオブジェは作られた。可愛いぬいぐるみやレンチキュラーやビックリマンシール風のキャラへ転換され拡散されている。

だがこれらにも共感を寄せるのは難しい。先ほどの複層的、重層的な喪失をもたらした構造・システムの話から別の話題が追加されたこと、特に作者自身の認識への内省へ向かおうとしていくため、鑑賞者は急には方向転換できない。姿なき子宮を仮想化して関係を再構築するくだりも、これは作者のこれまでの表現活動を知らないと容易には理解できない。

 

会場の「ギャラリーヤマキファインアート」Webサイトでは作者の過去展示の写真とステートメントが確認できる。2017年「mother capture」、2021年「school goods」だ。

gyfa.co.jp

今回の「わたしの子宮」に通じる部分を抽出すると、「mother capture」では自分以外の人物(母親になったばかりの友人ら)が子育てをする姿を作者不在の固定ビデオカメラで撮影したもので、不妊治療にのぞむ作者自身の葛藤や微妙な心情、希望や憧れを近くて遠い距離に、透明な眼差しで投射しているとみえる。「私」を透明化し、一定の距離を確実に保ちつつも「私の眼差し」をあくまで持つというスタンスは共通している。

また「school goods」では、幼稚園から小物を保護者が手作りするよう細かな指示を受けたことに疑問を感じ、母親の役割を要請する日本の伝統と母親の愛情の織り合わさったものとして手作りバッグ=「母のかたち」を石膏や刺繍作品で表現している。ここでは手作業の制作を通じて複数の想い、相反する状況などを一つの象徴物へまとめ上げていて、本作のぬいぐるみ等オブジェが果たす役割と似ている。

 

セルフポートレイト写真だけに注目すればフォーマットが主体で、それが内包しなかったものの切断面を見ることが重要となり、私性を断絶したものの正体を体現しようとする。だがオブジェ作品の多数の可愛いぬいぐるみ、キャラクター化した「子宮」は、からっぽで空転してしまった私性を埋め合わせるように駆動し、失われた子宮の存在感を作者に回復させるとともに、展示構成上失われた「私」の情感や想いを受け持ち、充填させる。全体でバランスがとられ、制度と心情との両立がなされていると言えるだろうか。

 

こうして展示構成と意味が理解できたが、巨大な不在・喪失を生み出す切断のシステムがそのままになっている。

作者がオブジェ作品で示した自己回復の手探りが、作者を満たすことに成功したのであれば、それでもうよいのだが、私が垣間見せられたものは依然としてそこにある。

作者―「私」を切断し、切断された「私」を物理的にも法的にもアンタッチャブルな存在へと瞬時に切断せしめる超硬質ガラスのシャッターが、まるで有罪判決宣告機械のように働くのだが、それはこの世界で空気のように溶け込んでいる。そんなイメージが獲得されてしまった。

これは恐らく90年代の臓器移植法案の議論(1997年成立)、ゼロ年代の改正案の議論(2010年改正)でも折に触れて問われてきた、「”私”とは誰のものなのか」という生権力の問い掛けそのものだったのだ。臓器提供意思表示カードを持つことに慣れてしまってすっかり忘れていたが、透明な切断シャッターが実在することを改めて思い出させられた。

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最後に、本展示の作者ステートメントをWebサイトから転載する。

2025 年 3 月 4 日、ひな祭りの翌日、私は子宮を摘出した。
本作は、その経験を起点に制作された「セルフポートレイト」と「オブジェ」の二つのシリーズから成る。
子宮を失うことは、単なる医療行為ではなく、身体と心に深い断絶をもたらした。しかし時間とともに傷は癒え、日常は何事もなかったかのように続いていく。誰にも気づかれず、自分自身さえ忘れてしまいそうになる——その曖昧さの中に、「生きる」感覚が立ち上がる。
手術前後を撮影したセルフポートレイトでは、写真に写らない臓器の不在を、連続する時間の中の微細な変化として捉える。一方オブジェシリーズでは、廃棄された「わたしの子宮」を、医療写真を手がかりに立体として呼び戻す。再構築の行為そのものが、喪失と共に生きるためのプロセスとなっている。
本作は、失われたものを忘れず、これからを生きるために制作された。

 

完。